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六 縦走

 龍戦から三日が経った。

 高地を抜けると、稜線沿いの道になった。左右が切り立った岩場で道幅が狭い。一列で進むしかない。ラフィスが先頭、シェリルが中、アノリスが後ろ。その順番は変わらなかった。

 そして天候が安定しなかった。晴れたと思えば雲が出て、雲が出たと思えば吹雪になる。山の天気はそういうものだとラフィスは知っていたが、それでも目の当たりにすると話は別だ。

 寒さは、これまでの比ではなかった。息を吸えば肺の奥まで凍るようだった。吐いた息は、まつ毛に白く凍りつく。手袋の中で指の感覚がだんだん薄れていく。少しでも動けば汗をかき、止まればその汗が凍って、今度は芯から体温を奪っていった。

 足元も油断ならなかった。稜線の片側には、雪庇が張り出している。踏み抜けば、そのまま数百メートル下の谷まで落ちる。風紋の下にアイスバーンが隠れていることもあった。一歩ごとに、足裏で雪の硬さを確かめながら進むしかない。

 吹雪のたびに、シェリルが術式を展開した。

 防御の膜、熱の層。三人を包む空気だけを、人が生きられる温度に保つ。それを、歩きながら維持し続ける。龍戦の消耗が残っているはずなのに、シェリルは黙って続けた。

 生身の人間なら、とうに引き返している行程だった。いや、引き返すことすらできずに雪に埋もれていたかもしれない。ラフィスはそれを、歩きながら静かに思っていた。


 ――やはり、もし一人で来ていたら……無謀だった。


 昼過ぎ、雲が切れた。

 束の間の晴れ間だった。日が差すと、それだけで空気が緩む。凍りついていた頬に、わずかな温もりが戻ってきた。

 シェリルが、少しだけ術式を緩めた。日光がある間は、加熱の層を弱めても凌げる。その分、魔力の消耗を抑えられる。

「少し、休む」とシェリルは言った。

 三人は岩陰に腰を下ろした。シェリルは目を閉じて、呼吸を整えた。晴れ間は長くは続かない。山の天気は気まぐれで、一刻もしないうちにまた雲が出るだろう。それでも、この束の間の休息は、貴重だった。

 果たして、半刻もしないうちに、また雲が空を覆い始めた。

「行くわ」

 シェリルは立ち上がり、また術式を組んだ。


 その日の午後、吹雪が戻ってきた。

 シェリルの足取りが、少しずつ、重くなっていた。

 三日間、術式を切らさずに来た。瞬発的な大術式とは違う。低い出力を絶え間なく維持し続ける。その持久の消耗が、じわじわと体を蝕んでいた。歩幅が狭くなる。呼吸が浅くなる。表情は変わらないが、顔色が明らかに悪い。

 一度、シェリルの足が雪の上で滑った。

 とっさに体勢を立て直したが、その一瞬を、ラフィスは見逃さなかった。

 ラフィスが、立ち止まった。振り返る。

「シェリル」

「……大丈夫」シェリルは言った。「続けられる」

「そういうことを言っているんじゃない」ラフィスは、まっすぐシェリルを見た。「お前は、そんなに頑張らなくていい」

 シェリルは、少し、黙った。

「私とアノリスは、多少の寒さなら耐えられる。鍛えている。お前が魔力を削ってまで、常に守り続ける必要はない」ラフィスは続けた。「本当に危ないときだけ、頼らせてくれ。それ以外は――少し、力を抜け」

 吹雪の音の中で、シェリルはしばらく、ラフィスの顔を見ていた。

「……あなたたちが、寒いのは、嫌なの」シェリルは、ぽつりと言った。「私は、平気だから。これくらい」

 とは言ったものの、シェリルは自分の頬に手を当てた。冷えて、感覚が鈍っていた。自分でも気づかないうちに、限界が近づいていたのかもしれない。

「……わかった」シェリルは、小さく言った。「晴れ間では、緩める。吹雪のときだけ、張る」

「それでいい」

 ラフィスは、また前を向いた。

 少しだけ、シェリルの足取りが、軽くなった気がした。


 龍戦から五日目の夜、岩棚の陰に三人でテントを張った。

 ラフィスが火の番をしていた。アノリスはすでに眠っている。シェリルは目を開けていたが、疲労が顔に出ていた。普段は表情が動かない女だ。それでも今夜は、目の下に影がある。

「シェリル」とラフィスは言った。

「お前の魔法に頼りきりで、本当に申し訳ない」

 静かな言葉だった。命令でも報告でもなく、ただそのまま言った。

 シェリルは少し間を置いた。

「あなたたちが居なければ、私は龍に潰されていた」と言った。「お互い様よ」

 ラフィスは何も言わなかった。炎を見た。

「それに」とシェリルは続けた。声が、少し柔らかかった。「こういう旅は、嫌いじゃない」

 ラフィスは少し目を細めた。意外だった。

「そうか」

「事実なので」

 炎が揺れた。二人はしばらく黙って火を見ていた。


 翌朝、また吹雪になった。

 稜線沿いの道は特に狭かった。片側が切り立った崖で、反対側は急斜面だ。大きな術式を使えば振動が雪崩を誘発しかねない。三人は慎重に、一歩ずつ進んだ。

 そのとき、上空で何かが動いた。

 吹雪の中だ。視界が白い。音より先に気配があった。ラフィスが立ち止まった。

「上だ」

 黒い影が複数、吹雪の中から急降下してきた。小さい。成体の半分もない。――ヴァルクラス、成体であれば翼長一メートルほどある怪鳥の一種。それの幼体だ。だが群れている。十羽近い。


 シェリルが防御術式を張った。膜が三人を包む。幼体が膜に激突して弾かれた。防げている。だが連続して外圧がかかり続ける。シェリルの表情が、わずかに歪んだ。

「倒さないと消耗する」とシェリルは言った。声が少し硬い。「でも大きな術式は――」

「わかってる」とラフィスが言った。剣を抜いた。「派手には、やるな」

 狭い山道だ。大きく動けない。しかも大きな術式は雪崩を呼ぶ。ラフィスは最小限の動きで、膜の外縁に近づいてきた幼体を次々と斬った。音を殺した、静かな剣だ。

 アノリスはヴェントラーゼに手をかけなかった。斬撃を飛ばせば、その振動が雪崩の引き金になりかねない。代わりに、右手の指先を幼体に向けた。

 威力は落ちる。だがアノリスの指先から展開する光弾は基本魔法で振動が小さい。一羽ずつ、丁寧に。吹雪の視界の中で、気配を読みながら放ち続けた。


 シェリルの息が、少し乱れてきた。防御を維持しながら、外圧に耐え続けている。足元が、わずかに揺れた。

 ラフィスが一瞬振り返った。シェリルを見た。

「あと少し」と言った。命令ではなく、確認するように。

 シェリルは頷いた。

 吹雪で視界が悪い中、ラフィスは狭い山道を軽快に跳ねながら二体、三体と仕留める。

 そして最後の個体は谷底からこちらへ急接近してきた。アノリスが鞘に納めていたヴェントラーゼを、ここで初めて抜いた。斬撃を飛ばせば雪崩を呼ぶ。だから、飛ばさない。刃そのものを、影に叩きつける。術を乗せていない分、切れ味は鈍い。それでも、渾身の一振りで――黒い影を両断、谷へ落ちていった。

 ――決まった……えへ

 消耗して思うように動けない姉の代わりに、役に立てた。それが、素直に嬉しかった。


 シェリルが息を吐いた。防御術式の輪郭が、少し薄くなった。維持はしている。だが消耗は隠せなかった。

 アノリスはシェリルの隣に来て、そのまま身を寄せた。ぎゅっと、外套の端を掴んで。小さく震えていた。

 寒さか、戦闘の余韻か、あるいはその両方か。十九歳の、少女――というには少々大人びてきたか――の震えだった。

 シェリルは歩みを止めなかった。ただ、少しだけ速さを落とした。空いた手をアノリスの背に、そっと当てた。何も言わなかった。



 ヴォルテナの宮殿の一角に、内務長官ソル・オウルの執務室がある。

 四十五歳。軍人でも諜報員でもない。法と行政を司る男だ。アルゴスの側近三人の中で最も口数が少なく、最も目立たない。だがこの男がいなければ、帝国の日常は動かない。占領地の統治、貴族の不満の処理、税の徴収、治安の維持――戦争が終わった後の国を動かすのは、ソルの仕事だ。


 アルヴェ侵攻が本格化して数日後、ソルはコルドの執務室を訪ねた。

 コルドは書類を読んでいた。ソルが入っても顔を上げなかった。

「内通者の件だ」とソルは言った。

「なんだ」

「意図的に泳がせたとすれば――帝国内部に偽の情報を流し、アルヴェを誘導したことになる。それは帝国の法に照らして、問題がある」

 コルドはようやく書類から目を上げた。「戦果は出つつある」

「戦果の話をしていない」とソルは言った。声は静かだった。「手段の話をしている。確認が取れていないと言っていたが、お前がやったかどうか、私にはわかる」

 これに対し、コルドは黙殺した。

「アルヴェ制圧後の統治は私が担う」とソルは続けた。「お前の手法が表に出れば、占領地の民心は乱れる。それは困る」

「では黙っていろ」

「黙る。ただし」ソルは扉に手をかけた。「次は事前に話を通せ。それだけだ」

 返事を待たずに出た。

 コルドは書類に視線を戻した。しばらくして、小さく息をついた。

 あの男が動くとすれば、法の範囲内でだ。厄介だが御しやすい。そう思った。


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