八 血の叫び
指先が依然として細かく動いている。術式の構造が、頭の中で積み上がっていく。
顕現空間の位相構造――どこに境界があり、どこが現実空間と接続していて、どの点を収縮の起点にすれば最も効率よく空間全体を潰せるか。それが見えてきていた。
クレイと従弟が馬を数歩引かせて、こちらから距離を置いていた。二人とも顔が青い。
「あの……」クレイが言った。「先ほどから、空気が」
「圧がある」と従弟が言った。震えた声だった。「あなたから、すごい圧が」
シェリルは自分の周囲を確認した。術式の構築に集中するあまり、やはり魔力の制御が外側に漏れていたらしい。
「下がっていて」とシェリルは言った。「これより先は巻き込まれる、さっきの通り危険だと思ったら逃げること」
二人が頷いた。それ以上何も言わなかった。
シェリルは龍に向き直った。
それから数十秒後。
龍が近くにいた。
霧と影の輪郭が、目の前で揺れている。翼が広がると、その風圧が顔にかかった。目を細めながら、シェリルは龍を見た。
大きい。間近で見ると、その存在感が全く違った。魔力の密度が肌の上を走っている。体の芯が、圧に反応している。
それでも、足が動かなかった。後退する理由がなかった。
「帰れないのね」
声に出した。龍には届かない。言葉は通じない。わかっていた。ただ言わずにいられなかった。
「私で良ければ、今、帰してあげる」
龍が止まった。
翼の動きが止まった。ぼやけていた霧の輪郭がわずかに形をあらわす。縦長の瞳が、シェリルをまっすぐ見ていた。
言葉は通じていない。それでも、何かを察したように龍の力が抜けた。肩の力が、というような表現が使えるなら、そういう抜け方だった。
長い時間、行き場をなくして、ここに留まり続けた疲労が、その目に見えた気がした。
今だ。
シェリルは術式を解放した。
莫大な魔力が、指先から走った。
体の奥底から引き出す感覚、普段の術式とは規模が違う。継続した時間を伴う魔力の解放――最後にこれだけの規模を出したのはいつだったか。龍を相手にした日以来かもしれない。あのときとも、また違う。あのときは戦闘だった。今は違う。
エーテラリスの血が燃えていた。
理論が、術式になる。紙の上に書いた式が、現実の空間に展開される。収縮写像の起点が定まる。顕現空間の境界が術式の中で可視化される。どこを押せば空間が潰れるか、どの順番で収縮させれば使い魔が最も自然に退去できるか――全部、頭の中にあったものが今、己の手の中に在る。
いつも冷静なシェリルの目が、殺気立っていた。
殺気、という言葉は正確ではないかもしれない。ただクレイが後退した理由はこれだ。研究者の顔ではなかった。魔法使いの、本当の顔だった。
龍の空間が、収縮し始めた。
境界が内側へ向かって押されていく。霧の輪郭が薄くなる。影の濃さが薄れていく。翼の形が、少しずつ見えなくなっていく。
龍はおとなしかった。
戦闘で誅した龍の時よりも遥かに長い時間、魔力を解放していた。
龍は抵抗しなかった。術式に逆らわなかった。収縮する空間の中で、ただ静かにそこにいた。
シェリルは術式を緩めなかった。緩めれば崩れる。ここまで来たら最後まで押し切る。魔力の残量を頭の片隅で計算しながら、収縮の速度を維持し続けた。腕が重くなってきた。指先が痺れてきた。それでも止めなかった。
その刹那、
大人しい龍に向けて、シェリルは叫んだ
「いやああああぁぁぁぁぁっっっっっっ!!!!!!!!!!!!」
この華奢な女性から発せられたとは思えぬ凄まじい叫び声。
それに呼応するように、龍の輪郭が、夜の闇に溶けていく。
やがて、見えなくなった。
霧が消えた。影が消えた。翼の風圧が消えた。盆地に、夜の静けさが戻ってきた。
シェリルは指先を下げた。
息が上がっていた。膝が笑いそうだった。魔力の残量が、普段では考えられない水準まで落ちていた。
そのとき、
「ありがとう」
声の主は定かではなかったが、瞳の中の霧が晴れる直前に、聞こえた。




