二 研究者
関所を越えると、道の質が変わった。石畳の整備が行き届いていて、街道の両脇に案内柱が立っている。エレシア王国に入ったのだと、足の裏から伝わってくる。ロズウェルの郊外に差し掛かったのは、昼を過ぎた頃だった。
畑が広がり始め、やがて家が増え、人の気配が濃くなった。街道を行き交う荷馬車が増えて、遠くに建物の屋根が見えてきた。アノリスが足を速めた。
ロズウェルは、思っていたより活気があった。エレシア最南端の国境の街とはいえ、南からの交易路の起点になっているらしく、通りに商店が並んでいる。人の声がして、荷物の運搬をする者がいて、子供が走っている。
アノリスが深く息を吸った。
「補給しないとね。食料も消耗品も、そろそろ限界」
「金もそろそろ心許ないわ」とシェリルは言った。
「どのくらい?」
「三人部屋の宿に二週間泊まれる程度なら残っている。ただし食費と消耗品を足すと、余裕はないわね」
アノリスが少し考えた。
「仕事、探さないと」
「そうなるわ」
二人の後ろで、ラフィスが静かに街を見ていた。
「急いでいるわけではないんだろう。二週間くらいは休んでもいい。旅の疲れもある」ラフィスが言った。
通りを進むうちに、宿が見つかった。外観がしっかりしていて、入口に大浴場の案内が出ている。
部屋を取った。三人で一部屋、二週間。主人に金額を告げられたとき、シェリルは頭の中で残金と照合した。問題ない範囲ね。ただし仕事は早いほうがいい。
荷物を置いて、三人は大浴場へ向かった。
夕方前の時間帯で、客は他にいなかった。
三人が順に衣服を脱いだ。
アノリスは均整の取れた体つきをしていた。旅の八日で日に焼けた肌が、湯気の中で白く映える。細いが、しなやかに筋肉がついている。風の魔法を使い続けた腕と、剣を振り続けた体幹が、柔らかい外見の下にある。胸は豊かで、それが旅装の下に収まっていたのが不思議なくらいだった。
ラフィスは対照的に、無駄が一切ない体だった。細く、しかし硬い。腹部と背中に、うっすらと筋が走っている。肩から腕にかけての線が、剣士のそれだ。胸は控えめだが、全体の均衡が崩れていない。右の脇腹に古い傷跡が一本あった。誰も触れなかった。
シェリルは自分が三人の中でいちばん体の線が細いことを知っている。背はアノリスより少し高い。胸はアノリスほどではないが、それを気にしたことは一度もなかった。ただ鏡で見るたびに、もう少し食べた方がいいかもしれないと思う。思うだけで、食事の優先度は研究より常に低かった。
アノリスが湯船に入りながら言った。
「ラフィ姉の脇腹の傷、増えてない?」
「増えてない」
「ほんとに? なんか前より――」
「増えてない」
アノリスは納得していない顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
シェリルは湯船の縁に背をもたせかけて、天井を見上げた。
久し振りだわ、とシェリルは思った。口には出さなかったが。
「ねえ、姉さん」
アノリスが湯船の向かいから言った。
「何」
「ここまで来るとは思ってなかったね」
「何が――」
「旅が、こんなに長くなること」アノリスは湯に肩まで浸かった。「最初は、どこかに落ち着くんだと思ってた。旅してるうちに、ここがいいってところが見つかるんだと」
シェリルは天井を見たまま言った。
「落ち着ける場所が見つからなかったわ」
「そうなんだけど」アノリスは少し笑った。「でもなんか、気がついたら大陸の北の端まで来てた」
ラフィスが湯船の端で静かに聞いていた。
「もともと、北へ向かうつもりだったのか」とラフィスが言った。
「特に決めていなかったわね」とシェリルは答えた。「ヒルビット卿が亡くなったとき、南にいる理由がなくなった。北へ向かえば何かあるかもしれないと思っただけ。本当に、それだけ」
「何かって、何」
ラフィスは少し黙った。
「私には、北へ向かう理由がある」
湯気の中で、ラフィスは静かに続けた。
「ドルヴェナ岬に用がある。それだけだ」
大陸最北端の岬の名だ。ラフィスの祖国はそこから方角的に少し西に向いたところにある。二人はカリティスディアが滅んだことも、滅ぼしたヴォルテナ帝国がそこにいることも、知っていた。ラフィスが北を目指す理由に、祖国のことが絡んでいるだろうとは思っていた。しかし詳しくは聞いていなかった。
「復讐ではない。それだけは言っておく」
声が、少し強くなった。揺るがない強さだった。
「わかったわ」とシェリルは言った。それ以上は聞かなかった。
「うん」とアノリスが言った。「話してくれてありがとう、ラフィ姉」
ラフィスが小さく頷いた。
「でも、私は北に行って何があるかわからなかった。今もわからない。ただ――」シェリルは少し止まった。「動いていないと、怖い」
アノリスがシェリルを見た。姉がこういうことを口に出すのは珍しい。
「怖い、か」とラフィスは静かに言った。
「立ち止まると、居なくなった人たちのことを考えるの。父と母が居なくなった。私に知識と魔法を授けてくれたヒルビット卿も居なくなった。だから、歩いていたいんだろうって」
しばし沈黙、湯の音だけがした。
姉妹は幼少から別れの連続だった。
コルトラン大陸最南端・オルネス公国に生まれるも、シェリルが七歳・アノリスに至っては三歳の時に両親は流行りの病に倒れ他界。その後、オルネス公国の有力者・ヒルビット卿に二人は引き取られる。
特にシェリルはその頃から学問・魔法の素質が突出しており、十歳で中級術者試験、十三歳で上級術者試験をパスしている。公式記録は無いが恐らく最年少だろう。
だが、そのヒルビット卿も高齢のため、シェリルが十四歳・アノリス十歳の時に他界した。もう二人に残されたものは互いの存在、そしてシェリルの魔法だけだった。その一年後にシェリルは大陸で存在が殆ど居ないとされる特級術者試験も受けることになるのだが、それはまた別の物語である。
「おかしい?」
「おかしくない」とラフィスは言った。迷わず言った。
「私も似たようなもの」とアノリスが言った。「姉さんについていくって決めたとき、難しいこと考えてなかった。姉さんが行くなら私も行く、それだけだった。気がついたらここまで来てた」
「後悔はない?」
「ぜんぜん」
シェリルはアノリスを見た。アノリスは本当にそう思っている顔だった。
しばらく、三人は黙って湯に浸かっていた。湯気の向こうに、窓から夕暮れの光が差し込んでいた。
「そういえば」とアノリスが言った。「仕事、どうする。私は接客系なら何でもできるけど」
「私は研究と講義ならできるわね」とシェリルは言った。
「ラフィ姉は?」
「用心棒か、依頼があれば」
「三人でばらばらに稼ぐか」とアノリスが言った。
「それが効率的ね」
「じゃあ明日から動こう」アノリスが伸びをした。「今日は休む」
ラフィスが小さく頷いた。
――
部屋に戻ると、アノリスはすぐに寝台へ倒れ込んだ。ラフィスも無言で横になった。二人の寝息が揃うまで、そう時間はかからなかった。
シェリルは夜着のまま、窓際の小机に向かった。
彼女には特級魔法使いの他、もう一つの顔があった。
エーテラリス~魔法算術学者~としての顔だ。
魔法と算術、世界によっては数学と呼ばれているものだ。この二つは別のところでそれぞれ発展してきたものだが、シェリルはこの二つを結びつけることによって魔法の発動を定量的に記述するという、世界でも類を見ない研究者として、大陸魔法協会に向けて論文を発表している。
鞄から紙と筆記具を取り出す。旅の間も続けている研究の続きだ。
今取り組んでいるのは、不可測集合の問題だった。
魔力には総量がある。術者ごとに異なるが、原理的には測定できるはずだ。ところが、総量を求めようとすると奇妙なことが起きる。術者の存在する空間そのものが、計算に干渉してくる。測ろうとする行為が、測られる対象を変えてしまう。
可算加法性が成立しない領域がある。
つまり、
全てを足し合わせても、どこかが必ず零れ落ちる領域。
魔力の集合の中に、どうやっても測度が定まらない部分が存在する。
この問いを最初に持ったのは、ヒルビット卿の書庫だった。算術と魔法を結びつける発想を与えてくれたのも、引き取って育ててくれたのも、あの人だった。その人はもういない。だから続きは自分でやるしかない。
シェリルはペンを止めた。
龍のことを考えた。
以前対峙したあの巨体から、一瞬だけ、計算が追いつかない規模の魔力が放たれた瞬間があった。術式を感知しようとしたとき、数値が定まらなかった。大きいのではない。測れなかった。
強大な生物が、時々、理屈の通らない力を出す瞬間がある。
それは偶然ではないかもしれない。
もしその瞬間に、生物の魔力が不可測集合に触れているとしたら――
シェリルは紙に書き続けた。街の夜が深くなっていくのを、気にしなかった。二人の寝息が、遠くで聞こえていた。




