四 制圧せよ
ヴォルテナ帝国の冬宮に、皇帝アルゴスの声が響いた。
六十六歳。大陸最大の版図を三十年間維持してきた男の声は、怒りに満ちていてもなお低く、重かった。側近たちはそれを知っているから、余計に身を縮めた。
「アモクアが、だと」
「は」とガルデウスが答えた。六十二歳、軍総帥。この男が歯切れ悪く答えるのは珍しかった。「アモクア正面、現在劣勢との報告が入っております。加えて――」
「加えて、何だ」
「内通者が、複数出ている模様です」
沈黙があった。
冬宮の謁見室は広い。天井が高く、声が残響する。アルゴスの沈黙もまた、部屋の中に満ちた。
「複数」
「はい」
「我が軍に、複数の内通者が」
「調査中ではありますが、状況証拠からそう判断せざるを得ません」
アルゴスは玉座の肘掛けを、指でゆっくりと叩いた。一度、二度。それだけだった。
「ダルガン連合との共同声明の件はどうなった」
今度はコルドが答えた。五十二歳、諜報統括。「虚報でございました」と言った。「ダルガン連合がアルヴェとの共同声明を出すという情報、最初から存在しなかった可能性が高うございます」
「最初から、なかった」
「はい」
アルゴスはしばらく何も言わなかった。
ガルデウスが口を開いた。「アルヴェがダルガン連合との連携を画策していたことは事実であり、先手を打つという判断は――」
「共同声明も出さぬうちに攻撃してくるなど、あるか」アルゴスの声が低くなった。「宣言もなく動いてくるとは思わなかった、ということか。小国のくせに、拙速にも程があろう」
皮肉だった。怒りではなく、嘲りだ。アルヴェが焦って動いたことへの、純粋な軽蔑。
だが次の言葉は違った。
「内通者を探し出せ」とアルゴスは言った。今度は静かではなかった。
「一人残らず。見つけ次第、火炙りにしてカラスの餌にしろ。我が軍の中に、敵に通じる者がいるなど――」
言葉が途切れた。
玉座の肘掛けを握る手が、白くなっていた。
「御意」とコルドが素早く答えた。
ガルデウスは、頭を垂れたまま、口を開かなかった。
我が軍、と皇帝は言った。だが、その軍を預かっているのは、他ならぬ自分だ。中枢に敵の手が伸びていたことを、総帥である自分が防げなかった。その事実が、腹の底に、鉛のように沈んでいた。
これから炙り出される者たちの中には、顔を知っている者もいるだろう。名を知っている者も。共に戦場を踏んだ者すら、いるかもしれない。
それでも、庇うことはできない。庇えば、次に火にくべられるのは自分だ。そういう場所に、自分は立っている。
ガルデウスは、感情を、奥へ押し込めた。押し込めることには、慣れていた。
アルゴスは立ち上がった。六十六歳の体は、しかし老いた様子を見せなかった。玉座から降りて、窓の外を見た。冬の空だ。雪雲が低く垂れている。
「銀山一つを狙って、我が軍に牙を剥いてきた」とアルゴスは言った。「ならば、こちらの答えは一つだ」
振り返った。
「アルヴェを制圧せよ」
ガルデウスが顔を上げた。制圧、という言葉の意味を確かめるように。
「アモクアを押し返した後、そのまま国内へ入れ。資源も、土地も、すべて帝国のものにしろ。銀山一つを取りにくるというなら、我々はアルヴェの持てるもの全部を取る。それが帝国への敵対の代償だと、大陸に示せ」
制圧、と皇帝は言った。
それは、国境の押し返しではない。アルヴェという国を、地図から消すということだ。執政官も、民も、街も、畑も――一つの国が持つすべてを、帝国の版図に塗り替える。数万の民の生が、この謁見室の一言で、決められた。
そして、それを見た大陸の他の国々は、震え上がるだろう。帝国に牙を剥けば、国ごと消される。その恐怖こそが、皇帝の狙いだった。銀山は口実に過ぎない。アルヴェは、大陸全体への見せしめとして選ばれたのだ。
ガルデウスは、それを理解していた。理解した上で、頭を垂れるしかなかった。
三人の大臣が、揃って頭を垂れた。
「――御意」
冬宮の窓の外で、雪が降り始めた。
コルドが動いたのは、その日の夜からだった。
情報部の精鋭を四つの部隊に分け、アモクア方面軍の全部隊に送り込んだ。表向きは補給物資の確認だ。実際には、兵の動き、書簡の記録、金の流れを洗い直す作業だった。
三日で最初の一人が浮かんだ。アモクア方面の連絡将校だ。アルヴェ側への情報漏洩が書簡の筆跡照合で確認された。本人は否定したが、否定する時間は与えられなかった。
五日で三人。七日で六人。
軍の中枢に近い者もいた。名簿の中に、ガルデウスが直接指揮したことのある将校の名があった。かつて、戦場で背中を預けた男だ。なぜ、と問うことは許されなかった。問うたところで、結末は変わらない。
ガルデウスは、その名の上を、指でなぞった。それから、名簿をコルドに返した。何も言わなかった。それが、この機構における、総帥の仕事だった。
コルドは横目で、それを見た。何も言わなかった。それも、この男の仕事だった。
十日後、コルドは冬宮に戻った。
「九名を確認しました」と報告した。「うち七名は方面軍内、二名は帝都の連絡網に潜んでおりました」
アルゴスは何も言わなかった。頷きもしなかった。ただ、「やれ」とだけ言った。
処刑は翌朝、帝都の広場で執行された。九名全員、火炙り。見物人は多くなかった。冬の朝だったからか、あるいは見に来ることを恐れたからか。
ガルデウスは、その場には行かなかった。行く必要もなかったし、行きたくもなかった。ただ、執務室の窓から、広場の方角に立ち上る煙を、一度だけ見た。
背中を預けた男も、あの煙の中にいる。
ガルデウスは、窓から離れ、机に戻った。積まれた軍務の書類に、手を伸ばした。手を動かしていないと、余計なことを考える。この機構の中で生き残るとは、そういうことだった。
カラスだけが、広場に集まった。
――
山の入り口は、穏やかだった。
針葉樹の森を抜けると視界が開け、白い斜面が広がった。踏み固められた道はここで途切れる。あとは雪の上を自分たちで歩くしかない。空は薄曇りで、風もなかった。
「思ったより悪くない」とアノリスが言った。
「山の天気は変わる」とラフィスが言った。「油断するな」
登り始めて最初の一時間は、確かに悪くなかった。雪は深いが踏み締めれば沈まない程度だ。傾斜もまだ緩い。アノリスも雪道に少し慣れてきたようで、足の運びが最初の日より様になっていた。
ラフィスが前を行き、シェリルが中、アノリスが後ろ。三人の息が白く、風もなく、静かな登りが続いた。
二時間ほど経った頃だった。
風が来た。
最初は小さかった。木々の梢が揺れる程度だ。だがそれが十分もしないうちに強くなり、雪を巻き上げ始めた。視界が白くなった。気温が一気に落ちた。アノリスが外套の前を押さえた。
「吹雪だ」とラフィスが言った。
それを聞くと、シェリルは何も言わずに手を前に出して術式を組んでいた。
防御の層を外側に、熱の層を内側に――二重の構造だ。風を遮る壁と、その内側を満たす熱波。展開した瞬間、三人を包む空気が変わった。吹雪の音は聞こえるが、風は届かない。冷気が遮られ、じわりと温もりが戻ってきた。
アノリスが目を瞬いた。「……暖かい」
「外の吹雪を防ぎながら内側を加熱している。二種の術式を同時展開している形ね」とシェリルは言った。歩みを止めずに術式を維持したまま斜面を登っている。「上級魔法使いになれば、これくらいはできる」
アノリスはピクッとした。「上級」という言葉に思わず反応した。帰ったら受ける試験のこと。それから姉の背中を見た。吹雪の中を、術式を二枚重ねて維持しながら、普通に歩いている。魔力の消費も、足取りも変わっていない。
すごい、と思った。知っていたはずのことだったが、改めてそう思った。
ラフィスは無言でシェリルを見ていた。二種の術式を同時に、しかも移動しながら維持する――魔法のことはよくわからない。だが、器用なことをしているのはわかった。剣と斧を両手に持ちながら、背中に弓も用意しているようなもの。普通はどちらかが疎かになる。それが疎かになっていない。
「寒くなったら言って」とシェリルは続けた。「出力を上げる」
「……うん」とアノリスは言った。少し間があった。「ありがとう、姉さん」
シェリルは前を向いたまま答えなかった。ただ、術式の輪郭が少しだけ広がった。アノリスの側に、熱が寄った。
吹雪の音が外で唸っている。三人の足が雪を踏む。白い斜面が続く。




