二 王女と花
八月の中旬に入ると、ロズウェルの朝晩は変わる。日中はまだ夏の熱気が残るが、夜明け前の空気は別の季節の匂いがした。大陸の北から、秋が少しずつ降りてきている。
ロズウェルに来てから八日が経っていた。
ラフィスは窓を開けたまま、昨日のことを思い返していた。
依頼は資産家の娘の結婚式の警備だった。
当日の朝から式場に入って、要所を確認した。招待客の顔を頭に入れた。式が始まる前から、おかしな気配があった。
式場の裏手、荷物の搬入口の近くに三人いた。それとなく動いていたが、目的が違う。招待客でも従業員でもない動き方だ。
ラフィスは式場に入る前に三人を別の場所へ誘導した。静かに、手短に、声を上げさせずに御用にした。支給された縄を持参していた。
結婚式は滞りなく終わった。
報酬は金貨五枚。ならず者一人につき銀貨十五枚が上乗せされた。三人分で銀貨四十五枚。合計で金貨九枚半相当になった。
悪くない一日だった。
シェリルは今日も宿の机から離れないだろう。アノリスは紅淑館の酒の仕入れで少し早めの出勤だと言っていた。
相手してくれる人が居ないのは別にそこまで悪いことでも無い。
昨日のことを思い返しながら、ラフィスは歩いていた。
結婚式で、参列者が新郎新婦に向けて花を投げる。
その瞬間、ふっとラフィスの頭に何かがよぎった。
「代わりの花で失礼しようかと思ったが……」
思わず口にしつつ、ラフィスが向かったのは王立ロズウェル図書館。王立とはいっても平屋建てで、こぢんまりとしている。入口の扉を押すと、紙と木の匂いがした。
武具のコーナー、歴史、科学、魔法――棚の見出しを目で追いながら歩いた。料理のコーナーで、一瞬だけ足が止まった。
――最近、作っていないな。
ラフィスは料理の腕もあった。旅先では調理場が使えることが少ない。宿に厨房があっても、旅人が自由に使える場所はなかなかない。
ロズウェルでの稼ぎはだいぶいいものになった。王都リーヴィンに入ったとき、久し振りに調理場付きの宿を選べるかもしれない。
そう思いながら、料理のコーナーは通り過ぎた。目的は別にある。
植物・自然、と書かれた棚の前に立った。背表紙を順番に確認していく。大陸の植生、薬草の分類、山岳地帯の植物――
頭の中で探しながら、指が棚を辿る。あった。大陸植物分布誌、という厚い本だ。抜き出して、目次を開く。
マリーヴァ。ページをめくった。
白い花だ。五枚の花弁が均等に並ぶ、小さくて清潔な花。挿絵が添えられていた。見なくてもわかる。子供の頃から庭に咲いていた。
分布の欄を読んだ。ウルメシア大陸、温帯から亜寒帯にかけて広く自生。コルトラン大陸では確認されていない、ただし――
ラフィスは目を細めた。
コルトラン大陸最北端のドルヴェナ岬周辺において、三月末から四月初旬にかけて少数の自生が確認されている。
更にもう一つ目的のページを探す。
ソルティア。
青い花だ。細い花弁が幾重にも重なる。これも庭にあった。やはりウルメシア大陸に分布する。コルトラン大陸では見られない。
ただし、大陸最北のドルヴェナ岬。マリーヴァと同様、三月終わりから四月。記録がある。
ウルメシアにしか咲かないと思っていた。故郷にしかない花だと思っていた。
それが、ある。
ドルヴェナ岬まで行けば――コルトラン大陸の最北端まで行けば――咲いている。
ラフィスは本を棚に戻した。
静かな図書館の中で、声に出さずに思った。
「父上。母上――やっと、会いに行ける」
図書館の扉を押して、外に出た。
昼過ぎの日差しが強かった。夏の熱気がまだ通りに残っていて、人の往来も多い。
そのとき、声がした。
「泥棒!」
女性の声だった。通りの向こうから聞こえた。振り返ると、人影が走っていた。脇にカバンを抱えている。走り方が、普通の通行人ではない。
ラフィスは二秒考えた。
「今捕まえてくる。犯人と共に保安所に届ける」
誰に言うでもなく言って、走った。
人込みをすり抜けながら距離を詰める。犯人が路地に入った。追う。路地の両側に長屋が並んでいる。
ラフィスは走りながら長屋の壁を蹴った。跳んだ。屋根に上がった。
地上より視界が開ける。路地を走る犯人が真下に見える。
所々は行き止まりになっているが、それを巧みに避けて進んでいく。
――こいつは土地勘がある、間違いなく常習だ。
犯人はまだ気づいていない。屋根の上を走りながら、先を読む。路地が曲がる。
その先に角がある。あそこで折れれば――
進行方向の真正面に先回りする。
――間に合った
ラフィスは屋根の縁まで走って、跳んだ。
空中で体を一回転させて、路地の角に着地した。
一足遅れて、犯人が曲がってきた。
「そこまでだ」
真正面にラフィスが立っていた。犯人が止まろうとしたが間に合わなかった。ラフィスは犯人の腕を取って体勢を崩し、路地の壁に押さえた。カバンが床に落ちた。
犯人がラフィスを見上げた。
「な……女のくせに、力が強えぇ……」
ラフィスは答えなかった。カバンを拾い上げた。中を確認した。財布が一つ、それから野菜や肉が包まれていた。夕飯の食材だろう。無事だった。
犯人の腕を引いて立たせた。
「歩け」
保安所に犯人を引き渡した。そしてカバンを手渡した。
係の者が手続きを始めようとしたとき、扉が開いた。息を切らせた女性が入ってきた。さっきの声の主だろう。三十代、買い物帰りの格好だ。
女性がラフィスを見た。それからカバンを見た。
「あなたが……」
「カバンは無事です」とラフィスは言った。
女性が受け取って、中を確認した。財布を開けた。食材を見た。それから、ラフィスを見た。
「ありがとうございます」と言った。「あなた、どこから来たんですか。こんな街中で屋根を走るなんて」
「旅の者です」
「旅の……」女性はラフィスをもう一度見た。剣も帯びていない、細い体つきの女だ。「頼もしいですね……こんなにお綺麗なのに」
ラフィスは短く頷いた。まんざらでもない顔だった。
宿の扉を開けると、シェリルは机に向かっていた。
ペンが動いている。紙が増えている。帰ってきたことに気づいているかどうか、わからない顔だ。
ラフィスは荷物を置いた。椅子を引いて座った。
しばらく、シェリルの背中を見ていた。
「ねぇ」
「何」シェリルはペンを止めなかった。
「このまま、いつまで私たち、一緒に居られるんだろう」
ペンが止まった。
シェリルがゆっくりと振り返った。
一瞬だけ、表情が揺れた。これだけ長く旅をしているのだから、それからのことなど考えていなかったのだろう。
「歩いて行けるところまでは、行くつもりよ」
それだけ言った。迷った様子はなかった。揺れたのは一瞬だけで、声は静かだった。
ラフィスは少しの間、シェリルを見ていた。
「ありがとう」
シェリルはもう振り返らなかった。ペンが動き始めた。
ラフィスは窓の外を見た。日が傾き始めていた。八月も後半に差し掛かると、夕暮れが少しだけ早くなる。まだ明るいが、昼間の熱気が少しずつ和らいでいた。




