六 法剣
二日目の出勤は、最初から空気が違った。
裏口から入った瞬間にわかった。控え室が静かすぎる。出勤してきた娼婦たちが化粧をしながら話をしている時間なのに、誰も口を開いていない。
化粧台の前に座っている女が一人、鏡を見ているようで見ていない目をしていた。
アノリスは更衣を済ませながら、室内を見渡した。
人数が足りない。
今日は七人で回す日だが……
「サーヤさん」
サーヤが顔を上げた。昨日と別人のように青ざめていた。
「ミシュエルが来ていないの」
声が低かった。アノリスは返事をする前に、サーヤの顔をもう一度見た。青い、ではない。怯えている。
「何があったか教えて」
サーヤは少し迷った。それから声を落とした。
「昨夜、帰り道で攫われた。この街の賊組織よ。朝方、仲間の一人が店に来て言っていった。返してほしければ言い値を払えって」
アノリスは黙って聞いた。
「マリアさんは今、組合の人と話してる。でも賊の要求額が――」サーヤが唇を噛んだ。「簡単には出せない額なの。交渉が長引けば、ミシュエルが――」
続きは言わなかった。言わなくてもわかった。
「場所はわかる?」
サーヤが顔を上げた。
「……倉庫街。街の東端。以前、客から聞いたことがある。あの組織が使っている場所があるって」
「詳しく教えて」
サーヤが語る場所の特徴を、アノリスは頭に入れた。東端の古い倉庫が並ぶ一帯。夜は人通りが途絶える。組織の人間が常時いる。
ここまでスラスラとサーヤは口にしたが、ここでふと違和感に気が付く。
「あなた、まさか」
アノリスは語気に力を込めた。
「乗り込んでやる」
「一人で?」
「呼べる人間がいない。時間もない」
サーヤが何か言おうとした。アノリスはそれより先に気がついた。
「……ヴェントラーゼ、置いてきた」
ドレスに帯びるものではないと宿に置いてきていた。それを今日に限って悔やんだ。
「なら取りに行けばいいさ」
マリアの声だった。
振り返ると、控え室の入口に立っていた。いつから聞いていたのかわからない。交渉の場から戻ってきたのか、表情が仕事のときとは別の顔をしていた。
「状況は聞いていた」マリアは言った。「金の話は私がやる。でも、あなたに賭けてみてもいいわね……金の話なら長引く。ミシュエルの無事が保証されていない」
マリアは酒場でアノリスの身分を把握していた。
「よし決めた。あなたを中級魔法使いクラス六として依頼する」
サーヤをはじめ、他の女たちも一瞬「えっ?」という顔をした。
「ミシュエルを取り返してきて。報酬はそうね……男がミシュエルとの夜を買うのと同じだけ、金貨三枚でどうかしら」
アノリスの表情がキリっと引き締まった。
「わかりました」
「どうか無事で…ミシュエルを、頼みます」
――宿まで走った。
部屋に飛び込んでヴェントラーゼを取った。腰に帯びた。鏡を見た。
濃い赤のドレスに、細身の剣が一本。何とも不釣り合いだった。
ただ、今はどうでもよかった。
走りながら、アノリスは頭を整理した。相手の人数は不明。倉庫街の地理も詳しくない。一人で乗り込むには情報が薄い。ただ時間をかければかけるほど、ミシュエルに何かされる可能性が上がる。
アノリスの足が速くなった。
「燃えてきた」
口から出たのは、気がついたらだった。怖い。怖いから足が動く。それでいい。
――
倉庫街は薄暗かった。
日が傾きかけていて、建物の影が長く伸びている。人通りが消えていた。荷馬車の轍だけが残っている石畳に、アノリスの足音だけが響いた。
サーヤから聞いた特徴と照合しながら進む。古い木造の倉庫が並ぶ一帯。外壁に赤い印がある建物――あった。
扉の前に男が二人立っていた。
見張りだ。アノリスを見て、最初は何事かという顔をした。赤いドレスの女が一人、剣を帯びて歩いてきた。状況を理解するのに数秒かかった。
「何だお前」
「ミシュエルさんを返してください」
男たちが顔を見合わせた。それから笑った。
「女が一人で来たのか。度胸あるな」
「返してくれれば、すぐ帰ります」
「帰れ帰れ。ここは――」
男の一人が手を伸ばした。
アノリスはその手首を掴んで、ひねった。男が声を上げた。もう一人が動いた。ヴェントラーゼを抜いた。鞘から刃が出た瞬間に、斬撃魔法を乗せた。刃に魔力が走る。
男の腕を浅く斬った。深くはない。ただ、出血を伴った。
「な――」
アノリスはその男の姿も見ずに、扉の前に進む。
「中に入ります」
――バァン!!!
丁寧な言葉とは裏腹に、アノリスは扉を派手に蹴った。
中は広かった。
荷物が積まれた倉庫の中に、男が五人いた。勢いよく扉が開いた音で全員がこちらを向いた。
奥の柱に、縄で縛られた女がいた。ミシュエルだ。顔に痣がある。意識はある。ドレス姿のアノリスを見て、目が大きく開いた。
「おい何だ、誰だ」
男の一人が立ち上がった。体格がいい。手に鉄の棒を持っている。
「紅淑館の受付です、ミシュエルさんを迎えに来ました」とアノリスは言った。
男たちがまた笑った。
「あの店の受付だと?見ない顔だな……店から取り戻しに来たのか。たった一人で?」
アノリスが涼し気に、
「そうです」答えた。
「いい度胸だ。ただで帰れると思うなよ」
男が踏み込んできた。鉄棒を横に振る。アノリスは下に潜った。膝を折って滑り込み、男の脇を抜ける。立ち上がりざまにヴェントラーゼの峰で脇腹を打った。男がうめいて膝をついた。
「ふごっ……」
それを見た残り四人が動いた。
「この野郎!いやこのクッソアマか!やっちまえ!ぶっ殺せ!」
二人が正面から来た。一人が右から回り込む。一人が離れて様子を見ていた。
正面の二人にヴェントラーゼを向ける。間合いを広く取り、斬撃魔法を乗せたまま横に薙ぐ。刃が空気を切って魔力が弧を描く。二人が止まった。右から来た男をかわしながら、肘を顎に当てた。
……だいぶ鈍い音がした。当たり所が良すぎたようで男は床に伏し、のた打ち回っている。
それからもアノリスは倉庫の中を動き続けた。止まらない。止まれば囲まれる。
男たちは喧嘩慣れしていた。連携が荒削りでも、数で押してくる。アノリスの腕に一発もらった。棒ではなく拳だったが、それでも痛かった。
燃える。
痛いと怖いが混ざって、足が速くなる。ヴェントラーゼへの斬撃魔法で斬る。峰で打つ。流血させる。殺さない。ただ動けなくさせる。
四人目が倒れた。
残った一人――最初から様子を見ていた男――が、ミシュエルの縄を掴んだ。
「動くな。この女に何かされたくなければ」
アノリスは止まった。
男とミシュエルを見た。ミシュエルが目でアノリスに何かを伝えようとしていたが恐怖のあまり声が出ない。わからない。
アノリスは観念した……振りをして、ヴェントラーゼを下げた。
男が少し安心した顔になった。
その瞬間に、アノリスはヴェントラーゼに風魔法を宿した。
広域ではない。局所だ。刃の先端から、倉庫の中の空気を一点に向けて収束させる。狙いを絞る。男の足元だけに。
解放した。
――ビュウウゥゥッ!!――
突風が床を走り、男の足が払われた。体勢が崩れる瞬間、ミシュエルから手が離れた。
アノリスはその隙に踏み込んだ。男の腕を取って、地面に押さえ、ミシュエルを縛っていた縄を斬撃で解いた。
「ミシュエルさんを頂いていきます。昨晩はいい夜を過ごされましたか?店外での行為は通常料金の十倍頂いております」
男は静かになり。
「……ヤッてねぇよ、今晩楽しもうと思ったのに――」
言い終わる直前、アノリスは斬撃魔法を剣を通さずに近接で直接、男の足に放った。深手には勿論しないが、追いかけてこられないようにした。
アノリスは立ち上がって、倉庫全体を見渡した。男たちが床に転がっている。動いている者はいない。
息を整えて、ミシュエルの元へ歩いた。縄を解く。
「ミシュエルさん、でしたか」
彼女はアノリスを知らなかった。アノリスの初出勤の日は遅番で、姿はみたものの遠巻きにしか確認していなかったのだ。初対面のようなものだ。
「……あなた、誰」ミシュエルがかすれた声で言った。
「紅淑館の受付です。昨日からお世話になっている、アノリス・アリアシストといいます」
ミシュエルがアノリスを見た。赤いドレスに、血が少しついている。剣を腰に帯びている。
「受付が……来たの」
「はい」
「一人で」
「はい」
ミシュエルがしばらく黙った。それから小さく笑った。痣のある顔で笑った。
「私、怒っていましたので」
アノリスはミシュエルの肩を支えて立ち上がらせた。足元がふらついている。引きずって連れていく形になった。足元に風魔法を送り、少しだけ足取りを軽くした。
倉庫の扉を開けると、僅かに残った夕暮れの光が差し込んだ。
紅淑館の裏口を開けたとき、マリアが待っていた。
アノリスとミシュエルを見た瞬間、マリアの表情が動いた。仕事の顔ではなかった。
「ミシュエル!」
マリアが歩み寄った。ミシュエルの顔の痣を確認して、体を支えた。
「歩ける?」
「……はい」
控え室に入ると、中にいた娼婦たちが一斉に立ち上がった。サーヤがミシュエルに駆け寄った。誰かが水を取りに走った。誰かが布を持ってきた。
アノリスは少し離れたところに立って、それを見ていた。
ミシュエルが椅子に座った。サーヤが隣に座って、何かを囁いた。
そのとき、ミシュエルが泣いた。
声は出なかった。ただ、顔が崩れた。痣のある顔に涙が伝った。サーヤが肩を抱いた。誰も何も言わなかった。
マリアがアノリスの隣に来た。二人並んで、少し離れたところからミシュエルを見た。
「ドレスに血がついてる」とマリアは言った。
「すみません」
「あなたの?」
「違います。向こうのです」
マリアが少しの間アノリスを見た。赤いドレスに返り血。剣を腰に帯びたまま。
「一人で倉庫街に乗り込んで、一人で連れ帰ってきた」
「はい」
「うちに来た受付の中で、最強ね」
アノリスは少し笑った。
「ドレスは洗えば戻る。今日はもう上がっていい」
「いえ、勤務時間まで居ます」
マリアがアノリスを見た。
「だいぶ派手にやったみたいじゃない。それで平然と……本当に受付が向いてる」
ただ、アノリスはマリアに謝罪した。
「あの……ごめんなさい、あの賊どもが私に仕返しに来るかも知れない。迷惑かけちゃうかなって」
「謝らなくてもいいの!でも確かに言う通り心配ね。数日、店の入り口に警備を付けてもらおうかしら」
それだけ言って、マリアは控え室の中へ入っていった。ミシュエルの肩に手を置いて、何か短く言った。ミシュエルがまた泣いた。今度は声が出た。
アノリスは受付カウンターに戻った。
営業時間自体は既に始まっている。
アノリスはドレスの裾と、上がっている息を直した。




