六 魂を送る儀式
キッチンに立つラフィスは、珍しく表情が柔らかかった。
包丁を動かしながら、鼻歌とも言えないほど小さな音を出していた。本人は気づいていないだろう。
シェリルは部屋の入口から一度だけそれを見て、何も言わずに中に入った。
カリティスディアの冬は厳しかった。食べ物は体を温めるもの、辛い料理が多かった。
麻婆豆腐はその中でも特に好きだったものだ。旅の途中でもキッチンが使えるときは何度か振る舞ってきた。
今日は食材が揃った。シラの市場は小さな町にしては品が豊富だった。豆腐、挽肉、山椒、唐辛子――必要なものがほとんど手に入った。
それだけではなかった。「唐揚げもあるのね」とシェリルが言った。
「明日にはまた北へ発つ」とラフィスは言った。「せっかくだから」
その答えが、なんとなく可愛らしいとシェリルは思った。口には出さなかった。
そこにアノリスが戻ってきた。紙袋を抱えている。キッチンに入って、ラフィスを見た瞬間に顔がほころんだ。
「ラフィ姉が調理場に立ってる。可愛い」
ラフィスが振り返った。
「……嬉しいけど」とラフィスは言った。少し間があった。「男に言われてみたい、そういうこと」
自分で言ってから、ラフィスは少し黙った。
顔が赤くなっていた。
アノリスが笑いをこらえた。シェリルは何も言わなかったが、視線を少しだけラフィスから外した。
「チーズ買ってきた。二種類」とアノリスが気を取り直して袋を開けながら言った。「北の山岳地帯のやつって言われた。珍しいって」
「合うかもしれない」とラフィスは言った。鍋に向き直りながら。耳がまだ少し赤かった。
アノリスがチーズを一切れつまんで口に入れた。目が輝いた。
「美味しい……」
「料理中につまみ食いするな」
「ごめんごめん」
「ラフィ姉の料理、久し振りだ」とアノリスは言った。「やっぱり美味しい。樹海で食べたかった」
「あそこでキッチンは無理だ」
「わかってるけど」
夕食の準備が整う少し前、シェリルが宿のカウンターへ向かった。
「辛い料理に合う赤ワインをグラスで。後ほど部屋に持ってきてもらえますか」
主人が頷いた。
「何杯ご用意しますか」
シェリルは少し考えた。
「様子を見ながら頼みます」
――
三人でテーブルを囲む。
麻婆豆腐が二種類並んでいた。シェリルの分だけ、色が違う。深い赤、辛味を増してある。シェリルは激辛党であった。
唐揚げがその横に積まれていて、アノリスが持ってきたチーズが皿に並んでいた。
「すごい量だ」とアノリスが言った。
「明日からまた街道だ」とラフィスは言った。「食べておけ」
シェリルは自分の麻婆豆腐をひと口食べた。
「美味しいわ」
一般的なものに比べてだいぶ赤い。ラフィスもそれを理解して作ってはいるものの、
「辛すぎないか。大丈夫なのか」
「ちょうどいい、アノリスと違って私はこういうのじゃないと燃えないの」
ラフィスが少し目を細めた。シェリルが辛いものを好むのは知っていたが、この辛さで平然としているのはさすがだと思った。
「姉さん、それどういう意味!」
一瞬興奮したアノリスだったが、唐揚げとチーズを交互に食べながら、幸福そうな顔をしていた。
「ラフィ姉の料理はやっぱり違う。ちゃんとしてるわ」
「ちゃんと、とは何だ」
「旨いってこと」アノリスはチーズをもう一枚つまんだ。「私も料理はそれなりにできるけど、ラフィ姉のは別の次元な気がする」
ラフィスは答えなかった。ただ、少し表情が緩んだ。
宿の主人がワインを持ってきた。グラスに注いでもらった。シェリルが一杯、また一杯と飲んでいた。アノリスがそれを見て少し驚いた顔をした。
「姉さん、結構飲むんだよね」
「こんな美味しい食事……飲むものでしょう」
「そういう問題じゃなくて……」
「美味しいので」
ラフィスが小さく笑った。
背中の傷はもうほとんど気にならなかった。シェリルの処置が良かったのだろう。動いても引きつらない。
シェリル、頻度は多くないが、いざ飲むとなったら酒の量は多い、そして平然としてるように見えて、ある所から突然酔い始める。
服を脱ぎそうになるのをアノリスが何度か止めたこともある。
食事が落ち着いた頃、ラフィスがワインのグラスを持ったまま、少し黙った。
アノリスが気づいた。
「どうしたの?」
「話したいことがある」とラフィスは俯きがちに、言った。
二人が静かになった。
「大陸の最北・ドルヴェナ岬に、なぜ行くのか」
シェリルが手を止めた。アノリスもグラスを置いた。
「カルナヴィアという儀式がある」とラフィスは言った。
「カリティスディアに伝わるものだ。王族が逝去したとき、その者が好きだった花を海に向けて投げる。魂を空に送る儀式だ」
ラフィスの声が、どこか厳かさを帯びていた。
「今は祖国があった場所に立ち入ることができない。帝国がいる。だからせめて――大陸の最北端の岬から、故郷の方角を臨みながら……花を投げたい」
アノリスが、ゆっくりと息を吸った。
「父上と、母上のために」とラフィスは続けた。「父上はマリーヴァという白い花が好きだった。母上はソルティアという青い花を好んでいた。どちらもウルメシアの花だ。ただ――ドルヴェナ岬周辺に、三月末から四月にかけて咲くと、図書館の本に書いてあった」
シェリルは何も言わなかった。ラフィスを見ていた。
「だから三月末に岬にいる必要がある」
テーブルの上に、静寂が落ちた。
アノリスの目が赤くなっていた。
「ラフィ姉」とアノリスは言った。声が少し揺れていた。「教えてくれてありがとう」
ラフィスは頷いた。
それを見て、シェリルはワインを一口飲んだ。
「岬までは行くわ」と静かに言った。「三人で行きましょう」
ラフィスが、シェリルを見た。
そしてアノリスが、ラフィスの手に自分の手を重ねた。
「もうしばらく、一緒に居られるね」
少しだけ、長かった旅の終わりを予感しながら、アノリスは笑顔を作った。
窓の外で、夜風が動いた。
翌朝も、三人はしっかり食べた。
ラフィスが昨夜の残りで朝食も作った。アノリスはチーズを足した。シェリルはワインの代わりに白湯を飲んだ。
シラを発ったのは、朝の早い時間だった。小さな町だったが、短い滞在は充実していた。キッチン付きの部屋も、市場も、昨夜の食事も――しばらく街道が続くことを考えれば、良い英気養いになった。
その後三日間は順調だった。
街道が続いて、天気が持って、ペースが上がった。予定より速い。このまま行けばリーヴィンには余裕を持って入れる。
と思っていたら四日目に、雨が来た。
朝から雲が厚くなり、昼前には本降りになった。宿場がない区間で降られた。簡素な雨具はあるが、それでも追いつかない雨量だった。三人ともずぶ濡れになりながら歩いた。
その夜、小さな集落の宿に転がり込んだ。粗末な部屋だったが雨宿りができるだけよかった。
仲間に男が一人でも居たら少々どころではなく気まずい時間だったろうが、そこは女3人、濡れた服を脱いで拡げてシェリルの熱風魔法で一気に乾かす。




