五 龍殺し
山に入って四日が経っていた。
吹雪は翌朝には収まり、その後は晴れが続いた。雪面が光を反射して眩しい。標高が上がるにつれて空気が薄くなり、息が少し重くなった。アノリスが「なんか頭痛い」と言ったので、シェリルが簡単な循環促進の術式をかけた。「高山病の初期症状ね。じきに慣れる」と言った。アノリスは「姉さんって何でもできるね」と言った。
食料の減りは想定より緩やかだった。ラフィスのおかげだ。
この日の朝も、ラフィスは夜明け前に一人で動いていた。
雪の上に、獣の足跡があった。蹄の形だ。山羊か、あるいはこの高地に棲む近縁の獣か。足跡を辿った。新しい。一時間も経っていない。
風向きを確かめた。自分の匂いが獣の鼻に届かない方角から回り込む。雪を踏む音を殺しながら、岩陰を縫って近づいた。
すると岩棚の上に、灰色の体毛を持つ中型の獣が立っていた。山羊に似ているが、角の形が違う。後脚が太く、急斜面に適応した体つきだ。
警戒している様子はない。
ラフィスは剣ではなく、腰に下げた短弓を取り矢をつがえ、息を整え、放った。
獣は声も立てずに倒れた。解体は手早く済ませた。使える部位を丁寧に分けて、持ち帰れる分だけ持つ。
王族の育ちの良さを考えると、この手際の良さは信じられないものだが、生きるために自然と身に付いたものだ。
戻ると、シェリルがすでに火を出していた。アノリスがまだ眠そうな顔で座っていた。
「獲れた?」とアノリスが言った。
「あぁ、山羊に近い獣だ。名前は知らない」
調理はラフィスがやった。岩塩と、荷の底に残っていた香辛料で味をつけて炙った。シェリルの火で、ゆっくりと。脂が落ちる音がした。香りが広がった。
「また美味しそうな匂いがする」とアノリスが言った。
「黙って待て」
三人で食べた。肉は硬くなかった。山の獣にしては脂が乗っていた。アノリスが「これ、リーヴィンの食堂より美味しいかも」と言った。
「その場で取った物は鮮度が違うわ。そしてまだ残る血の香り、これが……いいわね……ワインが欲しいわ」
ラフィスはシェリルに少しの狂気を感じた。それでいて表情は変わらない。相変わらずこの女の考えていることは読めない。
高地の湖に出たのは、翌日の昼前だった。
数日続いた不安定な天気が嘘のように、空は青かった。雲一つない。山の稜線が白く輝いている。
湖は静かだった。風もない。水面が鏡のように空を映している。覗き込むと底が見えない。どこまでも透明なのに、深さがわからない。光が水の中に入って、そのまま消えていく。
三人は岸に腰を下ろした。アノリスが外套を脱いだ。「暖かい」と言った。ラフィスも剣帯を外して、岩に背を預けた。シェリルは湖面を見ていた。
アノリスが空を見上げて目を細めた。太陽が湖面に反射して眩しい。揺れもなく、音もなく、ただ光だけがある。
その時だった、うとうとしていたラフィスが目を突如開けた。
音がする。湖底から、何かが近づいてくるような、低い響きだ。耳というより、体の芯に届く音だった。
シェリルが立ち上がった。
魔力だ。膨大な量が、水の下から迸ってくる。術式ではない。生き物の、剥き出しの力だ。
――これは
アノリスが外套を拾い上げた。空気が冷えている。さっきまでと違う。太陽は変わらず照っているのに、肌が粟立った。
水面が動いた。波紋ではない。もっと大きな、湖の底から何かが押し上げてくるような動きだ。
――ゴゴゴ……ッ
反射していた太陽が、俄かに歪んだ。
――ドォンッ!!
次の瞬間湖面が割れ、水柱が天を突いた。
その飛沫が、湖畔の三人に降り注いだ。頭から水を被り、視界が一瞬白く濁る。冷たい水が、肌を、目を打った。
その白い飛沫の向こうから、白銀の巨体が、せり上がってきた。
龍だった。
鱗が、陽光を弾いて銀色に輝いている。水を滴らせながら、長い首をもたげ、翼を広げた。湖の半分を覆うほどの巨体が、水面の上に浮かび上がった。全長は、三
「災害級ね」と、水しぶきを被った中でもシェリルだけは龍の存在を視界に認めていた。「それも――今まで見た中でも、一番か、それくらいの大きい」
龍の目が、開いた。
金色の瞳が、湖畔の三人を捉えた。
同時にアノリスが風を放っていた。ヴェントラーゼの斬撃が、龍の横腹を薙ぐ。
だが風の刃は、濡れた鱗の表面を滑っただけだった。血の一滴も流れない。
龍が、首を振った。そして湖上で龍は突風を起こす。巻き起こった水と風が、アノリスの体を吹き飛ばした。雪原の上を転がり、岩に叩きつけられて止まる。
「アノリス!」
「……っ、平気!」アノリスは立ち上がった。だが右腕を押さえている。まともに受けていた。
シェリルは、その間に術式を組んでいた。
魔法と複素解析。魔法を炸裂させる点――「極」と貫通力――「位数」を設定し、そこに「留数」――威力を集中させる、そしてその領域を周回積分することによって強大な力が炸裂する。
龍という巨大な質量の中で、最も脆い一点――生命の核となる座標を、極として捉える。そこに強大な魔力を叩き込めば、どれだけ硬い鱗も意味を為さない。
龍と戦うのは、初めてではなかった。過去にも、大型の個体を仕留めたことがある。手順はわかっていた。
シェリルは龍の座標を、確定しようとした。
その瞬間、龍が咆哮した。
空気が、歪んだ。
水面が細かく震える。だがそれは、音による震えではなかった。
もっと根本的な、空間そのものの歪みだった。龍を中心に、半径数十歩の領域が揺らいでいる。その領域の中で、シェリルの組みかけた術式が――崩れた。
――測れない領域。
それが何かは、すぐにわかった。
以前対峙した龍も、これに近いものを使ってきた。座標を狂わせ術者の照準を奪う領域。
論文で「可測でないもの」として扱った、あの現象だ。
だが――規模が、違った。
「……これは」
座標が、定まらない。龍の位置を捉えようとするたびに、値が飛ぶ。極が確定できない。留数が計算できない。組んだそばから、術式が意味を失っていく。
以前のものとは、歪みの強度が桁違いだった。あの時は、領域の縁を見切って外から極を捉えることができた。だがこの龍の領域は、縁すら霞んでいる。
――格が、違う。
これまで相手にしてきた龍とは、明らかに別格だった。
そして、シェリルが一瞬見せたその隙を、龍は逃さなかった。
龍が身をひるがえした。その巨大な尾が、水面を薙ぎながら、湖畔へと振るわれる。
狙いは――シェリルではなく、ラフィスだった。二人の中で最も前に、水際まで出ていた者を、龍は的確に捉えていた。
「ラフィス、避けて!」
だが、水を被って視界の定まらないラフィスの反応は、一瞬遅れた。
尾が、直撃した。
鈍い衝撃音。ラフィスの体が、宙を舞った。雪原の上を大きく吹き飛ばされ、岩に叩きつけられて止まる。
「ラフィ姉!」
だが――ラフィスは、動いた。
岩に手をつき、ゆっくりと身を起こす。骨は砕けていなかった。
その胸元で、一つの石が、砕けていた。
エルナが渡した、防御の石だ。回復薬と一緒に、「もしもの時に」と持たされていた、防御魔法の込められた石。それが、尾の直撃を、一度だけ肩代わりして砕けた。
おかげで、致命傷は免れた。傷は、打撲と掠り傷程度。立てないほどではない。
「……助かった」ラフィスは、剣を握り直した。だが、その手は、もう龍には向かわなかった。
わかっていた。あの尾の一撃を、まともに受けた。防御の石がなければ、今ので終わっていた。そして――自分の剣も、アノリスの風も、鱗の一枚すら断てなかった。
この龍には、歯が立たない。
武人としての矜持を、ラフィスは一度脇へ置いた。ここで意地を張って前に出ても、龍の的が増えるだけだ。
残っているのは、シェリルだった。
「シェリル」ラフィスは言った。「任せる」
「ええ」
その返事は、驚くほど、静かだった。
ラフィスは、シェリルの横顔を見た。
目の前に、村を一つ滅ぼすなど造作も無いであろう龍がいる。それも、これまで見た中でも最大級。
空間を歪める領域を張り、こちらの攻撃は何一つ通じない。ラフィスもアノリスも、ほとんど戦力になっていない。
絶望的な状況だった。
なのに、シェリルの手は迷いなく術式を組んでいる。呼吸も乱れていない。まるで、答えの決まった問題を、順番に解いているような。
――なんで、あんなにも、冷静なんだ。
この状況で、どうすればあの顔でいられるのか。ラフィスには、わからなかった。
わからないまま――ただ、任せられると、思った。
シェリルは、龍を見た。
測れない領域が、龍を包んでいる。その中では、極を捉えることはできない。一点を狙う術式は、すべて無効化される。いつものやり方――領域の縁から極を狙う手は、この龍には通じない。縁が、測れないほどに霞んでいるからだ。
――なら、もっと根本に戻る。
座標が定まらない。ならば、座標を必要としない術式を組むしかない。
留数定理。
シェリルは、その本質に立ち返った。
あの定理は、本来内部の極を「一点として特定する」ものではない。閉じた曲線で内部を「囲めば」、その境界を巡る積分だけで、内部に含まれる特異点の総和が捉えられる――それが、留数定理の本当の姿だった。
極が、どこにあるかを知る必要はない。
囲んでしまえば、いい。
――測れないなら、測ろうとすることをやめる。
シェリルは、両手を広げた。
龍の一点を狙うのではない。龍を含む領域ごと、外側から閉じた曲線で囲む。内部がどれだけ歪んでいようと、どれだけ座標が狂っていようと、境界さえ閉じてしまえば――内部の特異点は、逃げられない。
「測れないものは、消せない」シェリルは、静かに言った。「でも、囲むことはできる」
シェリルの周囲に、魔力が集束していく。これまでとは、規模が違った。一点に集める術式ではない。龍を、龍の作る領域ごと、丸ごと包み込むだけの、巨大な閉曲線を描く。
それだけに、流石のシェリルでも莫大な魔力量を消費する術であった。
ここでこれを使ったら、この先何が起こるか……しかし、眼前の龍を倒さなければ先にも進めない。
シェリルの顔が少し険しくなった。
――風斬術の応用。円形展開の、最大版。
シェリルの足元から、光の環が広がっていった。湖面の上を龍を中心に、大きく、大きく、光の閉曲線がぐるりと回り込んでいく。龍がそれに気づき、身をよじった。湖に潜れば逃げられると思ったのか、巨体が水面へ沈もうとする。
だが――無駄だった。
水中に潜ろうと、どこに動こうと、龍は「閉じた曲線の内側」にいる。位置が測れないことは、もう問題ではなかった。内側にいる、という一事だけが、確定していればいい。
光の環が、閉じた。
「――終わり」
その瞬間、境界を巡る魔力が、内部のすべてを捉えた。
閉曲線の内側に含まれた特異点――龍という巨大な質量の、生命の核。それが、位置を問わず、留数として、引きずり出された。逃げ場のない収束が、龍の内側で、爆発的に解放された。
龍が、声を上げた。
これまでの咆哮とは違う、断末魔だった。白銀の巨体が、内側から崩れていく。測れない領域が、霧が晴れるように消えた。空間の歪みが、収まっていく。
白銀の龍は、湖面に、崩れ落ちた。
巨大な水柱が上がり――やがて、静けさが戻った。龍の亡骸が、ゆっくりと湖に沈んでいく。銀の鱗が、水の底へと消えていった。
湖面が、また静かになった。
シェリルは、片膝をついた。呼吸が荒い。あれだけの規模の術式を、あの短時間で組んだのだ。魔力の消耗は、隠しようもなかった。
だが、休んでいる暇はなかった。
「エルナの回復薬を」シェリルはアノリスに言った。「二人とも、飲んでおいて」
アノリスが小瓶を取り出し、ラフィスと分けて口にした。打撲の痛みが、少しずつ引いていく。
「石が、なければ」ラフィスが、湖面を見ながら言った。「今ので、終わっていた」
「石があった。だから、終わっていない」シェリルは短く言った。「エルナに、感謝することね」
ラフィスは、小さく頷いた。それから、まだ片膝をついているシェリルを見た。
この人は、いつもこうだ。あれだけのことをやってのけて、涼しい顔をしている。
シェリルは、龍が沈んでいった湖面を、一度だけ見た。
――測れないもの。
論文の中の言葉が、また、肉を持って目の前に現れた。そして、その答えも。
測れないものは、消せない。理論をどれだけ積み上げても、必ず現れる。
だが――囲むことは、できる。
シェリルは、立ち上がった。
アノリスが両手を前に出した。
風を止める術式だ。まだ習いたてで、大きな規模では使えない。ただ、今は龍もいない。試してみる価値はある。集中して、術式を組んだ。
風が、少し弱まった。完全には止まらなかったが、確かに弱まった。
「……止まった、少し」
「悪くない」とシェリルは言った。
それからシェリルは三人の周りに熱風を巡らせた。濡れた外套に、温かい風が通る。水気が蒸発していく。
アノリスが「あったか……」と言って目を細めた。
補足というか:大学数学の複素関数論で出てくる言葉が出てきます。平たく言うと、分母が0になりそうな点を含むエリアを積分しようとすると魔法がズドーンと行く、みたいなそんなイメージです。




