五 エーテラリス
昼間、シェリルは机から離れなかった。
アノリスは今日も夕刻からの勤務で、昼間は時間があった。ラフィスも一日空いていた。二人で街を歩くことにしたらしく、昼前に出ていった。シェリルは見送って、すぐ紙に向き直った。
窓の外に目をやった。空は青い。当然、昨夜の赤い光はない。
ただ、魔力の残滓はまだあった。
昨日より弱くはなっていない。むしろ、数が増えているような気がする。粒が細かい。元より魔力を持たないラフィスは勿論、アノリスも気づかないのもうなずける、それほど微細だ。ただ、積み重なっている。断続的ではなく、今日は途切れずに来ている。
胸騒ぎがする、とシェリルは思った。
感覚的な言葉は好まないが、これはそれに近い。術式の感知が拾う数値があるならば、何か良くないものを示している気がする。
何かが変化している。
街で話題になっていないだろうか。昨日から気になっていたが、調べていなかった。シェリルは筆を置いて、上着を手に取った。
酒場は昼間の顔をしていた。
夜とは違って、働き終えた職人や行商人が食事をとっている。シェリルは掲示板へ向かいながら、室内の会話に耳を傾けた。
魔力の話は出ていない。東の空が赤く光ったことも、誰も言っていない。魔力を持たない者には感知できないのだから当然だ。
掲示板を確認しようとして、一枚の紙が目に入った。
新しい。今日貼られたばかりの白さがある。
依頼の種別。調査。急募。
報酬の欄に目が止まった。金貨十二枚と書いてある。
そして依頼グレードの欄に、朱字で記されていた。
魔法使い上級γ以上。
シェリルは紙を読んだ。
魔法使いの等級は、初級から中級、上級、特級の四段階に分かれている。初級は単独だが、中級は下からクラス一から八、上級は下からα・β・γの三区分があり、γは上級の中でも上位数パーセントに位置する。王宮付きの術師や、宮廷魔術師にも上級β以上が見受けられるが、ロズウェルほどの規模の街だと、上級γがいるかどうかも怪しい。
急募で、朱字だ。そう易々と見つかる人材ではないと依頼主もわかっていて、それでも出している。
シェリルは依頼の内容を読んだ。東方向の調査。魔力の異常に関する現地確認、可能なら対処まで。詳細は依頼主まで問い合わせのこと――
東。
シェリルはしばらく掲示板の前に立っていた。自分には関係のない話だ。そもそも自分は――
数秒後、シェリルは目を閉じた。
特級だった。
自分は特級魔法使いだった。上級γどころではない。対象どころか、依頼グレードを超えている。
昨日から続く魔力の残滓。東の空の赤い光。そして今日、急募で出た東方向の調査依頼。
これが正体か。
シェリルは紙をもう一度読んだ。問い合わせ先の名前と場所が書いてある。
胸騒ぎの輪郭が、少し、はっきりしてきた。
――
問い合わせ先は、酒場から二本隣の通りにある小さな建物だった。
扉を叩くと、中年の男が出てきた。五十代、恰幅がいい。商人か、あるいは街の有力者の類だ。シェリルを見た瞬間、顔に疑念が浮かんだ。
「依頼の件で来ました」
「……あなたが?」男はシェリルを上から下まで見た。旅装の、二十代の女だ。「失礼だが、グレードは」
「聞きたいことがあります」とシェリルは言った。「東からの魔力の残滓、あなたも感じていますか」
男が黙った。
シェリルは続けた。
「昨日の夜から断続的に来ています。今日は途切れていない。これを感知できるなら、結構なグレードだと思いますが」
男の目が変わった。疑念が、別の何かに変わっていた。
「……感じている」と男は言った。低い声だった。「昨日の夜から」
「では話が早い」
シェリルは懐から二枚を取り出した。特級魔法使いの証明書と、紋章だ。
男が受け取った。証明書を開いた。
動きが止まった。
もう一度、シェリルを見た。今度は別の目だった。珍しいものを見る目だ。
「特級……」
「当然珍しいわ」とシェリルは言った。「世界に何人もいないので」
男が証明書と紋章を返した。それから一歩引いて、頭を下げた。さっきまでの態度が嘘のようだった。
「失礼しました。中へどうぞ」
建物の中は簡素だった。テーブルを挟んで向かいに座った男は、ロズウェルの商業組合の代表だと名乗った。依頼を出したのは組合としての判断だという。
男は話し始めた。
「東の山に、毎年行われる儀式があります。山の怒りを鎮める、とされているものです。
召喚魔法の使い手が、龍を呼び出して、山の霊気を浄化させる。終わったら龍は消える。何十年も続いてきた儀式です」
「今年、消えなかった」とシェリルは言った。
男が頷いた。
「三日前から消えていない。影のような、霧のような龍です。実体が掴みにくい。街に近づいてきていて、昨夜は外縁の畑が荒らされました。今夜また来るかもしれない」
「召喚した術者は」
「儀式の最中に倒れました。今も意識が戻っていない」
シェリルは黙って聞いていた。
男が続けた。
「龍を消す方法がわからない。儀式の術者は動けない。それで上級γ以上の方に状況の調査をお願いしたかった。できれば対処まで」
シェリルは返事をしなかった。
テーブルの上で、指先が小さく動いていた。
召喚事故には三種類ある。
術者により魔力の供給不足による「顕現崩壊」この場合、術者に崩壊の反動が来る。
使い魔によって術者への魔力引き込み過多となり、術者が倒れる「魔力枯渇」
そして、最も恐ろしい暴走顕現、今回の事故は間違いなくこれだろう。
暴走顕現。
召喚魔法で呼び出した存在が、術者の制御を離れて顕現し続ける――最も厄介な種類の事故だ。術者が倒れている以上、召喚を解除する術式も術者と共に崩れている。
龍はもう誰にも繋がれていない。ただそこにいる。また、召喚事故の中で、これだけは対処の方法が一般化されていない。消す方法が、状況によって全く異なる。下手に術式を干渉させれば、龍の顕現がさらに強化されることもある。
シェリルは男を見た。
今まであまり人に見せたことのない顔をしていると、自分でもわかった。
「深刻な事故ね」とシェリルは言った。声は静かだった。
「召喚暴走の中でも、顕現が固定されているのは特に厄介だわ。龍の顕現を解くためには、召喚術式の構造を外側から読み解く必要がある。術者なしで」
男が息を呑んだ。
「できますか」
シェリルは少し黙った。
「……今夜、東の方角を見に行くわ」
――
問い合わせ先を後にして、シェリルは足早に宿へ向かった。
部屋に戻ると、アノリスとラフィスはまだ戻っていなかった。シェリルは机に紙を広げて、短く書いた。
緊急の依頼を受けた。東へ向かう。二、三日空けるかもしれない。心配しなくて大丈夫。
書いてから少し考えた。心配しなくて大丈夫、というのは正確ではないかもしれない。ただ書き直す時間はない。そのままにした。
鞄に必要なものを詰めた。筆記具と紙を多めに入れた。
――
依頼主が手配した馬と、護衛の魔法使いが一人待っていた。
馬は得意ではない。ただ歩いていける距離ではないことは魔力の感知でわかっていた。シェリルは黙って馬に乗った。
東へ向かいながら、頭の中で考え続けた。
召喚魔法は専門ではない。ただ、以前書いた論文のことを思い出していた。
――召喚魔法と微分方程式の可能性――
算術に明るい召喚魔法使いの目の色を変えたと後から聞いた論文だ。あのとき理論として書いたことが、今、目の前の問題に直接繋がってくるとは思っていなかった。
召喚暴走の鎮圧方法を、頭の中で整理する。
最も安全なのは、使い魔が自分の意志で退去することだ。召喚した術者本人が制御を回復するか、使い魔と対話できる者が説得するか――ただし術者はすでに意識がない。対話の手段も自分にはない。
となれば外部から鎮圧するしかない。
方法は三つある。
一つは、使い魔の自然退去率を上げること。論文で書いた式で言えば変数δを増加させる。閾値S*が上がれば、現在の顕現度S(t)が閾値を下回る可能性がある。ただしδを外部から操作する手段が確立していない。
二つ目は、顕現空間そのものを収縮させること。顕現空間から現実空間への連続写像を構成して、空間ごと一点に潰す――収縮写像だ。ただしそのためには顕現空間の位相構造を事前に知っている必要がある。今夜初めて現場に行く状況では、暴走中にリアルタイムで位相構造を読み取りながら写像を構成しなければならない。
難度が高い。
三つ目は、顕現空間を現実空間から強制分離すること。接続点を断ち切る操作だ。収縮より単純で、顕現空間の内部構造を知らなくても接続点さえ把握できれば実行できる。
ただし強制分離には代償がある。
接続を丁寧に解くのではなく断ち切る。その衝撃は術者に返る。すでに意識のない術者に、さらなる負荷が加わる。
術者が助かるかどうかは別の問題になる。
シェリルは馬の揺れに耐えながら、頭の中で二択を整理した。
エーテラリス=魔法算術学者の血が騒ぐ。
収縮か、分離か。召喚龍の状態を見て判断する。
それを現場で判断するために今から行く。ただ、既に解法の検討に入っていた。
怖い、と思った。
だから考える。考え続ける。馬が東へ進む間も、頭の中では術式の構造が組み上がっていく。
――
ラフィスはもう少し街にいると言った。服を探しているらしい。アノリスは特に聞かなかった。ラフィスが自分のために何かを買おうとするのは珍しいことだったが、聞けば照れるだろうと思った。
アノリスは宿に戻って身支度を整え紅淑館へ。
紅淑館の受付、渡されたのは濃い赤のドレスだ。体の線が出る仕立てで、旅の間ずっと着ていた動きやすい服とは全く違う。
着慣れていない。それはわかる。ただ、嫌ではなかった。むしろ、自分が少し違う人間になったような気がして、それが面白かった。
旅装を脱いで、これを着て働く。それだけで別の場所に立てる気がする。
いつもは店の控室で着替えるのだが、今日は着替えてから向かいたい気分だった。
アノリスは鏡にもう一度だけ向き、シェリルの書置きを一読し、宿を出た。
紅淑館への道を歩きながら、アノリスは書置きのことを思い出した。
最初に見たとき、少し心配した。東、というのが引っかかった。昨日シェリルが窓の外を見ていたこと、東の空が何度か光っていたこと。あの顔は普通ではなかった。
ただ、すぐに晴れた。
姉さんだし、と思った。それだけで十分だった。
心配しなくて大丈夫と書いた姉が、大丈夫じゃない状況に自分から飛び込んでいることはわかっている。それでも姉さんだ。何とかする。いつもそうだった。
アノリスは紅淑館の裏口の前に立った。
ドレスの裾を少し直して、扉を開けた。
――なにやら様子がおかしい。




