一 疑念
龍が消えた瞬間、シェリルの膝が折れた。
地面に片膝をついた。眩暈がした。視界が揺れて、星が近くなった気がした。意識はある。ただ体が言うことを聞かなかった。
これだけの規模の術式を継続して展開すれば、魔力の消耗がこうなることは計算に入っていた。入っていたが、体で受けると話が別だった。
遠くで篝火が動いている。王国軍がこちらへ向かってくる。
クレイが馬を引いて駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか」
「問題ないわ」とシェリルは言った。膝をついたまま言った。
「問題ない、には見えませんが」
「すぐ動ける。一刻も早くここを離れた方がいい」
クレイが頷いた。従弟が馬を引いてきた。シェリルを馬に乗せようとして、一瞬だけ躊躇した。女性に触れることへの遠慮か、あるいは別の何かか――手が止まった。
「気にしないでいい」とシェリルは言った。
「では……失礼します」従弟が、シェリルの腕を支えて馬に乗せた。
三人は馬を返し、ロズウェルへ向けて、夜の街道を戻り始めた。
山道に入る手前で、シェリルは一度だけ振り返った。
盆地の方角から、別の馬の音がしていた。
シェリルたちが山道に消えてからほどなく、盆地の縁に人影が現れた。
松明を持った数人。
霧が消えていた。影が消えていた。龍の気配が、どこにもない。畑が荒れた跡だけが残っていた。
「副団長、あれは一体」と後ろの部下が言った。
男は答えた。
「術者不在の召喚獣が、元の世界に帰された」
「帰された、というのは――誰かが」
「そういうことだ」
男の名はベルナルト・ライアス、エレシアの王都・リーヴィン魔法師団の副団長だ。四十代、体格がいい。明るい顔をしているが、今は少し険しい。
魔力の方向を辿ってここまで来た。盆地の外れ、山道の入口あたりから強大な魔力の痕跡が始まって、この場所で終わっている。ここで術式が展開されたのは間違いない。ただ術者の姿はない。僅かばかりの手がかりを探るべく、ベルナルトはしゃがんで地面を見た。部下の者が松明を近づける。草が一部、魔力の余波で変色していた。規模がわかる。
「調査だけなら上級の上位でも対応できるかもしれん」と部下が言った。「ただ、ここまでやるのは――」
「特級案件だ」とベルナルトは言った。
静かになった。
「特級、ですか」と別の部下が言った。「しかし本国最後の特級魔法使いは――」
「二十四年前に高齢のために引退している」とベルナルトは言った。「その後の消息は不明だが、もう生きてはいないだろう」
部下が黙った。
ベルナルトは地面の変色した草を見ていた。
生きているのか。
それとも。
ベルナルトは立ち上がった。夜の盆地を、もう一度見渡した。
龍の霧は晴れた。畑の上に、星が見えている。
「新星、か」と、小さく言った。独り言だった。
馬を返す。龍の霧は晴れたが、新たな霧がベルナルトの頭の中に立ち込めてきていた。
――
帰路に入って一刻ほど経つと、眩暈は引いていた。
膝をついたあの瞬間の消耗は、一時的なものだった。魔力の回復はまだ先だが、体そのものは動く。ただ疲労は別の話だ。慣れない馬で片道十八リーグを往復している。
術式を展開している最中は不思議と疲労を感じない。魔力に意識を集中しているとき、体の感覚が遠くなる。しかし術式が終わって、意識が戻ってくると――全部まとめて返ってくる。
それでも馬を進めながら、シェリルはクレイの横に寄せた。
「この依頼は、王都からですか」
クレイが少し驚いた顔をした。
「いえ。リドリウスに住んでいる依頼人の姉からの、個人的な報告という形で来た依頼です」
「ということは」とシェリルは言った。「王都に直接報告する義務はないはずね」
クレイが少し考えた。
「……そうなりますね。ただあの篝火の集まり方は、別ルートで王宮の軍に報告が回ったのでしょう」
「ということは、いずれ王宮から探りが入るということね」とシェリルは言った。「ただそれでも時間は稼げる」
少し間があった。
「もし探りが入ったなら――」シェリルは言葉を選んだ。「嘘をつかなくていい。特級魔法使いを名乗るものが来た、とだけ言ってもらえれば。ただ」
クレイを見た。
「私の名前は、出さないでほしい」
申し訳なさそうな顔だった、とクレイは後から思った。
「わかりました」とクレイは言った。「名前は出しません」
馬を返却し、シェリルはクレイと従弟と別れ、一人になった。
夜明け前の通りは静かだった。宿へ戻る道を歩きながら、空を見た。まだ暗い。日が昇るまで、少し時間がある。
通りの角に、明かりがついている酒場があった。
扉を開けた。店内に一人居た男性と入れ替わるように店に入る。地場のワインを一杯頼み、カウンターの隅に座って、グラスを持った。
シェリルは最初から少し眠るつもりで飲んだ。考え続けていた頭が、ここで少し休みを求めていた。
マスターが、カウンター越しにシェリルを見た。
「お客さん」と言った。「女の子一人で、あまりにも無防備ですよ?」
「問題ないわ」とシェリルは言った。グラスを傾けながら、少しだけ顔が赤くなっている。
ワインは酸味が強くて、悪くなかった。
気がついたら、シェリルは眠っていた。
朝が来た。
酒場に男たちが入ってきた。朝から一杯やる常連らしい顔をしていた。カウンターの隅で眠っている女に気がついた。何人かが目配せした。
一人が近づいた。
シェリルの豊かな濃紫の髪に手が伸びた。
が、次の瞬間、男は後退していた。
何かに押し返されたような感覚だった。見えない壁、というより――息が詰まるような圧だ。もう一人が試みた。同じだった。男たちが顔を見合わせた。誰も、それ以上近づかなかった。
それから程なくし、シェリルの目が開いた。
カウンターの上のグラスが空になっていた。外が明るい。男たちが遠くの席にいた。こちらを見ていない顔をしていた。
シェリルは立ち上がった。マスターに金貨を一枚置いた。
「釣りは要らないわ」
マスターが目を丸くした。ワイン一杯の代金の何倍もある。
シェリルは扉を開けて、朝の通りに出た。
宿の部屋の扉を開けた。
ラフィスが起きていた。窓際に座って、外を見ていた。
アノリスはまだ眠っていた。前日の賊との戦闘が、いつもより少し体に残っているのかもしれない。静かな寝息が聞こえた。
シェリルは荷物を置き、ラフィスと目が合った。
「早かったな」とラフィスが言った。
「片付いたので」
「無事か」
「――疲れたわ」
ラフィスが立ち上がって、シェリルの隣の椅子を引いた。何も言わずに、ただそこに置いた。
「顔が赤いぞ」
シェリルは椅子に座った。少し足元が覚束ないのは、疲労だけではなさそうだ。




