九 北端の潮風
リーヴィンを出て二十六日が経っていた。三月の初めだ。
コルトラン大陸最北の村・リズン。王都からやってくるためには三人がやってきたように山岳を越えてくるか、東側を迂回すれば緩やかな登山道が整備されているので、そちらからやってくる者もいる。ただし王都からだと三人が歩いてきた距離の三~四倍ほどの距離となる。どちらにしろ現在の時期――晩冬から初春――は外部からの来訪者がやってくることはほぼ、ない。
石造りの家が十数軒、海岸線に沿って並んでいる。東側から海がせり出していて、波の音が街のどこにいても聞こえた。漁船が数艘、岸に引き上げてある。人の姿は少ない。
村の入り口で、老いた役人が三人を待っていた。誰かが峠の方角から人が来るのを見ていたらしい。
「旅人か」と役人は言った。驚いた顔をしていた。「こんな時期に、こんな場所に」
「岬へ行く」とラフィスが言った。
役人はしばらく三人を見た。それから、何も聞かずに「ついてこい」と言った。
案内されたのは、村の外れにある石造りの蔵だった。漁具や干物が端に寄せてあって、中央に空間がある。板張りの床に藁が敷いてあった。
「宿屋はない」と役人は言った。「ここなら三人くらいは眠れる。毛布も出す」
「助かります」とアノリスが安堵した表情で言った。
役人は毛布を運んでくると、また何も聞かずに去った。旅人が来ることへの驚きと、それ以上詮索しない分別が、同居しているような男だった。
三人は荷を下ろした。
シェリルが、蔵の壁に手をついた次の瞬間、膝から崩れた。
声もなく、前触れもなく、糸が切れたように床に沈んだ。アノリスが駆け寄って体を支えたが、シェリルの体に力が入っていなかった。人形のようだった。
「姉さん、姉さん」
「……少し、眠いわ」
声が遠かった。目が半分も開いていない。頬の色が悪い。リーヴィンを出てからというものずっと術式を維持し続けていた。防御、加熱、牽制――それを歩きながら、何日も。その消耗が、安全な場所に着いた瞬間に一気に出た。
アノリスはラフィスを見た。ラフィスもシェリルを見ていた。普段は動じない目が、わずかに険しくなっていた。
「頼りっきりだったからな」とラフィスは言った。低い声だった。
アノリスはシェリルをゆっくり横にした。毛布を二枚重ねて被せた。シェリルはそのまま、静かに目を閉じた。呼吸は規則正しい。ただ眠っているだけだ。
「五日くらい居ても大丈夫だよね」とアノリスは言った。問いかけというより、自分に言い聞かせるように。
「岬までまだ間に合う」とラフィスは言った。「ここに居よう」
アノリスはシェリルの傍らに座った。膝を抱えて、姉の寝顔を見た。
ラフィスは蔵の入り口に立っていた。外を見ていた。波の音がする。海の匂いがする。
「少し、外を歩いてきてもいいか」
「行ってきて。私は姉さんと居る」
ラフィスは立ち上がって、蔵を出た。
三日目の夜、三人は蔵の中で食事を取った。
村の役人が毎日、素朴な食事を運んできてくれた。干し魚と根菜のスープ、堅いパン。贅沢ではないが、温かかった。シェリルも今日は自分で器を持って食べた。一日目はアノリスに支えてもらいながらだったから、それだけで回復の証だった。
食事が終わって、しばらく黙っていた。
アノリスが泣いていた。
声はなかった。膝を抱えて、ただ涙が落ちていた。気づいたのはシェリルだった。ラフィスも気づいて、何も言わなかった。
「アノリス」とシェリルが言った。
「……オルネスを出てから、九年になる」とアノリスは言った。「自分が生きてきた時間の、ほぼ半分。そのうち六年はラフィ姉と一緒だった」
炎が揺れた。
「旅が、終わろうとしてる」
感慨ではなかった。怖いのだ、とシェリルは思った。
別れなら、知っていた。
旅の途中で、幾度もあった。二年ほど世話になった街のギルドの仲間とは、次の土地へ発つ朝に別れた。
ある街では、発つまでに期限を区切って付き合った男と綺麗に別れたこともある。そういう別れは、悲しくても、どこかで「こういうものだ」と自分を納得させられた。
いずれ離れると、初めから分かっていたからだ。
でも、これは違う。
生きてきた時間の何割かを、生死を分け合いながら一緒に過ごした相手との別れなど、一度もない。
割り切り方を、アノリスは知らなかった。処理の仕方が、わからなかった。慣れているはずの「別れ」なのに、これだけは、勝手が違った。
「姉さんとは、別れないよ」とアノリスは、涙をこぼしながら言った。「姉さんは姉さんだもん。ずっと一緒にいるに決まってる。それは、考えなくてもわかる」
シェリルは黙って聞いていた。
「でも――ラフィ姉は」
アノリスの声が、少し掠れた。
「よく考えたらさ。ラフィ姉って、亡くなった国とはいえ、王女様なんだよね。私は、ただの平民で。そんな人と、六年も一緒に旅してこられたって、それ、本当はすごいことなんだよ。奇跡みたいなことなんだよ」
炎が、小さく爆ぜた。
「旅が終わったら。ラフィ姉は、本当は行くべき場所に、行っちゃう気がして。私なんかじゃ、手が届かないところに。もう、ラフィ姉って呼べなくなる気がして」
涙が、また落ちた。
「ねぇ」とアノリスは言った。「旅が終わるって、どうなっちゃうの」
ラフィスは、壁に背を預けたまま、それを聞いていた。
――行くべき場所、か。
そんなものは、もうない。国はなく、王宮もなく、両親も、間もなく送る。ラフィスにとって旅が終わった後に残るのは、王女という肩書きの残骸だけだ。それは、アノリスが思っているような「本来の居場所」ではない。
むしろ、逆だった。
北へ近づくほど、人はラフィスに頭を垂れた。王女、殿下。望まぬ距離が勝手に開いていく。その中でアノリスだけが、変わらず「ラフィ姉」と呼んでくれた。手放したくないのは、ラフィスの方だった。
だが――確約は、できなかった。旅が終わった後、自分がどこで何をしているのか、ラフィス自身にもわからない。だから、軽々しく「離れない」とは言えなかった。言えないことが、もどかしかった。
シェリルはアノリスの隣に移った。少し間を置いてから、静かに言った。
「あなたを一人にする理由が、私にはない」
アノリスが顔を上げた。
「研究のために根ざす場所が必要なら、リーヴィンでいい。あなたがリーヴィンに居るなら、それでいい」
アノリスは何も言わなかった。
「ラフィスのことは、私にはわからない」とシェリルは続けた。「でも――離れると決まったわけでもないでしょう。まだ来てもいない別れを、先に泣くことはないわ」
その言い方が、あまりにシェリルらしくて、アノリスは涙のまま少しだけ笑った。
「それに」とシェリルは言った。
「上級試験、がんばれ」
アノリスがはっとした。シェリルの顔を見た。知っていたのか、という顔だった。
シェリルは答えなかった。ただ、少しだけ目が柔らかかった。
ラフィスは壁に背を預けて、二人を見ていた。
カルナヴィアを終えたら、旅の理由はなくなる。十八年間、行き場のなかった両親の魂を天に送り届ける――それが自分の旅だった。
終わった後、どこへ行くのか。正直、まだわからない。
リーヴィンの騎士団から声をかけられていた。正式に所属しないか、と。
それはつまり、その地に根ざして生きていくということだ。王都に、場所を持つということだ。
アノリスもシェリルもリーヴィンに戻るなら――ラフィスは炎を見た――悪くないかも知れない。そう思った。口には出さなかった。
ただ、さっきのアノリスの言葉が、胸に残っていた。もう、ラフィ姉って呼べなくなる気がして。
――そんなことは、させない。
そう思ったが、それも、口には出さなかった。
翌朝、快晴だった。
リズン四日目。空が高く、雲がない。肌寒いが風が違った。山の中とは違う湿った柔らかい風だ。東から来る。海の風だ。
「姉さん、外行ける?」とアノリスが言った。
「行ける」とシェリルは言った。昨日より声に張りがある。
三人は蔵を出た。村の東側に出ると、海が見えた。灰色の冬の海だ。波が白く泡立って、岩に砕けている。潮風が頬に触れた。
アノリスが深く息を吸った。ラフィスは海を見ていた。
この海の向こうに、ウルメシア大陸がある。
もうない故郷が、そこにある。父上と母上が眠っているであろう場所が、この海と繋がっている。
役人が近くを通りかかった。ラフィスは声をかけた。
「一つ聞いていいか。マリーヴァとソルティアという花を知っているか」
役人は少し考えてから、頷いた。
「知ってるよ。白と青の花だろう。この先、北へ向かうと大きな丘がある。そこに毎年咲く。今年も咲いてたよ。いい色だ」
ラフィスはしばらく黙っていた。
「そうか」と言った。「ありがとう」
役人は特に気にした様子もなく、去っていった。
波の音がした。潮風が、また頬を撫でた。
「……明日までは、居させてほしい」とシェリルが言った。少し間があった。「迷惑をかけたわ……」
三人は並んで、しばらく海を見ていた。




