五 畏怖
リーヴィン王宮、魔法師団執務室。
師団長アルヴァン・セルス、七十二歳。視線は窓の外、王都の屋根が夕日に染まっている。
そこにノックの音。
「失礼します」
南部定期巡回から戻った副団長、ベルナルトだった。
「おかえり」とアルヴァンは言った。窓から離れて、椅子に座った。
ベルナルトが向かいに座り、報告書を机に置いた。
「リドリウスの件です」
「聞かせてください」
ベルナルトが話し始めた。
召喚事故の状況、駐屯部隊が三日間対応できなかったこと、現場に到着したときにはすでに使い魔が消えていたこと。アルヴァンは黙って聞いた。
そして、
「消えていた」とアルヴァンは繰り返した。
「はい。霧も影も、完全に。畑の被害の跡だけが残っていました」
「術者の状態は」
「意識が戻っていません。ただ――」ベルナルトが少し止まった。「術者が受けたはずの衝撃が、想定より小さい。強制的に何かを断ち切られた様子がない」
ベルナルトが言葉を続けるに連れて、声が重くなっていくのが自身でもわかった。
アルヴァンが目を細めた。
「つまり、使い魔は暴れて消えたのではない」
「そう見ています。何者かが、外から手を入れた。ただその方法が――」ベルナルトは言葉を探した。「私には見当がつきません」
「魔力の痕跡は」
「残っていました」ベルナルトの声が、わずかに変わった。「規模を見たとき、正直、足が止まりました」
アルヴァンが顔を上げた。
「足が止まった、とは」
ベルナルトは少しばかり恐怖を伴う真顔だった。
「副団長職に就いて十二年になります。これまで戦場で怖いと思ったことは数えるほどしかない。ただあの痕跡を見たとき――何かが違うと思いました。規模が、ではない。質が違う。私の知っているどの術者の痕跡とも、種類が違う」
アルヴァンは黙っていた。
「現場に居合わせた者たちも同じでした」とベルナルトは続けた。「口には出さなかったが、全員が同じ顔をしていた。あれが何者かの仕業だとわかったとき――近くにいなくて良かったと、そう思いました。正直に言えば」
執務室に沈黙が落ちた。
アルヴァンは机の上で指をゆっくりと組んだ。
「特級案件だな」
「間違いなく」
特級。
その言葉が、室内の空気を変えた。アルヴァン自身、その言葉を口にしながら、背筋に何かが走るのを感じた。
魔法師団に五十年いる。自身、上級γの術者として同格の者とも渡り合ってきた。それでも、特級という言葉だけは別の重さを持っていた。
二十四年前に引退した前任の特級。アルヴァンは一度だけ、その人物が術式を展開する場に居合わせたことがある。若い頃だった。
何も言えなかった。ただ立っているだけで、周囲の空気が変わった。
「エーテラリス、という名前を知っていますか」とアルヴァンは言った。
ベルナルトが顔を上げた。
「魔法算術学者の。論文は読みました」
「あの論文を書いた人間の魔力の質と、現場に残っていたものが一致するとしたら」
ベルナルトが黙った。しばらく黙っていた。
「……理論が先にある、という点は」とベルナルトはゆっくり言った。「論文の構造と、似ている気がします」
「二十四年前に引退した前任は、もう生きていないでしょう」とアルヴァンは言った。「ただ――新しい特級が生まれていないとは、誰も言っていない」
ベルナルトが息を吸った。
「エーテラリスが、特級だと」
「わかりません」アルヴァンは言った。「ただ、そうだとしたら――」
アルヴァンは窓の外を見た。夜が来ていた。王都の明かりが、一つずつ灯り始めていた。
「そうだとしたら、どう動くべきか、私もまだ答えが出ていない」
特級、その響きにベルナルト以上に畏敬の念を持っているのは明らかなアルヴァンの声。
数十年ぶりに、その言葉が現実の重さを持って、この部屋に戻ってきた。
「急がなくていい」とアルヴァンは続けた。「焦って追い詰めるより、向こうから来るのを待つ方が賢明。リーヴィンに入れば、いずれわかる」
ベルナルトが頷いた。
「それと」とアルヴァンは言った。「エーテラリスの最新の論文、取り寄せておいてください。読んでみたい」
「理由を聞いていいですか」
「どういう頭の持ち主か、論文を読めばわかる」アルヴァンは静かに言った。「会う前に知っておきたい。もし本当に特級なら――こちらが準備できていない状態で会うのは、得策ではない」
ベルナルトが立ち上がった。報告書を手に取った。
「一つ、個人的な所感を申し上げていいですか」
「どうぞ」
「現場で魔力の痕跡を見たとき――」ベルナルトは少し間を置いた。「怖いとは思いました。確かに思いました。ただ同時に、会ってみたいとも思いました」
アルヴァンは答えなかった。
ただ、また窓の外を見た。




