八 拙速の代償
アルヴェの首都レーディアンが陥落したのは、夜半過ぎだった。
報告がヴォルテナの宮殿に届いたのは翌朝だ。ガルデウスが文書を読んで、一度だけ息をついた。ソルが隣で同じ文書を読んで、何も言わなかった。コルドは窓の外を見ていた。
皇帝アルゴスは文書を受け取ると、一読して卓に置いた。
「陥落か」
「はい」とガルデウスが答えた。「夜半過ぎ、帝国軍がアルヴェの首都レーディアンを制圧。アルヴェ執政官は脱出を試みましたが、現在行方不明との報告です」
アルゴスはしばらく何も言わなかった。
「恐らくは、アルヴェ側が我が国の内通者の働きを過大評価した」とガルデウスは続けた。「内通者によってアモクアの前線が薄くなり、その隙に少数でアルヴェがアモクアを襲撃、これが思いのほかうまく行って図に乗ったのかも知れません」
ガルデウスは思わず「間抜けが過ぎますな」と言おうとして、止める。
ただ「戦略として、お粗末にも程がある」と言い換えた。
静かな言葉だった。怒りではなかった。それが余計に重かった。ガルデウスは頭を下げた。
「アルヴェはこれで終わりだ」とアルゴスは言った。
コルドが窓から視線を戻した。
「エレシアが動く可能性は」とアルゴスは聞いた。
「注視は必要です」とコルドは言った。「ただ――エレシアは理知的な国です。アルヴェが陥落したからといって、即座に帝国へ刃を向けることはしない。それをやって全面戦争、などという選択はあの国は行わない。そのくらいの損得勘定は、あの国の王室にはできる」
「カリティスディアの遺児を旗印に担ぎ上げて、という可能性は」
コルドはわずかに目を細めた。「所在は掴めていませんが――エレシアがあの娘を利用するとは考えにくい。そもそもエレシアと我が国は敵対関係にはない」
「ダルガン連合は」
「外交感情は悪化するでしょう。ただ、アルヴェほど拙速な動きはしてこない。法制度など整備されていない未熟な国家ではありますが、彼らは合議で動く。時間がある程度かかる」
アルゴスは頷いた。
さらにコルドが口を開いた。
「一つ申し上げてよいですか」
「言え」
「アモクアでの敗戦――内通者の件を含め、経緯を改めて整理しますと」とコルドは言った。声は淡々としていた。「アルヴェ側は帝国内部の切り崩しを図り、内通者を送り込んできた。ただ、アルヴェの情報網は脆弱です。あの国が単独で、あれほど精度の高い工作を動かせたとは考えにくい」
――何が言いたい、という顔をしてアルゴスはコルドを見た。
「続けろ」
「内通者をあえて泳がせ、アルヴェに偽の情報を流し続けた場合――アルヴェは『帝国内部が崩れている』と過信して攻撃に動く。アモクアでの帝国劣勢もその演出であれば、アルヴェが先に攻撃してきたという事実が残る。帝国はそれへの正当な反撃として、制圧まで一気に動ける」
ガルデウスが顔を上げた。
アルゴスは何も言わなかった。文書を見ていた。それから、静かに言った。
「つまり、誰かがそれをやった、と」
「確認が取れているわけではありません」とコルドは言った。「ただ、そういう筋書きであれば、辻褄が合う」
――結局それをお前がやったのか――アルゴスはコルドを睨んだ。
「引き続き、エレシアの動向を注視せよ」とアルゴスは言った。「以上だ」
「御意」
三人が頭を垂れた。宮殿の窓の外で、雪がちらついていた。
三人は山小屋に三日、閉じ込められた。
どうにも綺麗に晴れる日が少ない。これほどまでに晴天が無いとは考えていなかった。
吹雪が止まなかった。扉を開けると雪壁ができているほどだった。シェリルが術式で小屋の中を温めようとしたが、ラフィスがそれを制した。
「いい加減休んでくれ」
「……分かったわ、ありがとう」
シェリルの返事まで少し時間があった。
吹雪が収まった朝、三人は荷を背負って出た。
雪は深くなっていた。ラフィスが先行して踏み固め、アノリスが続き、シェリルが最後だ。空は晴れている。峠まで、あと半日という地点だった。
シェリルの足が重かった。
長旅の疲労と、山中での術式の連続使用が重なっていた。防御、加熱、牽制、龍への一撃――消耗は積み重なっていた。顔色は普段と変わらないが、歩みが僅かに遅い。
ラフィスが立ち止まった。振り返って、シェリルを見た。
シェリルは一瞬だけ止まった。それからその手を取った。
ラフィスの手は温かかった。引かれるように、足が少し軽くなった。
「峠まであと少しだ」とラフィスは言った。
アノリスは前を向いたまま、何も言わなかった。誰かの助けを得る姉の姿を思い口元が少し緩んでいた。
稜線が近づいてきた。ドルヴェナ峠だ。ここを越えれば、危険地帯を抜け、大陸最北の村・リズンへの下りが始まる。
その手前、岩場を抜けた瞬間だった。
雪面が揺れ、四方の岩陰から黒い影が躍り出た。
巨大な熊だ。体高四メートル近い。冬山に棲む魔獣の類で、毛並みは白銀に近い灰色だ。五頭、じりじりと距離を詰めてくる。
同時に、上空で金属質の鳴き声が響いた。
耳が痛い。音そのものが鋭利だ。黒い影が四つ、空から急降下してくる。ヴァルクラス。先日その幼体と戦闘したが今度は成体。翼長三メートル、羽毛が黒く金属光沢を放っている。翼端が刃状に硬化していて、急降下しながらそのまま切り裂く。群れで動く。
「これなら私にもできそうだ」ラフィスが、剣を抜いた。
アノリスがヴェントラーゼを構えた。「姉さん、ここは私たちに任せて」
シェリルは掴んでいたラフィスの手を離した。
「任せて」と言われたのに、シェリルは岩に背を預けて術式を組もうとした。
指先に魔力を集めるが……重い。いつもより、ずっと重い。
少し無理があると悟った時、シェリルは術式を組むのをやめた。
――たまには二人を頼ろう――シェリルは岩に背を預けたまま、二人を目で追った。
アノリスが動いた。
ヴァルクラスの第一波、急降下してくる二羽。
一羽目に向けて、ヴェントラーゼを薙いだ。法剣の斬撃が空気を切る。翼端の刃と刃がぶつかり、火花が散った。一羽目は軌道を逸らし、岩に激突した。
――いい当たりだわ。
だがもう一羽――二羽目は、逸れなかった。アノリスの背後へ、低く回り込んでくる。
振り向かずに、アノリスは感じた。来る。
ヴェントラーゼを逆手に持ち替えて、後方へ突いた。思いのほか手応えがあった。心臓を一突き。二羽目は次の瞬間、絶命していた。
――クリーンヒット過ぎない?
その時、岩に激突していた一羽目が、体勢を立て直し、再びアノリスめがけて高速で突進してきた。
「アノリス!危ない!」
熊の方にいたラフィスが、叫んだ。
だが、アノリスは慌てなかった。振り向きざま、ヴェントラーゼに多めの魔力を乗せて、二度薙いだ。
斬撃が交差する。突進してきた一羽目は、きれいに四つに割られて、雪面に落ちた。
「さぁあなた達も来なさいよ!」
残った二羽が旋回している。高度を上げて、次の急降下を狙っている。
アノリスは右手でヴェントラーゼを構えたまま、左手を空へ向けた。
最近、試していた術式だ。まだ不安定だが、今やる。
雷が、走った。
「来ないならこっちから行くわ」
蒼白い光が、旋回する二羽を同時に貫いた。雪面近くで怯んだところを、反撃の余地を与えず一羽ごとに斬撃で処理した。
ラフィスが横目で見た。
アノリスが立っていた。息が上がっている。左手から煙が出ている。だがその目は、揺れていなかった。戦士の目だ。獲物を仕留めた後の、静かな目だ。
やるじゃん、とラフィスは思った。
熊が来た。五頭、同時に動いた。
四メートルの巨体が、四方から一斉に距離を詰める。囲まれた。逃げ場はない。
だが、ラフィスの目に、焦りはなかった。
――囲まれた、ということは。
五頭が同時に飛びかかれば、互いの巨体が邪魔になる。ラフィスはあえて、最も距離の近い右前方の一頭へ、自ら踏み込んだ。
一頭目。振り下ろされる前脚を、紙一重で潜り抜ける。すれ違いざま、伸びきった前脚の付け根――関節の内側へ、刃を滑り込ませた。断ち切る。熊の巨体が、勢いのまま前へ泳いだ。
その熊の背を、ラフィスは足場にした。
跳ぶ。
二頭目が正面から突っ込んできたが、ラフィスはすでに宙にいた。空中で身をひねり、落下の勢いをそのまま乗せて、二頭目の首筋へ刃を突き立てる。抜く。着地。
三頭目が横合いから前脚を薙いだ。かがんで、その一撃を頭上へ流す。熊の脇腹が、がら空きになった。立ち上がりざま、下から上へ、斬り上げた。
四頭目。ラフィスの左腕を、跳ねた爪が掠めた。皮が少し裂けた。痛みは感じたが、手は動く。問題ない。むしろラフィスは、その爪を出しきった四頭目の懐へ、一歩踏み込んでいた。至近距離。剣を返して、喉を薙ぐ。
五頭目が、背後から来る気配。
剣は、届かない。
代わりに、肘を入れた。骨が鳴るような音がして、熊が怯んだ。その半瞬の隙に、体を回し、剣を通した。
五頭、全て沈んだ。
最初の一頭に踏み込んでから、五頭目が倒れるまで――ほとんど、足を止めていなかった。舞うように、五頭の間を縫って、一頭ずつ確実に断っていた。
――ラフィ姉、相変わらず強すぎ!
アノリスもまた戦友を称えるような目でラフィスを見る。
ラフィスは息を整えた。左腕を見た。大したことはない。雪で軽く押さえれば止まる。
――いい肉が取れそうだ。
五頭の熊を見渡して、ラフィスは思った。
ラフィスが興味深そうにアノリスに問うた。
「お前、雷はいつから使える。きれいに決まったじゃないか」
「リーヴィンを出る少し前に試してた。まだ不安定だけど」
アノリスは平静を装いながら答えるも、やはり見て貰えていたことが嬉しかった。
シェリルが岩から離れ、アノリスの方を見て薄く笑顔を見せた。
「強くなったわね」
その一言が、胸の奥に、すとんと落ちてきた。
姉に、褒められた。あの、めったに人を褒めない姉に。しかも「強くなった」と。アノリスは思わず顔を伏せた。にやけそうになる口元を、隠すように。旅の間、ずっと追いかけてきた背中に、ほんの少し、認められた気がした。
「……でしょ」
やっと、それだけ言った。声が、少し弾んでいた。




