三 天職の予感
朝、シェリルはまだ寝ていた。
昨夜の窓際の机には紙が積み上がっていた。いつ寝たのかは知らない。起こす理由もない。
ラフィスはもういなかった。ラフィスの朝は早い。夜明け前には出ていく。どこへ行くかは聞いたことがない。聞かなくても戻ってくるので問題なかった。
アノリスは一人で宿を出た。
ロズウェルの朝は活気があった。市場が開き始めていて、通りに人が出ている。昨日と違って見える景色を少し楽しみながら、目当ての場所へ向かった。
酒場だ。
まだ朝だが、討伐や解読の依頼を探すなら酒場の掲示板が手っ取り早いと宿の主人に聞いていた。扉を開けると、酒と煙草の匂いが混じった空気が出てきた。朝から何人か客がいる。
アノリスは掲示板へ向かい、貼り出された紙を順番に読み始めた。
街道沿いの魔獣の討伐。古文書の解読。行方不明者の捜索。
討伐はラフィ姉に向いている。解読は姉さんか。捜索は――
「ねえ、お嬢さん」
声をかけられた。だらしなさそうな男の声だ。
振り返ると、四十代の男が杯を持って立っていた。朝から飲んでいる。目がゆるんでいて、視線がアノリスの顔より下で止まっていた。
アノリスは一度だけ見て、また掲示板に向き直った。
「一人かい?ねぇ一緒に飲もうよ」
無視した。
「いい体してるねえ。旅の人?どこから来たの」
無視した。
「ねえ、聞いてる?せっかく声かけてやってんのに」
男がまた一歩近づいてきた。アノリスは掲示板から目を離さなかった。
「冷たいなあ。ちょっとくらい話しかけられても――」
肩に手がかかりそうになった瞬間、アノリスは体をひねって一歩ずれた。振り返りながら、腰の細剣・ヴェントラーゼに片手をかけた。抜かない。ただ、かけた。
男が止まった。
「おっ」男はヴェントラーゼを見て、にやりとした。「姉ちゃん、見た目に寄らず怖いもん持ってるねぇ。飾りかい?」
アノリスは笑顔のまま答えた。
「飾りかどうか、試してみますか」
男の笑いが少し引いた。それでもまだ引き下がらない。
「そう怖い顔しなくても。触るだけだって」
「触るだけ、ね」とアノリスは言った。声の温度が変わらない。
「なら触れなくできるようにしてあげるわ、手が何本あるか確認してから言ってください」
ヴェントラーゼ、風薙ぎの剣。アノリスが名付けた。
そしてこの剣は三人の中で彼女だけが使える法剣~魔法を直接剣に宿らせて威力を増幅できる~である。
斬撃魔法を鞘に収まったままのヴェントラーゼに展開しようとした。勿論動作だけ。
動作だけ見て男が止まった。
「それと」とアノリスは続けた。男の左手に一瞬だけ視線を落として、また目を合わせた。「奥さん、心配してますよ。朝からこんなとこで何やってるんですかって」
「な……なんで嫁がいるって」
「左手の日焼けの跡です。指輪を外してきたんですね」
男の顔が赤いのか青いのかわからない色になった。口が動いたが、言葉が出てこなかった。それから何も言わずに自分の席へ戻っていった。杯を持つ手が少し速かった。
アノリスはヴェントラーゼから手を離して、掲示板に向き直った。
「見事ね」
声がした。
今度は女の声だった。振り返ると三十代の女性が立っていた。体の線がはっきり出る仕立ての服を着ている。化粧が濃いが品がある。商売人の顔だ、とアノリスは思った。
「ありがとうございます」
「あの男、ここの常連で朝からいっつも飲んでる、そして女性客に絡むので有名なの」
その商売人の顔をした女性はアノリスを上から下まで、値踏みするような目で見た。隠す気のない視線だった。
「あなた、そのスタイルと話術で、仕事を探してるって言った?」
「はい」
「うちに来ない?」
アノリスは少し止まった。
「うち、というのは」
女性はマリアと言った。マリアがアノリスに顔を近づける。
「ロズウェルで一番の店を経営してるの」女性は微笑んだ。「あなたみたいな娘を探してた。稼ぎはいいわよ」
一番の店。体の線が出る服。化粧の種類。
アノリスは理解した。
「……それは、さすがに」
「そう? もったいない」女性は肩をすくめた。あっさりしている。「でも話術はほんとに見事だった。あの手の客をあれだけ鮮やかに追い払えるなら――受付はどう?」
「受付」
「接客と場の管理が主な仕事、あと飲食物の仕入れも少しやってもらうわ。体を使う必要はない。でも人を見る目と口が要る。あなたにはどちらもある」
アノリスは女性を見た。やはり商売人の目だ。値踏みだけではなく、本気で見ている目だ。
「条件を聞いてもいいですか」
女性が少し目を細めた。笑った顔だった。
「話が早いわね。座りましょうか」
――
日が落ちた頃、三人は宿の部屋に揃った。
ラフィスが先に戻っていて、窓際に座っていた。シェリルは机の前で紙を広げていたが、二人が戻ってきたのを確認してから筆を置いた。
「どうだった」とラフィスが言った。
「固定の仕事はなかったわ」とシェリルは言った。「講義の需要があるかどうかは、もう少し当たってみないとわからない。研究の依頼も今のところない」
「私も固定の仕事はなかった」とラフィスが言った。「ただ、東の集落に妖獣が出ているという話を聞いた。討伐の依頼が出ている」
「それ、二人で受けない?」とシェリルは言った。「私も動ける」
「そのつもりだった。明日、依頼主に詳しい話を聞きに行こう」
シェリルが頷いた。それからアノリスを見た。
「あなたは」
「私はね」とアノリスは少し間を置いた。「娼館の受付の仕事、打診された」
シェリルの手が止まった。
止まったまま、少しの間があった。
「……娼館」
「うん」
「それは」シェリルは少し考えた。「どういうところ?」
アノリスがシェリルを見た。ラフィスもシェリルを見た。
三人の中で突出して頭脳明晰、多方面の知識豊かなシェリルが、娼館を知らない。
「姉さん、知らないの」
「名前は知っているわ。詳しくは知らない」
アノリスは言葉を選んだ。
「お金を払うと、女性と一緒に過ごせるお店。いろいろと」
「いろいろと」シェリルは繰り返した。
ラフィスがそこに付け足した。
「男がやってきて、女との夜を買うんだ」
そこまで聞いて、シェリルが何やらピンときた顔をした。
「夜を買う……あぁ、セッ――」
慌ててアノリスが姉を制する。
「ね、姉さんそれはダメっ」
恥じらいも無ければ男っ気も皆無、一人でいる時は服装にも無頓着で下着も覗かせている、特級魔法使いで魔法算術学者のシェリル・アリアシストから魔法と算術を取ったらこれである。無防備である。
「無防備でも対応できる速さがある」と、シェリル。
一瞬緊張が走ったあと、ラフィスが問う。
「それで受付というのは」
「お客さんの対応とか、場の管理とか。あとはお酒とかの仕入れもあるみたい。そういう仕事。体は使わない」
「そうか」とラフィスは言った。
「稼ぎは」シェリルが訊く。
「銀貨二十五枚」
シェリルがまた少し止まった。今度は別の止まり方だった。
「……それは多いわね」
「でしょ」
「なぜそんなに多いの」
アノリスが口を開きかけた。ラフィスが先に言った。
「そういう店は、普通の店より稼ぎがいい。客層が特殊だ。金を持っている者が来る。それだけ払える者が来る店ということでもある」
「なるほど」とシェリルは言った。まだ何かわかっていない顔だったが、稼ぎの良さについては納得した様子だった。「受けるつもりなの」
「どうしようかなと思って。一応みんなに話しておこうと思って」
ラフィスが少し身を乗り出した。こんなクールにしておきながら、明らかに興味ありそうな様子だ。
「受ければいい」
アノリスが驚いた顔をした。
「ラフィ姉が乗り気なの、意外」
「なぜ」
「なんか、そういうの良く思わないかなと思って」
「なぜそう思う」とラフィスは言った。「得意なことを仕事にするだけだ。五年、一緒に旅をしてきた。アノリスが人を見る目を持っているのは知っている。それが必要な仕事だろう」
「……そっか」アノリスは少し嬉しそうな顔をした。「ラフィ姉は私のそういう仕事、想像できる?」
「できる」とラフィスは迷わず言った。
アノリスは少しの間ラフィスを見ていた。それから照れたような顔で前を向いた。
「……ありがとう、ラフィ姉」
シェリルが二人を交互に見た。
「受けるということでいい?」
「うん、受ける」
「わかったわ。稼ぎが出たら食費に回して」
「そこぉ!?」とアノリスが言った。「もう少し何かあるでしょ」
シェリルが少し考え、ラフィスが笑った。
夜の街の音が、窓の外から聞こえていた。




