七 暴走顕現
ロズウェルに来て四日目の夕刻前、シェリルは東へ向かっていた。
隣を馬で並走しているのは二人だ。一人は依頼主の商業組合代表が寄越した付き人で、名をクレイといった。三十代、実直そうな顔をしている。聞けば中級クラス二の魔法使いだという。知見は多くないが、魔力を持つ者をそばに置いておきたいという依頼主の判断だった。もう一人は依頼主の従弟で、道案内を兼ねている。
目的地はリドリウスという街だ。ロズウェルから東へ十八リーグ。一リーグは人の足で一時間ほどの距離。十八リーグは馬で半日程の距離。
馬は、まだ得意ではない。
ラフィスに教わった。旅の途中で何度か乗ったが、完全に御せているとは言えない。手綱の加減が難しい。馬がわずかに進路を変えるたびに意識がそちらに向いて、頭の中の計算が途切れる。それが地味に不便だった。
街道は東へ向かうにつれて傾斜が出てきた。山岳地帯に入る手前で、クレイが声をかけてきた。
「山越えがありますが、街道は整備されています。荒れてはいないので」
「わかったわ」
緩やかな山岳街道だった。馬の歩みは遅くなったが、道が整えられているおかげで危険な場面はなかった。ただ馬の疲労は積み重なっている。途中、二度ほど休ませた。
山を越えたのは夜に入ってからだった。
峠を抜けた瞬間に、わかった。
魔力の密度が、残滓とは呼べない水準になっていた。肌ではなく、体の芯に届いてくる。術式の感知が自動的に反応して、発生源の方角と規模を計算し始めた。
シェリルは馬を止めた。
夜の闇の中に、それはいた。
山の向こうの盆地に、白く発光するような輪郭が浮かんでいる。翼を持つ、大きな形だ。霧のように輪郭がぼやけて、影のように光を吸っている。両方の性質が混在していた。動くたびに周囲の空気が乱れて、低い地鳴りのような音が断続的に届いてくる。
「あれが」とクレイが言った。声がかすかに震えていた。
「そうね」
盆地の縁に、篝火が並んでいた。王国の騎士団と魔法師団が展開しているようだった。隊列を組んで龍を包囲しているが、攻撃はしていない。
正しい判断だ、とシェリルは思った。
召喚魔法で顕現した使い魔は、物理的な攻撃では退散しない。剣で斬っても、炎で焼いても、使い魔の顕現そのものには干渉できない。魔法師団もそれを理解しているのだろう。無闇に攻撃する様子はなかった。ただ包囲して、様子を見ている。
龍の動きを観察した。
翼を動かすたびに突風が起きて、周囲の畑が荒れている。霧のような体が広がって、盆地一帯を覆い始めている。ただ――住人そのものに向かっていく動きはない。家屋を踏み潰すでも、人を追うでもない。狂暴ではない。それが、かろうじての救いだった。
「分離なら上級術師でも行けるかも知れない。ただ鎮めるのは特級案件よ」とシェリルは言った。独り言に近かった。
クレイが隣で息を呑んだ。
術者の制御を離れた使い魔が、自分の意思で動いている。ただし害意があるわけではない。召喚されたまま繋ぎ止めていた術者との接続が切れて、行き場をなくしている。
もはや術者は生死不明、無事ではないだろう。これだけの規模の召喚獣が暴走して、接続を保ち続けられる術者はいない。接続が切れた衝撃が術者に返っている。
シェリルは馬上で指先を動かした。
論文で書いた内容を、頭の中で反芻する。
使い魔が自らの意思で顕現を解くためには、自然退去率――論文ではσと置いた変数――を増大させる必要がある。σが閾値を超えれば、使い魔は自分から去る。それが最も安全な解決だ。
ではσを増大させるにはどうするか。
答えは論文の中にも書いた。対話だ。
術者が使い魔と意思を通じさせることで、使い魔は「役目が終わった」と理解して退去する。何十年も続いてきた儀式がそれだ。召喚した術者が龍と対話して、山の霊気の浄化が終わったことを伝える。それで龍は消える。
しかし術者は意識がない。
対話ができる者がいない。
私でも対話は不可能だ。召喚魔法は専門ではない。使い魔との意思の疎通は、召喚した術者との間にしか成立しない。外部の人間がいくら語りかけても、使い魔には届かない。
では対話なしにσを上げる方法があるか。
ない。
少なくとも、現時点では確立されていない。
であれば残る選択肢は二つだ。
顕現空間を収縮させるか、現実空間から強制分離するか。
収縮は、顕現空間の構造をリアルタイムで読み取りながら写像を構成する必要がある。
これだけ大規模な顕現を夜の野外で、術者なしで――難度が高い。ただ術者への追加ダメージは比較的軽微。
強制分離は、接続点を断ち切る。単純だ。ただし衝撃が術者に返る。すでに倒れている術者に、さらなる負荷が加わる。
シェリルは夜の盆地を見た。
龍が翼を動かした。突風が篝火を揺らした。騎士団の隊列が少し乱れた。
術者の状態を確認してから判断する。それは変わらない。
ただ――
あの龍の顕現の構造を、もう少し近くで見たかった。収縮写像を構成できるかどうかは、顕現空間の位相構造を把握してからでないとわからない。
馬を進めかけて、シェリルは止まった。
騎士団の篝火を見ていた。
あそこへ行けば話が立つ。ロズウェルから来た魔法使いが、騎士団も手を焼いている召喚暴走を解決した――それだけで噂になる。首都リーヴィンに入る前に自分の存在が広まるのは避けたかった。
エーテラリスとしての名前は、すでに各地に知られている。大陸魔法協会への論文を通じて名は表に出ている。しかし特級魔法使いであることは、意図的に表沙汰にしていなかった。関所の兵士を黙らせる程度には使うが、それ以上は困る。
騎士団に取り次いでもらう必要はない。
シェリルはクレイの方を向いた。
「少し待って」
「何をするつもりですか」
「あの使い魔を、こちらに引き寄せてみるわ」
クレイが黙った。
「できるかどうかわからない」とシェリルは続けた。「召喚魔法は専門ではないので。対話は不可能だけれど、魔力を送ることはできる。それに反応するかどうかは、やってみないとわからない」
「引き寄せてどうするんですか」
「鎮めるわ」とシェリルは言い、馬から降りた。
クレイが止まった。
「……鎮める、とは」
問うたのはシェリルにか、それとも自問か、判別できないような声。
「そのためにここまで来たので」
クレイはしばらくシェリルを見ていた。夜の盆地を見た。霧と影が混在した龍が翼を動かして、篝火の列が揺れている。騎士団が手を焼いて包囲しているだけの、召喚暴走の使い魔を。それを見てから、またシェリルを見た。
旅装の、二十代の女が一人、指先を動かしている。
「一人で、あれを」
「今のところそのつもりよ」
「……方法は」
「まだ確定していないわ。見てから判断する」
クレイの口が少し開いた。閉じた。また開いた。
「特級魔法使いというのは」と、ようやく言った。「本当にいるんですね」
「いるわよ。今ここに」
「都市伝説だと思っていました」
「よく言われるわ」
クレイは盆地をもう一度見た。それからシェリルを見た。何かを言おうとして、言葉が出てこない顔をしばらく続けた。
「……わかりました」と最終的に言った。諦めに近い声だった。「ご随意に」
「クレイさん、従弟の方も」とシェリルは言った。「危険を感じたら逃げてください」
「え」
「龍がこちらに来ます。穏やかならいいですが、不測の事態が起こる可能性があります。巻き込みたくない」
「しかし依頼主から、あなたのそばを離れるなと」
「一人でも帰れるわ。道は覚えたので」
クレイがシェリルを見た。
冗談を言っているのかどうか測るような目だった。シェリルは前を向いたままだった。
「……離れません」
これから危険な術式を展開する。きっと何が起こるのかが分かっていない。これ以上説明するのも無意味か。
霧と影の龍に魔力を送り込みながら、シェリルは念じた。
――こっちに来て――
言葉ではない。意思でもない。ただ、魔力の流れに方向を持たせた。引き寄せるように、細く、しかし途切れないように送り続ける。
龍が動いた。
翼が止まっていた。霧のような体が向きを変えて、こちらへ少しずつ近づいてくる。ゆっくりだ。急いでいない。追ってくるのではなく、引き寄せられているという動き方だ。
穏やかだ。
シェリルは解析を続けながら、龍の挙動を観察した。
暴走しているとはいえ、住人を傷つける動きをしていない。魔力の流れに素直に反応している。根の部分が穏やかな使い魔だ。
それがわかった瞬間に、選択肢が確定した。
収縮法でいける。
顕現空間の位相構造を解析して、収縮写像を構成する。使い魔が存在する顕現空間を、術式によって一点に圧し潰す。急速ではなく段階的に。使い魔は顕現の場を失って、自然に退去する。
もしこの龍が狂暴であれば、強制分離を選んでいたかも知れない。顕現空間の内部構造を解析する必要がない分、難度は収縮法より低い。ただ――
分離法には代償がある。
術者から制御が離れているとはいえ、使い魔の顕現が解かれたという事実は術者に帰ってくる。魔力の逆流として。衝撃として。収縮法は顕現を段階的に減衰させるので、その衝撃も緩やか~それでも過大だが~。しかし強制分離は文字通り使い魔の存在する空間を切り離す。逆流する衝撃の規模が比較にならない。
これだけの大きさの使い魔を召喚して、暴走させた上に空間分離まで行えば――術者への衝撃は、理論上の計算だけでは説明がつかない。「無事ではない」ではなく、確実に死ぬ。
術者はすでに無事ではないとわかっている。それでも、避けられるなら避けたい。
そしてもう一つ。
エーテラリスとしての血が、最高潮に騒いでいた。
抑えが利かなかった。
収縮写像を術式として実際に構成する機会が、今ここにある。論文で理論として書いた。式として記述した。ただそれはあくまで理論だった。実地で試せる対象がなかった。大規模な召喚暴走など、そう簡単に起きるものではないからだ。
それが今、目の前にいる。
しかも穏やかな使い魔だ。収縮法が適用できる条件が揃っている。顕現空間の位相構造を解析して、収縮写像を組んで、空間ごと一点に潰す――理論上は可能だと書いた。
では実際には。どれだけの術式規模が必要か。どの段階で使い魔が退去の閾値を超えるか。解析にどれだけの時間がかかるか。全部、実地でしか確認できないことだ。
成功すれば、世界初の実証になる。
召喚暴走に対する収縮法の適用。前例がない。記録がない。やった者がいない。
やらない理由がどこにある。
指先が動いていた。気がついたら動いていた。術式の下準備を、体が先に始めていた。シェリルは自分の指先を一瞬だけ見た。
これだけの規模の術式を、夜の野外で、一人で、前例なしに展開する。失敗した場合の影響が読めない。収縮が不完全なまま術式が崩れれば、顕現が強化される可能性もある。
怖い。だから指先が動く。
胸の中で何かが沸騰していた。研究を始めてから今まで、これほど強く感じたことがなかった。ヒルビット卿の書庫で初めて算術と魔法の接点を見つけたとき以来かもしれない。いや、あのときより強いかもしれない。
あのときは紙の上だった。今は目の前に龍がいる。
来て……もう少しこちらへ。
魔力の流れを強めた。術式の精度を上げるために集中した。
気を抜くと余分な魔力が漏れそうだった。それほど、内側が昂っていた。
篝火の列が動いた。
龍がこちらへ向いたことで、王国軍がこちらに気づいたようだった。いくつかの篝火が移動している。ただ向かってくる気配はない。
問題はここから先だ。
顕現収縮を発動すれば、莫大な魔力が漏れる。夜の野外で、この規模の術式を展開すれば、魔法師団が検知しないはずがない。発生源を特定される。
どのみち、ばれる。
首都リーヴィンに入るまで特級であることを表沙汰にしたくなかった。ただ、いつ明るみに出るかという時期の問題でしかなかった。今夜がその夜になるだけだ。
いいわ。
構わない。
龍が近づいてくる。霧と影の輪郭が、夜の空気の中で揺れている。魔力の密度が上がっている。体の芯まで届いてくる。頬に当たる夜風が冷たかった。それだけが、今の自分が地面に立っていることを思い出させてくれた。
シェリルは指先を動かした。
空間解析を始めた。




