四 夕刻まで、夕刻から
討伐依頼のあった村まで馬で二時間だった。ラフィスは慣れたものだが、シェリルは馬には不慣れだった。
依頼主の農夫から話を聞くと、被害が出始めたのは半月ほど前からで、家畜が三頭やられていた。
目撃情報によると、熊ほどの体格に鳥の翼と鉤爪を持つ合成獣のような姿だという。農夫は「不格好な化け物だ」と言った。
実際に見ると、その通りだった。
森の縁に出てきたそれは、確かに不格好だった。熊の胴体に、比率の合っていない翼が生えている。翼が重くて飛べないのか、地面を蹴りながら滑空するような動きをした。ただ、速い。そして爪が鋭い。
シェリルの左腕に、浅い裂傷が一本入ったのはその爪のせいだった。
魔物が距離を置いて低く唸っている。もう何度かやり合っている。向こうも慎重になっていた。
「そろそろね」とシェリルは言った。
「ああ」とラフィスが答えた。
「最後はどっちがやる」
「あなたが動けなくするなら、私が締める」
「それでいきましょう」
シェリルが指先を動かした。術式を組む。魔物の四肢の自由を奪う収束点を四つ、同時に展開する。魔物が動いた瞬間に解放する。
魔物が跳んだ。
術式が走った。四肢が止まった。空中で体勢が崩れる。地面に落ちる。
ラフィスの跳躍――
着地と同時に、一度だけ剣を振った。
妖獣の息は止まり、静かになった。
「お疲れ様」とシェリルは言った。
ラフィスが剣を拭いて鞘に収めた。
報酬は金貨三枚だった。農夫は最初に提示した額より上乗せしてきた。それだけ困っていたのだろう。二人は断らなかった。
村を出たのは昼過ぎで、宿に戻ったのは夕刻だった。
ロズウェルの街が見えてきた頃、日はまだ落ちていなかった。
街道に入って少し歩いたところで、ラフィスが足を止めた。シェリルも止まった。
通りの一角に、他の建物より少し華やかな佇まいの店がある。シャンデリアの光が窓から漏れている。入口に小さな看板。
「あれがアノリスの居る紅淑館、だろうか」とラフィスが言った。
「おそらく」とシェリルは言った。「あそこにいるのね」
二人はしばらくその建物を見た。
「アノリスらしいかもしれない」とシェリルは言った。
二人は歩き始めた。
「それにしても」とシェリルは言った。「今日の仕事、楽だったわね」
「そうだな」
「討伐にしては報酬が良かった。金貨三枚」
「農夫が困っていた。それだけの価値があると思ったのだろう」
実際この旅の三人、金に困ったことがほとんどない。
紅淑館の早番が終わりに差し掛かる頃、酒場の席が埋まり始めていた。
店内は女と過ごす個室の他、芸事のためのステージがある酒場も兼ねている。
甘い香りが、夕方になって少し回ってきた気がした。頭がぼんやりするほどではない。ただ、何かが少しずつ体の内側に入ってくる感覚がある。
媚薬だ。
始業前、マリアが「あなたには影響ないから」と言っていたが誰がそれを決めたのか。ムード作りのために薄く焚かれたそれが、今になってじわじわと効いている。遅効性だろう。
ただ、気がつけば早番の終わりが近づいていた。絶妙な頃合いだ。勤務が終わる頃にちょうど回ってくる。よく計算されている、とアノリスは妙なところで感心した。
アノリスはカウンターに立って、客の顔を順番に把握していた。常連らしい顔、初めての顔、酔い始めている顔。
その中の一人が、カウンターに近づいてきた。四十代、体格がいい。目がゆるんでいる。昼間の酒場とは違う種類のゆるみ方だ。
「ねえ」と男は言った。「あなた、新しい子だよね」
「はい、今日からです」とアノリスは笑って答えた。
「名前は」
「アノリスです」
「アノリスちゃんか」男がカウンターに肘をついた。距離が近い。
「奥には行かないの?もったいない」
「受付なので」
「受付ねえ」男の手がカウンター越しに伸びてきた。
「この娘を指名する」
受付との夜を買う気が見え見えだったが、アノリスは笑顔を変えなかった。
「ありがとうございます。ただ私は受付ですので、指名はできないんです」
「じゃあ受付やめて奥に来れば――」
「お客様」とアノリスは言った。声が変わらない。「今夜、どんな時間にしたいですか」
男が止まった。
「ゆっくり話を聞いてほしい感じですか。それとも賑やかな方がいいですか」アノリスは続けた。「お顔を見ていると、今日は少し疲れてらっしゃるように見えます。静かに過ごしたい夜じゃないかなと思って」
男がアノリスを見た。さっきとは違う目だった。
「……よくわかるね」
「受付なので」
「静かな方がいい。確かに」
「でしたら」とアノリスは奥の廊下に目を向けた。「サーヤさんが合うと思います。話を聞くのが上手な方ですよ」
男が少し考えて、頷いた。アノリスは台帳に記して、奥へ案内した。
カウンターに戻ると、後ろにマリアが立っていた。
「見てたわ」とマリアは言った。
「すみません、余計なことしましたか」
「いいえ」マリアは少し笑った。「合格よ」
――
宿の部屋で、シェリルは窓際の机に向かっていた。
帰ってから着替えて、すぐ紙を広げた。今日は討伐で半日潰れた。明日は一日、ペンと紙だけを相手にすると決めていた。
ふと、東の空が光った。
赤い。夕焼けではない。夕焼けはとうに終わっている。低く、地平に近いところが、時々赤く明滅する。
シェリルは窓の外を見たまま、しばらく動かなかった。
魔力の残滓が、さっきから断続的に肌に触れては消えている。遠い。発生源はかなり遠い。ただ、距離があるのに届いてくるということは、規模が相当大きいということだ。
何かがいる。あるいは、何かが起きている。
正体はわからなかった。術式の感知が届く範囲の端で、かろうじて引っかかってくる程度だ。輪郭が掴めない。
シェリルは東の空から目を離して、紙に向き直った。
今日の討伐で仕留めた合成獣も、あの種の魔物にしては妙な構造をしていた。熊と鳥が合わさったような体は、設計として成立していない。自然に生まれる形ではない。
それと東の光は、関係があるだろうか。
今はわからない。わからないことは書き留めておく。
シェリルは紙に短く記した。それから研究中の不可測集合の続きに戻った。
窓の外で、東の空がまた一度だけ赤く光って、消えた。




