七 館の主は
ドルヴェナ峠まで、あと二日というところに山小屋があった。
石造りの小さな小屋だ。扉を開けると埃の匂いがしたが、屋根は無事で、薪も少し残っていた。外は雪が舞っている。三人は無言で荷を下ろした。
シェリルが火を起こした。小屋の中に温もりが広がるまで、少し時間がかかった。ラフィスが薪を足した。アノリスが毛布を広げた。
夕食はラフィスが作った。残っていた干し肉と、道中で摘んだ山草を合わせたスープだ。簡素だったが、温かかった。暖を取れる場面では、ラフィスが調理・シェリルが火を起こし、アノリスが食事以外の身辺を整える。この行程で何度もあった。
そして食べ終わって、三人は火を囲んだ。
しばらく誰も何も言わなかった。外で風が鳴っている。小屋の木が時々軋む。炎だけが揺れていた。
「カリティスディアの冬って、どんなだった?」とアノリスが言った。
唐突な問いではなかった。この場所、この夜、この静けさが、自然とその言葉を引き出したような問いだった。
ラフィスは炎を見たまま、少し間を置いた。それから、少し肩の力が抜けたように言った。
「ここよりずっと穏やかだ。雪は降るけど風がこれほど強くない。海が近いから、空気が湿っている」
「海の近くだったんだね」とアノリスが身を乗り出した。
「王都は内陸だったけど、岬へは馬で半日くらい。子供の頃、父上によく連れて行ってもらった」
「いいな。どんな海?」
「色が違う。ここの海とは違う、もっと深くて暗い青だ。ソルティアという花に近い色かな」とラフィスは言った。「冬でも、その色だけは変わらなかった」
アノリスはにこにこしながら聞いている。その顔が、ラフィスには少し話しやすかった。
「王宮は?」
「白い石造りで、大きかった。冬になると雪が積もって、遠くから見ると空と建物の境がわからなくなる。山なのか建物なのか、しばらく見ないとわからないくらいに」
「わあ」とアノリスが言った。「綺麗だね」
「綺麗だったよ」とラフィスは言った。少し間があった。「もうないんだろうけど」
アノリスは笑顔のまま、ただ頷いた。重くしなかった。それがラフィスには、ありがたかった。
「でも岬へ行くんだね」とアノリスが言った。「お父さんと、お母さんに会いに」
――そうか、この子は三歳の時に両親を流行の病で喪っているんだった。
むしろ三歳という年齢では、別れを認識したのかも定かではない。
「両親が居た」という記憶が、アノリスには無い。
私とはまた違う境遇だからか……ラフィスは、アノリスの瞳をじっと見た。
その間、シェリルはずっと黙っていた。
炎を見ているようで、見ていない。眉がわずかに寄っている。アノリスとラフィスのやりとりが耳に入っているかどうかも、定かでなかった。
龍を囲んで倒した。測れないものは、囲むことはできる。あの一件に決着をつけてから、シェリルの中で、何かの箍が緩んでいた。旅の終わりが、近い。
ずっと保留していたものが、この静かな夜に、ふいに輪郭を結び始めていた。
――あの廃洋館。
断片が、繋がっていく。花、立地、海峡。ばらばらに宙吊りにしていた欠片が、一つの像に収束しようとしている。旅が終わろうとしている今になって。
アノリスが気づいた。
「姉さん、どうしたの。怖い顔してる」
シェリルは答えなかった。しばらくそのまま黙っていた。
それから、独り言のように言った。
「あの花茶」
ラフィスが顔を上げた。
「マリーヴァとソルティア。あの廃洋館で育てていた」とシェリルは言った。「花茶を飲むためだけに栽培していた、というのは弱い。茶になる花はいくらでもある。わざわざウルメシア固有の花を選ぶ理由にならない」
炎が揺れた。
「ならば目的は別にある。郷愁か。あるいは、もっと別の何かか」
シェリルは膝の上で指を組んだ。
「あの館の立地が引っかかる。エセウルの手前、エレシアの北西の辺境。監視が届かない場所だ。王都からも、主要な街からも遠い。わざわざそこに、あれほど立派な建物を作った」
「隠れるためだったってこと?」とアノリスが言った。
シェリルは少し止まった。「北へ向かえば海が近い。あの場所から北へ出れば、海峡に出られる」
ラフィスの目が、静かに動いた。
「ウルメシア大陸への出口に近い場所に、ウルメシア固有の花を育てていた館がある」とシェリルは言った。「館の主は、ウルメシアと深い縁がある者だったのではないか。あるいは、ウルメシアの者そのものか」
シェリルは下を向きながら、独り言のように続けている。
――この糸を、どこまで手繰るべきか。
推理が進むほど、その先にあるものの輪郭が、はっきりしてくる。そしてそれは隣に座る友の、根の部分に触れる話だった。理知は止まらない。だが、口にすることが、正しいとは限らない。
それでも、繋がってしまった糸を、シェリルは手放せなかった。
アノリスが黙る。それから、シェリルはラフィスを見た。
「ギロッグという名前」とシェリルは言った。「カリティスディアで聞いたことは?」
ラフィスはすぐには答えなかった。
炎を見ていた。記憶の中を探っているような間だった。それから、ゆっくりと言った。
「……名門の一族として、名前が上がっていた気がする。はっきりとは覚えていない。まだ幼かった頃の話だ。ただ――その名前は、聞いたことがある」
シェリルは続けた。
「カリティスディアはウルメシアの西方にあった。廃洋館はエレシアの西の国境付近にある。海を挟んで、向き合う位置だ。そこにカリティスディアの名門の名を持つ者が、ひっそりと研究所を構えていた。もしや――」
そこでシェリルは、ラフィスの顔を思わず見た。見てしまった、というべきかも知れない。
ラフィスは動揺していた。炎を見たままわずかに揺れていた。握った手が、膝の上で静止している。
しまった、とシェリルは思った。
――よりによって、この夜に。
明後日には、峠を越える。その先の岬で、ラフィスは両親を送る。七歳で祖国を追われ、その亡国の王女は二十五歳の立派な女性となった。その十八年、時に修行に励みながら歩き続けた旅の、最後の目的。両親を奪ったのは、祖国を滅ぼした戦火だ。
そのラフィスが、まさに両親のもとへ向かおうとしているこの夜に、自分は――祖国の滅びの奥に、名門ギロッグの影があるかもしれないと、告げてしまった。
両親を送りに行く道の途中で、両親を失った理由の断片を、突きつけてしまった。
これほど、間の悪い話はなかった。
祖国の話をしていた夜に。父上と母上の話をした直後に、答えの出ない話をこの夜に持ち込むべきではなかった。
「……ごめんなさい」
シェリルには似合わない言葉だった。アノリスが目を丸くした。
「今夜の話じゃなかったわ」とシェリルは言った。「忘れて」
ラフィスはしばらく黙っていた。炎が一度、大きく揺れた。
それから、ラフィスは静かに言った。
「いや」
シェリルが見た。
「……お前が気になるなら、気になるままにしておけ」とラフィスは言った。「私も、考えないわけにはいかないだろう」
自嘲とも苦笑ともつかない、小さな息が漏れた。珍しい顔だった。
「両親を送りに行く。その途中で、この話を聞いた」ラフィスは炎を見たまま言った。「偶然かもしれない。だが――もし意味があるのなら、それを知るのも、あの二人を送る一部なのかもしれない」
アノリスは何も言わなかった。膝を抱えて、ただ二人を見ていた。
風が、小屋の外で鳴った。炎が揺れて、また静かになった。




