一 関所
八日歩いた。
ウィルモント最北の村を出てから、街道はずっと北へ伸びていた。日を追うごとに木が減り、空が広くなり、風が乾いてきた。コルトラン大陸最北・エレシア王国との国境が近づいているのだと、体で理解する種類の変化だった。
関所は、思ったより小さかった。石造りの建物が街道を塞ぐように立っていて、武装した兵が四人、入口の前に並んでいる。旅人の列が数組、前で手続きをしていた。シェリルたちはその末尾に並んだ。
「思ったより時間かかりそうね」とアノリスが言った。隣に並ぶ妹を、シェリルはちらりと見た。アノリスは旅の八日でそれなりに埃をかぶっているはずだが、なぜかそれが様になっている。髪も顔も、疲れた様子がない。生まれつきそういう顔なのかもしれないと、シェリルは以前から思っている。
「列が短い。二十分もあれば終わる」
「そういう意味じゃなくて」
「どういう意味だ」
アノリスがラフィスを見た。二人の後ろに一歩引いて立っているラフィスは、前を向いたまま、列がわずかに動くのに合わせて静かに足を進めた。街道でも宿でも、ラフィスはいつもこの位置にいる。そして三人の中でいちばん周囲に目を配っている。旅装に包まれた体つきは細く見えるが、剣を帯びた立ち姿には、見る者が無意識に距離を取るような静かな圧がある。
「まあ、なるようになるよ」とアノリスは言った。
ラフィスは何も言わなかった。
列が進んだ。シェリルたちの番になった。
窓口の兵は四十代で、顔に疲労が張り付いていた。仕事に飽きている顔だ。差し出された書類を機械的に確認して、機械的にさばいていく。
「証明書を」シェリルは懐から書類を取り出して差し出した。
兵が開いた。一秒見て、止まった。もう一秒見た。
「シェリル・アリアシスト、二十二歳……特級魔法使い」
「そうです」
兵がシェリルを見た。濃い紫の髪が風に揺れている。物憂げな顔立ちは整っているが、表情がほとんどない。女性の中では長身、髪と同じ紫の旅装の上から見ても、杖を持っていないことがわかった。兵はもう一度書類を見た。
「特級なるものが、こんなところに居てたまるか。そもそも特級なんてものはこの大陸に今何人いるんだ。存在しているのかも怪しい」
吐き捨てるように兵が言うと、
「事実なので」
シェリルが淡々と言う。それを見た兵が何か言いかけて、止めた。書類を返しながら小さく「……まあいい、通れ」と言った。
次にアノリスが進み出た。
「はい、どうぞ」
明るい声で書類を差し出す。兵が開いた。中級魔法使いの証明書だ。
「アノリス・アリアシスト、十八歳、中級のクラス六か」
肩のあたりまで伸びたブラウンの髪、顔立ちは明るく人懐っこい。ここに居る三人の中で最も表情豊か。魔法使いを名乗っているが腰に細剣を腰に付けている。
「こっちの方が話が早い。十八でクラス六、嘘っぽいがなかなか優秀ということにしておく、通って良い」
「ありがとうございます」
あっさりと通過を認めた。やはりある程度機械的でないと人を裁けないのだろう。それでも少々やる気の無さは感じたが。
アノリスがにこりと笑った。兵が少しだけ表情を緩めた。姉とは正反対の、人を安心させる笑い方だ。
次にラフィスが進み出た。兵がラフィスを見た。髪は濃紺のロング、胸の下あたりまではあるだろうか。剣士らしく引き締まったシルエット。
そして改めて正面から見ると、妙な凄みと気品が同居している。さらに目が静かすぎる。
「名前と年齢は」
「ラフィス・ミラセシル、二十四歳」
「証明書を」
「そんなものはない」
「ない?」
「ない」
兵の顔から緩みが消えた。
「所持品に怪しいものは」
「剣が一本」
「……」
兵が隣の兵と目を合わせた。それからシェリルたちを見渡した。
「三人とも、こちらへ」
促された先は、窓口の脇にある扉だった。
中に入ると、石造りの部屋があった。天井が低い。小さな窓が一つ、ドア上にある鉄格子越しに外の光を切り取っている。木の椅子が三脚、ぽつりと置いてある。
扉が閉まった。アノリスが部屋を見回した。
「別室ってこういうことか」
「聞いてない」とシェリルは言った。
「雰囲気的に、ってこと。なんか、こう」アノリスは壁を指でとんとんと叩いた。石の壁だった。「拷問部屋みたい」
「拷問部屋にしては椅子がある、座らせてから始める種類かもしれない」
シェリルは少々動揺するアノリスと対照的に、まるで他人事のように言う。
「非効率だ」
ラフィスが椅子の一つを引いて、何でもない顔で座った。
アノリスがラフィスを見た。「ラフィ姉、怖くない?」
「怖くない」
「なんで」
自分とは違って至って冷静なラフィスに問う。
「ここで私たちに何かしても、得がない」とラフィスは言った。
鉄格子の方からシェリル、ラフィス、アノリスの順に座った。
アノリスは一瞬だけシェリルを見た。シェリルは前を向いたまま、指先を小さく動かしていた。頭の中で何かを計算している顔だ。
「姉さん」
「何」
「今、考えてるよね」
「当然よ」
「どうするつもり?」
ここまでアノリスが問うと、シェリルは鉄格子越しに先ほどまで歩いてきた草原を見た。
アノリスは深呼吸をした。
部屋の外で、足音がした。複数だ。近づいてくる。
扉が開いた。入ってきたのは三人。先頭の男は体格がいい。顎に無精髭を蓄えて、目つきが鋭い。腰に剣を帯びているが、それより先に体そのものが武器に見えた。後ろの二人も似たような顔つきだ。窓口にいた兵とは種類が違う。
男が三人を順番に見た。
「エレシアへの入国希望者だな」
「そうです」とシェリルは言った。
「証明書のない者が一人いる」男はラフィスで視線を止めた。「身元不明の人間をエレシアに通すわけにはいかん」
「理由を聞いていいですか」
アノリスが食い気味に言う。
男は腕を組んだ。「このエレシアは、外からの侵入で面倒くさいことになった前例がある。素性のわからん者を通して何かあれば、通した我々の責任になる。それだけだ」
ラフィスが静かに口を開いた。
「剣を見てくれ」
腰の剣を鞘ごと外し、男の前に差し出した。男がそれを受け取り、目を細めた。鞘と柄に、精緻な紋章が刻まれている。後ろの二人に回した。三人とも、同じ顔をした。
これは知らない顔だ、とシェリルは見ていてわかった。
男が剣を返した。「どこの紋章だ」「知らないか」とラフィスは言った。責める口調ではなかった。ただ確認するように言った。
「知らん」
ラフィスは剣を帯び直した。何も言わなかった。
知らないのも当然だ、とシェリルは思った。
カリティスディア王家の紋章だ。その国はもうない。隣に居るのはかつてエレシアと友好国だったカリティスディアの王女である。学の無さそうな男だ、知らないのも無理は無いか。
男が三人を見渡した。
「証明できないなら、帰ってもらう。それだけだ。女に手荒なことはしたくない。おとなしく――」
「ちょっと待って」
アノリスが立ち上がった。
さっきまでの明るさが、顔から消えていた。
「帰れって言った?」
「そう言った」
「八日歩いてきたんだけど」
「知らん」
「知らん、じゃなくて」アノリスの声が低くなった。「ラフィ姉は怪しい人じゃない。私が保証する。それじゃだめなの」
「中級魔法使いの保証に、効力はない」
「じゃあ姉さんの保証は」
「特級の書類が本物かどうかも怪しい。こんなところに特級がいてたまるか――」
その瞬間だった。
シェリルが立ち上がりもせず、指先を窓の方へわずかに向けた。
音がした。
鉄格子の外の空気が一点に凝縮したような、短い音。
熱線が一条、格子の隙間を抜けて外へ走った。一秒もかからなかった。
男が反射的に後退した。後ろの二人が壁に背中をぶつけた。
三人とも声を上げ、そして沈黙が落ちた。
シェリルは指先を下ろして、前を向いた。表情が変わっていない。
「外を確認してください」と言った。
男が、かすれた声で言った。
「……何をした」
「この建物の方角へ向かう熱源を術式が感知していました。規模から見て大型の獣です。放置すれば、ここは高い確率で襲われていた」
シェリルは淡々と続けた。熊がこちらへ向かうのを実際に見たわけではない。ただ術式の感知に迷う余地がなかった。
男が後ろの一人に目配せした。その兵が扉から出ていった。
しばらく待った。
扉が開いた。出ていった兵が戻ってきた。顔が青い。
「……でかい熊が、死んでます。街道の外に」
男がシェリルを見た。口を半開きにしながら、まるで珍品を見るように
「これくらいなら、特級でなくてもできます」とシェリルは言った。「実力で特級だと証明することはできますが、それをやるとあなたたちが無事で済まない」
男が黙った。
「ただ」とシェリルは続けた。「もし私が本当に特級魔法使いだったとして――その仲間を拷問した罪は、一体何になりますか」
部屋が静まった。
男が腕を組んだ。
「……面倒くさい仕事だ」と低い声で言った。
それから、盛大に息を吐いた。
「通れ。ただし、エレシア国内で問題を起こしたら、入国を許可した我々の責任になる。それだけは覚えておけ」
「わかりました」とシェリルは言った。
アノリスが小さくガッツポーズをした。ラフィスは立ち上がって、静かに扉へ向かった。
男が最後にもう一度シェリルを見た。
「……本当に、特級か」
「事実なので」
男は何も言わなかった。
三人は関所を後にした。エレシア王国への道が、北へ続いていた。




