十 カルナヴィア
リズンを出て四日が経った。昼前だった。
天気は崩れなかった。大陸最北の三月の終わり、肌寒さは色濃く残っていたが、日中歩いていれば体が温まった。シェリルの術式に頼ることもなくなった。道は緩やかで、海の気配がいつも近くにあった。明日には岬に着く。
道が丘の手前で緩やかに登り始めた。
丘の頂に出た瞬間、ラフィスは足を止めた。
白と青だった。
一面に広がっていた。マリーヴァの白、ソルティアの青。冬の終わりの北の丘に、その二色だけが、風に揺れていた。空の青と海の青と、花の青が重なって、どこまでが空でどこまでが花なのか、境がわからないような景色だった。
ラフィスの体から、力が抜けた。
気づいたら、座り込んでいた。膝から崩れたというより、自然にそうなっていた。土の上に、花の中に、ただ座っていた。
幼い頃に見た景色だ。
カリティスディアの岬に、父上が連れて行ってくれた。春の終わり、あの岬の斜面にもこの花が咲いていた。父上の手を握って、母上がその隣で笑っていた。白と青が風に揺れていた。あの日の空の色を、ラフィスはまだ覚えている。
あの日、自分は何も知らなかった。国が滅ぶことも、父上と母上が奪われることも、たった一人、海を越えて逃げることになるのも。
ただ花が綺麗で、父上の手が温かくて、母上の声がやわらかくて、それだけで世界は満ちていた。
あれから十八年。あの花畑は、もう海の向こうにしかない。焼けたのか、荒れたのか、それとも今も咲いているのか、それすらわからない。
だが――ここに、同じ花がある。
父上と母上が愛した白と青が、失われた国の外側で、こうして毎年、変わらず咲き続けていた。まるで、こちらへ来る自分を、ずっと待っていたかのように。
あの日の父上の手の温もりが、今、風の中に混ざっている気がした。
ここは祖国ではない。祖国は岬から更に西の先、海の向こうにある。もうない国だ。十八年前に滅んだ国だ。
明日岬に立てば、ウルメシア大陸の姿が見える。その先にヴォルテナ帝国がある。祖国を滅ぼした国が、海の向こうにある。
岬に立ったとき、自分は何を思うだろうか。父上と母上を送り届ける、その気持ちは変わらない。だがその向こうに帝国が見えたとき――憎しみが戻ってくるだろうか。今まで抑えていた何かが、溢れてくるだろうか。
わからなかった。
それが、怖かった。
「ラフィ姉」
アノリスの声だった。
気づくとアノリスがラフィスの正面にしゃがんでいた。目が合った。アノリスはラフィスの瞳を、じっと見ていた。逸らさずに、まっすぐに。
何も言わなかった。ただ見ていた。
しばらくそうしていた。それから、アノリスは小さく頷いた。何かを確かめるように。
「大丈夫」とアノリスは言った。「ラフィ姉の目、ちゃんとラフィ姉の目だよ」
ラフィスは何も言わなかった。
それでも、少し、息が楽になった。
アノリスがしゃがんだまま、花を一本摘んだ。白いマリーヴァだ。それからもう一本、青いソルティアを。
「摘もう」とアノリスは言った。「一緒に」
シェリルも傍らに来た。三人で花を摘んだ。儀式のための花だ。マリーヴァを白い束に、ソルティアを青い束に。風が吹くたびに花が揺れて、甘い香りが漂った。
旅の終わりに、女三人で花を摘んでいる。
ラフィスはそれを、どこか遠くから見ているような気持ちで思った。六年前、アノリスと出会ったあの日、こんな終わり方を想像していただろうか。エーテラリスと呼ばれる女と旅をして、大陸の最北まで来て、花を摘む日が来るなんて。
一人だった。ずっと一人で背負ってきたはずの旅だった。それが、いつの間にか、三人になっていた。両親を送るこの最後の日に、隣に二人がいる。それは、あの丘で花を見て育った幼い自分が、想像もしなかった景色だった。
――父上。母上。
――帰ってきました。
心の中で言った。声には出なかった。出せなかった。
――長かった。本当に、長かった。
ラフィスの頬を、何かが伝った。拭おうとして、止めた。
拭う必要はないと思った。ここでは、泣いていていい。この花の中では。
震えていた。体が、細かく震えていた。悲しいのか、嬉しいのか、もう区別がつかなかった。
ただ、十八年分の何かが、少しずつ外に出ていくような感覚だった。
シェリルが、ラフィスの傍らに来た。
ただ、肩に触れた。そっと、静かに。
六年、共にした旅だ。剣を抜いて、背中を預けて、言葉少なく歩いてきた。最後くらいはこうして触れてもいいだろう――そう思った。
この女が、これほど長く泣くのを、シェリルは見たことがなかった。強い女だ。自分の何倍も、痛みを知っている女だ。その女が、花の中で子供のように震えている。かける言葉を、シェリルは持たなかった。だから、ただ、肩に手を置いた。言葉よりそのほうが正しい気がした。
ラフィスは、その手を払わなかった。
アノリスは少し離れたところで花を摘み続けていた。二人を見た。私よりずっと強い二人が、これだけ気を許している。強さというのは、こういうことなのかも知れないと思った。
風が吹いた。白と青が揺れた。
しばらくして、ラフィスが口を開いた。
「明日の昼前には、岬だろうか」
「そうね」とシェリルは言った。手は、まだラフィスの肩にあった。
三人は花を摘み続けた。丘の上で、風の中で、海の気配の中で。
翌日の昼前、ドルヴェナ岬に着いた。
リーヴィンを出て三十一日目だった。
空は晴れていた。雲はあるが薄く、青の方が勝っている。光が澄んでいた。
眼下の海峡が、光を受けてきらきらと輝いている。観光地とするにはあまりにも遠い場所だが、あまりにも美しかった。
岬の先端に立った。
ウルメシア大陸が、はっきりと見えた。霞もなく、水平線の向こうに陸の輪郭がくっきりと浮かんでいる。
正面にはヴォルテナ帝国、ラフィスはその方角をしばらくじっと見つめた。
――来た。
ずっと恐れていた瞬間だった。祖国を奪った国を、この目で見る瞬間。憎しみが戻ってくるなら、今だ。抑えてきた何かが溢れるなら、今この時だ。
ラフィスは、自分の内側を、静かに探った。
だが――波は立たなかった。
十八年、その名を呑み込みながら生きてきた。父が口にしていた「復讐は意味を為さない」これを自分にも言い聞かせてきた。言い聞かせているうちは、まだ憎しみがあった。抑え込む対象が、確かにそこにあった。
なのに今、帝国を目の前にして、抑え込むべきものがどこにも見当たらなかった。
怒りが消えたわけではない。ただ、それはもう、静かだった。燃えてはいない。海の底に沈んだ石のようにそこにあるだけだ。
海の向こうから風が来る。帝国も、祖国も、この同じ風の下にある。それだけのことだ、と思えた。
――ああ。私は、もう、大丈夫だ。
恐れていた瞬間に、恐れていたものは、来なかった。
それからラフィスは、視線を西へ動かした。
ウルメシア大陸の西方。その先に、カリティスディアがあった。今はない。首都ディアルーンは帝国の支配下に置かれた。十八年前に滅んだ国だ。
それでも。
ラフィスは、右手を胸に当てた。カリティスディアの敬礼だ。
――父上。母上。
皆が倒れる中、私は一人南へ流され、生き延びました。
そして今こうやって――私には勿体ない仲間二人と、ここに戻ってきました。
――長かった。
本当に、長かったですね。
やっと会えました。そして、やっとお別れが言えます。
魂を空に送り届けに参りました。
風が来た。岬の草が揺れた。
ラフィスの胸の中に、不思議な晴れやかさがあった。
悲しくないわけではない。むしろ胸の奥は、はっきりと痛んでいた。もう二度と会えない。この送りが済めば、両親は本当に遠くへ行ってしまう。それは、まぎれもない別れだった。
だが、その痛みと同じだけ体が軽かった。十八年、行き場のないまま背負い続けてきたものを、ようやく正しい場所に置ける。
両親の魂を、宙ぶらりんの記憶の中にではなく、この空と海の中へ、返すことができる。
切なさと、晴れやかさ。相反するはずの二つが、同じ一つの場所から溢れていた。
涙が出るのに、笑えそうだった。失うのに、満たされていた。
空が、こんなに広かったのか、と思った。
両腕の花束を持ち直した。右手にマリーヴァ、白。父上の花だ。左手にソルティア、青。母上の花だ。
――投げた。
二つの花束が、岬の先端から海峡へ向かって弧を描いた。風に乗って、少し流れた。それから、波の上に落ちた。
白と青が水面に広がった。波に揺れながら、少しずつ、海峡の向こうへ向かって流れていった。
ラフィスは動かなかった。ただ、見ていた。目が、澄んでいた。
シェリルとアノリスは、傍らで立っていた。
アノリスの目に、涙が光っていた。こぼれる前に、唇を結んで笑顔にした。笑いながら泣きそうな、そういう顔だった。
六年、一緒に歩いてきた。この人の旅が終わる。終わるのに、終わってよかったと思う。その二つが、同時にある。
シェリルは、泣いていなかった。ただ、目が柔らかかった。普段は動かない目が、今日は少し違う色をしていた。
――終わったのね。
この旅は、元はラフィスのものだった。自分とアノリスは、途中から加わっただけだ。アノリスと共にオルネスから九年、ラフィスと一緒に居た六年という時間は、シェリルにとっても短くはなかった。一つの長い何かが、今、終わろうとしている。
その手触りを、シェリルは静かに確かめていた。感情を、データとして眺めるように。それでも口元は、かすかに笑っていた。
白と青が、波の間に見えなくなるまで、三人は岬に立っていた。
風が、また来た。
ラフィスが振り返った。二人を見た。アノリスの笑顔、シェリルの静かな目。
少し、笑った。
「帰ろう」とラフィスは言った。
シェリルは、少し間を置いた。
それから、両手を広げた。
「つかまって」
ラフィスとアノリスが顔を見合わせた。シェリルは左手をラフィスへ、右手をアノリスへ向けていた。
「こういうことは、あんまりやらないんだけど」
少しだけ、照れているように見えた。感情を表に出さないこの女が、旅の終わりに、二人のために何か特別なことをしようとしている。それがどういうことなのか、シェリル自身もうまく言葉にできていないようだった。ただ、この二人を、少し驚かせたかった。喜ばせたかった。
二人は、それぞれその手を取った。
シェリルが足元に風を集めた。音もなく、ただ空気が変わった。次の瞬間、三人の体が岬の地面を離れた。
ふわり、と浮いた。
ラフィスの顔が、変わった。
いつも凛と落ち着いているその目が、大きく見開かれていた。口が、わずかに開いている。将軍でも、王女でも、亡国の生き残りでもない――ただ、空を初めて飛ぶ人間の、無防備な驚きだった。子供のような、と言ってもよかった。長い旅の間、一度も見せたことのない顔だった。
アノリスが声を上げた。「うわ、うわっ、飛んでる!?」
上がっていく。岬が遠くなる。海峡が広がる。
そして――ラフィスの驚きの色が、変わった。
眼下に、世界が開けていた。地上からは見えなかったものが、すべて見えた。光る海峡、白と青の花が流れていく波、ウルメシア大陸の輪郭。空と海の境。
驚きが、感動に変わっていく。見開かれた目が、今度は静かに潤んだ。呼吸を、そっと呑んだ。
――こんな景色を、見せてもらえるとは。
冷たく澄んでいる風が、頬を撫でる。たった今、両親を送ったこの空を、こうして三人で飛んでいる。
シェリルはゆっくりと、西の方角へ向きを変えた。
ウルメシアの西方。水平線の向こう、霞の先に、陸の影がある。
ラフィスは、その方角を見た。
声は出なかった。
しばらくして、静かに言った。
「――あれが、祖国だ」
風が鳴った。三人は空の上で、亡国の都・ディアルーンの方角を向いていた。




