四 樹海突破
ロズウェルを出て二日目、街道が更に細くなった。
木が増えた。空が狭くなった。街道という呼び方が怪しくなるほど踏み跡が薄くなって、やがて三人は鬱蒼とした森の中を歩いていた。
カデア樹海だ。
ロズウェルからリーヴィンへ北上する場合、一般的なルートは東のリドリウスを経由する。街道がよく整備されていて、宿場町も複数ある。ただしかなりの遠回りだ。
最短距離で北を目指すなら、このカデア樹海を突っ切ることになるのだが、エレシア王国が危険地帯に指定しているのには理由があった。
来るまでの道で、周囲の茂みに遺体がいくつか見えた。旅人のものだろう。三人は足を止めなかった。
矢が来たのは、昼を過ぎた頃だった。
ラフィスが一歩横にずれた。それだけだった。矢が肩口をかすめるように通過して、後ろの木に刺さった。
「上だ」
声と同時に、三人が動いた。
二本、三本、五本、八本――矢が雨のように降ってきた。枝葉の間から、影が動いている。人の形をしているが、人ではない。
アーチャーの姿をした野生獣が六体、木の上に散開していた。
シェリルが指先を動かした。
防御術式が展開された。半球状の魔力の膜が三人を包む。矢が弾かれた。金属と魔力がぶつかる音が連続する。静かな森にその音だけが響く。
「任せて」
アノリスが走った。
森の中を縫うように動く。木と木の間を、目にも止まらぬ速さで抜けていく。
見通しが悪い。枝が邪魔をする。それでも足が止まらない。ヴェントラーゼに斬撃魔法を乗せながら、標的との距離を詰める。
一体目。木の幹を蹴って跳んだ。上空の獣に向けてヴェントラーゼを一閃した。光の弧が走った。獣が落ちた。
二体目は別の枝にいた。アノリスがすでにそちらへ向かっていた。足が速い。人の動きではなかった。
風の魔法を足に纏わせて、踏み込みを加速させている。枝の隙間を縫って跳んで、また一閃。
動揺する残り四体。
その隙にシェリル、防御術式を畳んで攻撃に転じた。指先から光弾が走る。
一発、また一発。木々が遮る視界の悪さの中でも無駄がない。照準を外さない。四体のうち二体が落ちた。
残りの二体が逃げたがその先に、ラフィスがいた。
剣が二度光った。二体が同時に両断されて、地面に落ちた。
森が静かになる。
アノリスが木の上から地面に降りてきた。息が少し上がっていた。ヴェントラーゼを鞘に収めながら、シェリルを見た。
「防御、ありがとう」
「矢の密度が高かったから」とシェリルは言った。「六体全部上にいるとは思わなかったわ」
ラフィスが矢の刺さった木を見た。
「先を急ごう」
――
夜になった。
三人は焚き火を囲んでいた。樹海の夜はとりわけ暗い。
月が出ていたが、枝葉が光を遮って、足元がほとんど見えない。
気配が増えてきたのは、焚き火が落ち着いた頃だった。
ラフィスが立った。
「来る」
数えると二十体を下らなかった。吸血鬼だ。人の形をして、目が赤く光っている。なるほど、国が危険地帯に指定するはずだ。
一体がアノリスに向かって跳んだ。速かった。かわしきれなかった。
「……んっ!!」
首筋に牙が触れた――浅い。深くはない。ただ確かに噛まれている。
「アノリス!」
ラフィスの剣が間に入り、両断。アノリスの眼前で、二つになって落ちた。
「ありがとう」とアノリスは言った。首筋に手を当てながら体勢を立て直す。
血が少し滲んでいた。これくらいなら大丈夫だと、ヴェントラーゼを抜いた。
シェリルは光弾と氷の術式を使い分けながら動いた。森の中では炎は使えない。雷も危ない。燃え広がる。光弾で仕留め、氷で凍結させてから砕く。近づかせない。
アノリスはヴェントラーゼに風魔法を宿した。足元に風を集めて、体を浮かせた。木の枝の高さまで上がった。吸血鬼の集団が地上で動くのが見える。
――今だ。
風音と伴ってアノリスは急降下した。
風を纏ったヴェントラーゼが弧を描いて、三体をまとめて薙いだ。着地と同時に踏み込んで、また跳ぶ。
ラフィスは無言で剣を振り続けた。一体ずつ、確実に仕留めた。動きに迷いがない。吸血鬼が速く動いても、その先にラフィスがいた。
最後の一体が逃げた。
追わなかった。
三人は焚き火の前に戻った。アノリスが息を吐いた。シェリルが指先の感覚を確かめた。ラフィスが剣を拭いた。
「慣れたものね」とシェリルが言った。
アノリスが首筋を押さえながら焚き火の前に座った。
「ねえ、さっきの急降下、どうだった? 我ながら良かったと思うんだけど」
シェリルが少し考えた。
「風の集め方が前より精度が上がっていたわ。落下速度の制御も悪くない」
「でしょ!」
ラフィスは焚き火を見ていた。アノリスが枝の高さから風を纏って急降下してきたあの動きを、頭の中で反芻していた。
あれは剣ではできない動きだ。
羨ましい、とは思わない。ただ――少しだけ、そういう戦い方も面白そうだと思った。
「夜明けまで交代で見張る」とラフィスは言った。
二人が頷いた。樹海の夜は、まだ長かった。
朝になった。
アノリスの首筋の傷は、シェリルが薬草を取り出して手当てした。浅かったとはいえ吸血鬼の噛み傷だ。シェリルは無言で丁寧に処置した。アノリスは痛くないとは言わなかったが、それ以上も言わなかった。
「薬草は旅の必需品よ」とシェリルは言った。
朝の樹海は、夜と別の顔をしていた。光が木の間から差し込んで、葉が揺れている。昨夜があれだけ物々しかったのが嘘のような静けさだった。
「あと半日で抜けられる」とラフィスが言った。
三人は歩き始めた。
急襲が来たのは、昼前だった。
狼の魔獣だ。昨日のアーチャーとも吸血鬼とも違う。地面を走る速さが段違いだった。数を数える暇もなかった。
シェリルが動いた。
術式が指先から次々と展開される。一つの術式を解放しながら、次の術式をすでに組んでいる。その次も、さらにその次も――頭の中で並列に走っている。
光弾が一発ごとに狙いを外さない。既に三十体は倒れているだろうか。それでもまだいる。シェリルはペースを落とさなかった。その場から一歩も動かず、術式を組む速度が、魔獣の走る速度と拮抗していた。
――これは軽い気持ちで立ち入ったら、並みの旅人は生きていない。
――私たちは並じゃないけど。
計算しながら思った。指先は止めなかった。
アノリスがヴェントラーゼで応戦した。昨日より動きが速い。首筋の傷がまだ疼くはずだが、顔に出ていない。斬撃魔法で前から来る一体を薙いで、風魔法で横から来る一体を弾いた。
ラフィスは剣を振り続けていた。
視界に見えているのも、まだ十体は居る。
前から三体が飛んできたが、対処した。
が、後ろからもう一体来た。
一瞬、遅れた。
「ぐっ!!!何をっ……」
背中から肩にかけて、ラフィスの肌に爪が走った。
深い。ラフィスは苦悶の表情で振り返りながら、その魔獣を斬り捨てた。
少しとは言えない量、出血していた。
右肩の後ろ、じわりと赤が広がっている。ラフィスは確認して、前を向いた。
――何、これくらい問題ない。
痛い。実際はかなり痛い。ただそれを顔に出す理由がなかった。剣を持つ右手はまだ動く。それで十分だ。
シェリルの光弾が横から援護した。アノリスの風魔法が一体を空中に弾いた。三人の動きが、気づけば噛み合っていた。
やがて、魔獣が来なくなった。
シェリルがラフィスに駆け寄る。
「……久しぶりの深手ね」
心配半分、信頼半分というところか。
「私としたことが」
ラフィスは痛みよりも、傷を受けた悔しさの方が先に来ていた。
――
カデア樹海を抜けたのは昼過ぎだった。
木が減った。空が広くなった。街道が戻ってきた。
宿場町が見えてきた。シラという名の小さな町だ。煙が上がっていて、人の気配がある。
三人は宿を取った。今日と明日、二日だけだ。三人別々の部屋を取った。ラフィスの部屋はキッチン付きだった。
部屋に入るとすぐ、シェリルがラフィスを椅子に座らせて薬草の袋を取り出した。アノリスも隣に来た。
ラフィスは黙って座った。上着を脱いだ。傷の深さを見て、アノリスは思わず目を逸らした。
「何度見ても嫌なものだわ」
それに対してシェリルは何も言わなかった。ただ手際よく処置を始めた。
ラフィスは正面を向いたまま、表情を変えなかった。
痛い。かなり痛い。ただそれは顔に出すことではない。国を失っても、名を失っても、これだけは変わらない――王女として育てられた、その矜持だけは残っていた。
シェリルの手が動き続けた。
アノリスがラフィスの顔をのぞき込んだ。
「痛い?」
「問題ない」
「そういう聞き方してないんだけど」
ラフィスは少しの間、アノリスを見た。
「……痛い」
「だよね」とアノリスは言った。それ以上は何も言わなかった。ただ、ラフィスの隣に座った。
手際よく、シェリルの処置が終わった。
「しばらく安静に」
「わかった」
「本当に安静に」
ラフィスは頷いた。
翌朝、アノリスはヴェントラーゼを部屋に置いて、街に出た。
「ラフィ姉の料理だー!」
アノリスに材料のメモを渡して買い物を頼む。
傷はまだあるが動くには問題ない。質の良い薬草だろうか、傷口も化膿せず、昼過ぎからキッチンに立った。何を作るかは決めている。
シェリルは自室でペンを走らせていた。出版のための草稿だ。昨夜から止まっていない。扉の前を通ると、ペンの音が聞こえた。食事の時間には声をかければいい。
シラは小さな町だったが、活気があった。東のリドリウス、そこを経由して南のロズウェル、西のソルペンシアを繋ぐ物流の拠点として機能しているらしく、町の規模に対して市場が大きい。行き交う人間も旅人というより商人や運搬業者が多かった。荷馬車が何台も停まっていて、積み荷の受け渡しをしている声が聞こえた。
街道沿いに露店が並んでいた。干し肉、香辛料、乾燥果物、魔法鉱石の加工品――ソルペンシアから流れてきたものだろうか、光を帯びた石が並んでいる露店もあった。
アノリスは露店をのぞきながら歩いた。
足が止まった。
チーズだ。
小さな露店に、種類が並んでいた。白くて丸いもの、表面が黄色くて固そうなもの、青いカビが入ったもの――アノリスはしゃがんで一つずつ確認した。
「どれがお勧めですか」
「これですよ」と店主が一つを指した。「北の山岳地帯で作られるやつです、この辺りだとなかなか手に入らない。リドリウスにもあるけど、こっちの方がグレードは断然上ですね」
アノリスは受け取って匂いを嗅いだ。少し嗅いだだけで、良いものだとわかった。
「これと、これも」
二種類買った。アノリスは紙袋を抱えて宿へ戻った。
勿論ラフィスから託されたメモに書いてある食材も調達済だ。




