三 出立す
ロズウェルを発つ日が、明日になった。
夕方前、アノリスが出勤の準備をしていた。紅淑館への最後の出勤だ。
ラフィスがアノリスを見た。濃い赤のドレスに袖を通したところだった。
「そのドレス姿を見るのも、今日で最後か」
「そうだね」
「似合ってるのに」とラフィスは言った。「貰っちゃえばよかったんじゃないか」
アノリスが少し笑った。
「さすがに支給されたものは難しいよ。それに――」アノリスは裾を軽く持ち上げた。「旅の荷物にするのも、なんか違う気がして」
「そうか」
「それに私、本当は緑が好きなんだよね」
ラフィスが小さく頷いた。赤いドレスのアノリスを、もう一度だけ見た。
アノリスは鏡に向かって身支度を整えて、宿を出た。
紅淑館の酒場は毎度のこと賑わっていた。
カウンターに座った男が、アノリスに話しかけてきた。常連だ。五十代、商人風の恰幅のいい男で、毎回同じ席に座る。
「明日から顔が見られないのか」
「ご存知でしたか」
「マリアさんから聞いた。王都に行くんだって?」
「はいっ」
「羨ましいね。リーヴィンは何度行っても飽きない街だ」男はグラスを傾けた。「気をつけて行きなさい。あなたみたいな娘が一人で歩いていると、ろくなことにならない」
「一人じゃないですよ」とアノリスは笑った。「姉と、もう一人、頼りになる人がいます」
男が少し目を細めた。
「そうか。それなら安心だ」
退勤の時間になった。
控え室に戻ると、サーヤとミシュエルの他、出勤日となっていた女たちが待っていた。
「アノリス」とサーヤが言った。「短い間だったけど、ありがとう。あなたがいてくれて、カウンターが全然違ったよ」
「こちらこそ。いろいろ教えてもらいました」
サーヤが少し笑って、一歩引いた。
ミシュエルが前に出た。
痣はすっかり引いていた。あの倉庫からここまで連れ帰ってもらった夜のことを覚えている。自分が泣いた夜のことも。
ミシュエルは、しばらく何も言わなかった。
すると、アノリスはミシュエルの顔を下から覗き込むように見た。
「すっかり女の顔に戻りましたね」アノリスは悪戯っぽく、笑った。
ミシュエルの笑顔も、また美しかった。
「助けてくれたこと」とミシュエルはゆっくり言った。「あなたは一人で来てくれた。ドレスのまま、剣だけ持って。怖くなかったの?」
アノリスは少し考えた。
「怖かったよ」
「でも来た」
「来たよ」
ミシュエルが息を吸った。
「私、魔法が使えるんだけど」とミシュエルは言った。
「あのとき、自分では何もできなかった。縄で縛られて、ただ待ってるしかなくて――」声が少し揺れた。「あなたみたいになりたいと思った。怖くても動ける人に」
アノリスはミシュエルを見た。
「なれるよ」とアノリスは言った。「怖いのは皆同じだから」
ミシュエルが頷いた。目が赤くなっていたが、泣かなかった。
着替えを済ませて、裏口へ向かった。扉を開けると、マリアが外に立っていた。夜風の中で、腕を組んでいた。
「達者でね」
「はい」
「あなたが来てくれてよかった」マリアは前を向いたまま言った。
アノリスは頭を下げた。言葉が出なかった。
「元気でいてね」
「マリアさんも、短い間でしたが、お世話になりました」
声には涙も含まれていた。アノリスは裏口を出た。夜の通りに、足音が続いた。
マリアはしばらくその背中を見ていた。
翌朝、マリアは通信局に寄った。
窓口に封筒を差し出した。宛名を確認した係の者が、少し目を上げた。マリアは何も言わなかった。料金を払って、通信局を出た。
――
シェリルは、その夜も机に向かっていた。
ただ今夜は、いつもと少し違った。
研究の紙ではなく、白紙を一枚広げていた。ペンを持ったまま、しばらく動かなかった。
王都リーヴィンに入れば、自分の存在はどこかに捕捉される。エーテラリスとしての名はすでに知られている。論文を通じて、魔法算術論への関心も少しずつ広がってきていた。そこに特級魔法使いという情報が重なれば――王宮は放っておかないだろう。
ならば先手を打つ方が良いかもしれない。
研究を続けるだけではなく、広める。魔法算術論を一冊の本にして、世に出す。誰でも手に取れる形で。そうすれば自分という個人への関心より、理論そのものへの関心が先に立つ。
出版。
以前から頭にあったことだ。ヒルビット卿も、いつか本にしろと言っていた。
シェリルはペンを動かし始めた。
目次の草稿だった。初等から上級まで、体系として整理する。序文には何を書くか。魔法算術論とは何か、なぜ必要か――
怖い、と思った。
出版すれば、自分の理論が世界に出る。批判される。誤読される。使い方を間違える者も出るかもしれない。
それでも、と思った。
書かなければ、伝わらない。伝わらなければ、自分一代で終わる。ヒルビット卿が自分に伝えてくれたように、自分も誰かに伝えなければならない。
ペンが走った。
同じ夜、ラフィスは窓の外を見ていた。
北の空だ。星が出ていた。
ロズウェルを発てば、王都リーヴィン。そこから更に北へ行けば、ドルヴェナ岬がある。大陸の最北端。海の向こうに、かつて祖国があった場所がある。
故郷が近くなってきた。
ということは、帝国も近くなってきた。
ヴォルテナ帝国。カリティスディア王国を滅ぼした国だ。今頃、かつての王都ディアルーンに帝国の旗が立っているのだろう。父上が歩いた廊下を、帝国の兵が歩いているのだろう。
私はドルヴェナ岬に用がある。帝国には用はない。
そう思ってきた。思い続けてきた。
だが、と思った。
父上は言っていた。「復讐は意味をなさない」と。
まさに祖国が失われそうとしているその時、まだ幼かったラフィスに言い聞かせるように言った。
弱い言葉だと思ったこともある。国王として、なぜもっと戦わなかったのかと思ったこともある。
弱い国王だったのかもしれない。
でも、あの言葉だけが、今のラフィスを繋ぎ止めている。
ドルヴェナ岬に向かうということは、対岸に帝国の姿を臨むということだ。海の向こうに、父上と母上の国を奪ったものが見える。
そのとき、自分の心境に変化があるのか。
ないと言えるか。
ラフィスは自問した。答えは出なかった。出ないまま、星を見ていた。
それでいい、とは思えなかった。ただ今は、それしかなかった。
――
朝から風が強かった。
空は晴れていた。雲が速く流れていて、日差しが出たり陰ったりを繰り返している。
八月も終わりに差し掛かった朝の風は、もう夏の熱気を含んでいなかった。どこか乾いた、北から来る風だった。
三人は宿の前に立った。荷物を背負って、街道の方を向いた。
ロズウェルの通りはまだ眠たそうだった。朝の市が開き始めていて、荷馬車がゆっくりと動いている。どこかで鶏が鳴いた。
シェリルが北を向いた。
「行くわ」
それだけだった。
アノリスが頷いた。ラフィスも頷いた。
三人は歩き始めた。
風が前から来た。髪が揺れた。シェリルのスカートの裾が大きくはためいた。アノリスが緑のスカーフを押さえた。ラフィスは風の中を、まっすぐ歩いた。
ロズウェルの街並みが後ろへ遠ざかっていく。関所を越えたときから数えて二週間あまり。短くはなかった。ただ振り返る理由も、今はなかった。
王都リーヴィンまで約100リーグ。徒歩で二十日ほどの道のりだ。
北へ向かう街道は細かった。
ここから北方の王都へ向かう者はほぼ全て、北ではなく東へ迂回するためだ。




