七 学者談義
そして五日目は快晴。昨日が嘘のような青空だった。
半日歩いたところで、レーエフという小さな村に来た。旅人向けの宿はないが、街道沿いに休憩施設があって、椅子と屋根と水がある。旅人が一時の疲れを癒すための場所だ。簡易的ながら浴場もあった。
三人は旅の埃と汗を流し、予備の着替えに袖を通していた。簡素な薄着、旅装としては軽すぎるし外を歩き回るには少々はばかられる格好だが、九月に入っても今日は特別に暑かった。日差しが強くて、風がない。
大陸の北へ向かうにつれて朝晩は涼しくなってきたが、日中だけはまだ夏の名残が居座っていた。
アノリスは休憩施設の外の木陰に座って、干された服が風で揺れるのをぼんやり眺めていた。
ラフィスは施設の中にいた。
シェリルも施設の中にいた。テーブルの前に座って、ペンを走らせていた。出版のための草稿だ。休憩しているのかしていないのかわからない。ただ紙と向き合っている。
着替えた薄着のシャツのボタンが上から二つ外れている。髪が片側だけ耳にかかっている。なんだか整っていない。
ラフィスはいつの間にか、その姿をずっと見ていた。
気づいたのは、しばらく経ってからだった。
なぜ見ているんだろう。
特に理由はなかった。ただ、見てしまう。エーテラリスとして論文を書き、講義をする顔ではない。かといって戦闘のときのあの顔でもない。ただペンを持って、世界から半分外れたような顔で紙と向き合っている。それが――なんとなく、目を引いた。
可愛らしい、とラフィスは思った。
シェリルに言ったら「事実なので」と返されるか、あるいは全く意味がわからないという顔をされるか、どちらかだろう。だから言わなかった。
「何を見ているの」
シェリルが顔を上げずに言った。
「……何でもない」
「視線を感じた」
「気のせいだ」
シェリルは少しだけラフィスを見て、また紙に戻った。
「魔法算術論の序文を書いている」とシェリルは言った。「読んでみる?」
「読めるのか、私に」
「平易に書いているつもりよ」
ラフィスが椅子を引いてシェリルの隣に座った。草稿を横から覗いた。
数式はなかった。文章だけだった。魔法とは何か、算術とは何か、なぜ二つを結びつけるのか――順番に、丁寧に書いてある。
「難しくはないな」とラフィスは言った。「ただ」
「ただ?」
「これを読んで、術式を組みたくなる人間と、なりたくない人間に分かれると思う」
シェリルがペンを止めた。
「どうしてそう思う?」
「算術に興味がある者には刺さる。ただ感覚だけで魔法を使ってきた者には――自分のやり方を否定されているように読めるかもしれない」
シェリルは草稿を見た。しばらく黙っていた。
「……正しい指摘ね」
「序文の最初に、感覚派を否定しないと書いた方がいいかもしれない」
「書いてみる」
シェリルがペンを動かし始めた。ラフィスは横からそれを見ていた。
アノリスが外から顔を出した。
「二人で何してるの」
「序文の相談だ」とラフィスが言った。
アノリスが目を丸くした。
「ラフィ姉が?」
「何かおかしいか」
「いや……ラフィ姉、意外と鋭いんだなって」
「意外と、とは何だ」
――
レーエフは王都リーヴィン都市圏の最南に位置する。聞くところによるとここから週に定期で二往復、リーヴィン行きの乗り合い馬車が出ているのだという。幸運にも今日は運行日だった。
三人は休憩施設の裏で順番に着替えた。薄着から旅装に戻すと、それだけで体が引き締まる気がした。アノリスが緑のスカーフを巻いた。ラフィスが剣を帯びた。シェリルは上着のボタンを下から留めて、途中で止めた。
「一番上まで留めないのか」とラフィスが言った。
「暑いので」
アノリスがやはり何か言いかけて、やめた。
十八時になった。
乗合馬車は三台、街道に並んでいた。御者が二人ずつ荷物の積み込みをしている。脇に騎士団の兵が二人、魔法師団の術師が一人、立っていた。
乗車前に、騎士団のチェックがあった。一人ずつ、顔と荷物を確認する。ラフィスは証明書のない自分がどう扱われるかと思ったが、問題なく通過した。
三号車に乗り込むと、すでに先客が数人、後から分かったことだが女性専用車だった。出発してしばらくすると、隣の女性が話しかけてきた。三十代、落ち着いた顔立ちをしている。荷物が少ない。往来慣れした雰囲気だ。
「リーヴィンまで?」
「はい」とシェリルは言った。
「私も。よく乗るの、この馬車」と女性は言った。「レーエフに住んでいて、週に一度リーヴィンへ通っているの。王宮付属の機関で天文学を教えています。ファウナといいます」
「それは大変ですね」
「慣れてしまえば。夜の馬車も悪くないわ」
シェリルが少し目を細めた。
「天文学。算術を使いますね」
「ええ、かなり。あなたも算術を?」
「少し」
少し……というには詳しすぎる話が続いた。
軌道の計算、周期の算出、誤差の扱い方――ファウナが話すことに、シェリルはすらすらと返した。
魔法に絡めた応用であることは伏せた。ただ算術そのものの話なら隠す必要はない。会話が弾んだ。
「若いのに立派ね」とファウナは言った。感心した顔だった。「王都には算術を学べる場所もあるし、あなたみたいな人が来ると場が締まる。どちらかで講義を?」
「まだ未定です。話があれば是非受けようかと思っています」
「王都は様々な研究者がいるけど、算術や科学よりも、歴史・文学の方が充実しているわ。あなたのような方はきっと重宝されるかも」
シェリルはファウナとの会話が弾み、アノリスはその会話を聞きながら、いつの間にか眠っていた。
気がつくと、車内が静かになっていた。
ファウナも眠っている。他の乗客もほとんど目を閉じていた。窓の外は暗い。星が出ている。
ラフィスだけが起きていた。
目を開けたまま、窓の外を見ていた。街道沿いの木々のシルエットが、月明かりの中で流れていく。
信頼できる乗り物だとは思っている。護衛もついている。ただ、眠れない。眠れないのではなく、眠るつもりがなかった。
夜を徹して動いている乗り物の中で、周囲を確認できない状態で目を閉じることが、体の習慣として受け付けなかった。
五年の旅が、そうさせていた。
シェリルが隣で静かに寝息を立てていた。アノリスはもう少し深く眠っている。
ラフィスは窓の外を見続けた。
途中、トガラッサという街に着いたのは、深夜だった。
営業所の明かりがついていた。馬車乗り場の他、馬の交代のための施設も兼ねていた。乗客が降りて、外の空気を吸う。
深夜だというのに、トガラッサの乗り場には人がいた。ここから乗車する客たちだ。数が多い。リーヴィンへの往来がこれだけ活発なのだと、改めてわかった。
新しい乗客には乗車前に騎士団のチェックがあった。一人ずつ、手際よく確認していく。三人はレーエフで既にチェックを受けているのでその場で待った。
三号車に戻ると、新しい乗客が加わっていた。席が埋まった。
シェリルはトガラッサの夜の空気を少し吸って、乗り込むとすぐまた目を閉じた。アノリスも満足した顔で戻ってきた。ファウナはトガラッサでも慣れた様子で乗り降りしていた。
馬が新しくなった馬車が、また動き始めた。
「いよいよだな」とラフィスは小さく言った。
誰にも聞こえなかった。
窓の外に、夜の街道が続いていた。リーヴィンへ向かって、まっすぐに。




