三 同じ火を囲んで
リーヴィンを出て三日が経った。
街道は北へ向かうにつれて細くなった。舗装された石畳はとうに途切れ、今は踏み固められた土の道だ。両脇の木々も低木から針葉樹に変わり、空が少しずつ狭くなっている。
雪は強かった。積もるというより、横から叩きつけてくる。出立前にリーヴィンで用意した防寒着が早速役に立った。厚手の外套、手袋、耳当て――揃えておいてよかった、とアノリスは心底思った。
ただ、雪道そのものが慣れなかった。
「足が……沈む」特にアノリスが手こずっているようだった。
「雪の上は重心を前に置くな」とラフィスが言った。「少し浅く踏め」
「そう言われても」
ラフィスは振り返った。アノリスの足元を一度見て、何も言わずに歩き出した。その足運びは滑らかだった。雪の上でも音が変わらない。身のこなしに無駄がない。騎士団での訓練か、あるいはもっと前からそういう場所を歩いてきたのか。
シェリルはアノリスの隣に並んで、外套の端をアノリスの肩に少し被せるようにして歩いた。
「暖かい」とアノリスが言った。
「体温が逃げているわ」
それだけ言って、シェリルは前を向いた。アノリスは少し縮こまって、姉の外套の端を握った。
ラフィスはその二人を横目に見た。
微笑ましいな、と思った。
王族の中で一人だけ生き残り、ともに逃げた国の者とも道中で悉く離れた。守ってくれた者は、順に欠けていった。南へ向かう船の上で、荒野で、名も知らぬ町の路地で――一人、また一人と。最後には、誰も残らなかった。
――おいて行かれるだけだった。
そんな中で出会った、二人姉妹。
出会ったのはラフィスが十九の時。アノリスはまだ十三ほどで、戦いの厳しさも知らないような顔をしていた。それが、みるみるうちに力を付けていった。
既に完成していたように思えた姉と、あとを追うように伸びていった妹。
――私も、家族みたいだな。
ラフィスは思わず口にしそうになった。
そして、もう一つ。
南にいた頃は、まだよかった。だが北へ近づくにつれて、カリティスディアの名を知る者が増えてきた。少し素性を明かせば、王女とか、殿下とか、望んでもいないのに人がひれ伏す。そのたびに、自分と相手の間に、見えない壁が一枚立つ。
その中で、この子だけは違った。出会った日から今日まで、変わらず「ラフィ姉」と呼び続けてくれる。それに、どれだけ救われてきたか。
――いつまで、私はこの子の「ラフィ姉」でいられるのだろう。
そう考えると、少しだけ、胸が震えた。
昼過ぎに小さな集落を通った。十軒ほどの家が街道沿いに並んでいるだけだ。井戸端に老人が一人いて、三人を見て目を細めた。
「南から来たか」
「リーヴィンから」とラフィスが答えた。
「北へ行くのか」老人は空を見上げた。「今年は雪が多い。山道は気をつけろ」
それだけ言って、老人は家の中に入っていった。
夕刻、村の外れ、街道沿いにキャンプ場があった。
テントと簡易な調理器具が備えてある。こんな季節にこの場所を好んで使う旅人はいないらしく、当然ながら三人の他に誰もいなかった。
ラフィスはテントを手際よく張った。支柱を立て、布を被せ、固定する。迷いのない動きだった。
調理器具を出したところで、ラフィスが荷の中から食材を取り出した。乾燥食料とは別に、玉葱、干し肉、香辛料が出てきた。アノリスが目を丸くした。
「それ、どこに入れてたの」
「荷の底」
「重くなかった?」
「なった」
淡々とラフィスは応えたが、やはり旅の基本は食糧だ。常備食だけでは何かと足りない。特に厳しい雪山に挑もうとしている。空腹は死に直結する場面も考えられる。
火はシェリルが出した。指先で小さな炎を作り、薪の下に差し込む。過不足のない、必要な分だけの火だ。ラフィスはそれを確認してから鍋を置いた。
雪は降り続いていたが、風は穏やかだった。炎の揺れが小さい。テントの中に温かい匂いが満ちてきた。
ラフィスの手が動き始めた。
まず干し肉を取り出して、薄く削ぐように切った。厚みが均一だ。次に玉葱を半分に割って、繊維に沿って細く刻む。刃の動きに迷いがない。まな板代わりの平たい石の上で、音が規則正しく続いた。
アノリスは思わず身を乗り出した。
「ラフィ姉、包丁さばきが剣みたい」
「同じだ」とラフィスは言った。「刃物の使い方は変わらない」
香辛料を取り出した。小さな布袋がいくつかある。蓋を開けて匂いを確かめてから、指でひとつまみずつ計った。量を測る器具は使わない。感覚で足りているらしかった。
シェリルは少し前に身を傾けて、その手元を見た。
「そのひとつまみの根拠は」
「経験だ」とラフィスは言った。
「数値化できない?」
「できない」
シェリルは少し考えてから「そっか」と言った。
納得したのか諦めたのか、どちらともつかない顔だった。
鍋に水を張り、シェリルの火で沸かす。沸いたところで干し肉を入れた。灰汁が出てくる。ラフィスはそれを丁寧にすくった。一度、二度、三度。急がない。鍋から目を離さなかった。
「灰汁、ちゃんと取るんだね」とアノリスが言った。
「取らないと雑味が出る」
「私、いつも途中で面倒になって最後雑になっちゃうんだよね」
「だからお前の料理は惜しい」
アノリスが少し黙った。「……惜しい、か」
「上手いんだ。丁寧にやればもっと良くなる」
アノリスは口をへの字にしたが、悪い気はしていないようだった。
その横顔を、シェリルは少し見た。
出会ったばかりの頃のアノリスは、もっと単純に元気で勇敢だった。怖いものなど何もない、という顔をしていた。
今は違う。怖さを知った上で、それでも前に出る。丁寧にやれば、と言われて少し黙るくらいには、物事の機微を測るようになった。
――そういえば、私は。
シェリルは鍋の湯気を見た。妹以外の誰とも、うまく一緒にいられなかった。承認をくれた人は早くにいなくなった。以来ずっと、隣にいたのはこの子だけだった。
それが今は、三人だ。
シェリルは、それ以上は考えなかった。ただ、湯気の温かさが、いつもより少しだけはっきりと感じられた。
灰汁が落ち着いたところで玉葱を入れた。香辛料を順番に加えていく。最初に何かを、少し間を置いてから別のものを。投入の順序があるらしかった。
シェリルがまた口を開いた。
「順番に意味がある?」
「ある。先に入れるものは香りを出したい。後から入れるものは風味を残したい」
「熱の通り方で変わる」
「そうだ」
シェリルはしばらく黙って鍋を見ていた。それから「算術では書けないな」と小さく言った。独り言のようだった。
ラフィスは聞こえていたと思うが、何も言わなかった。蓋を少しずらして火加減を調整した。テントの中に香りが広がってきた。干し肉の旨味と、香辛料の複雑な匂いが混ざっている。
アノリスが深く息を吸った。
「美味しそう……」
「もう少しだ」
ラフィスは最後にもう一種類だけ香辛料を加えた。鍋をかき混ぜて、一度だけ味を確かめた。木さじを唇に当てて、少し考える顔をした。それからもう一度、ほんの少しだけ何かを足した。
「できた」
アノリスは受け取った器を両手で包んで、一口飲んだ。目が細くなった。
「……美味しい」
「当然だ」
「当然て言える人、すごいと思う」
シェリルは器を受け取って、静かに飲んだ。
「事実、美味しいわ……やっぱりラフィスにはかなわない」と言った。
ラフィスは自分の器を持ったまま、少しだけ口元が動いた。
しばらく、三人は黙って食べた。木さじが器に当たる音と、外の雪の音だけがした。
「峠を越えたら、岬まではどれくらい?」とアノリスが聞いた。
「あと数日ね」とシェリルが言った。「山を下りれば、海が見える」
「海かあ」アノリスは器の湯気の向こうを見た。「南の海とは、違うんだろうね」
「違うわ。北の海は、色が濃い」
他愛のない会話だった。誰も、その先のことは口にしなかった。
テントの外では雪が降り続いていた。風はまだ穏やかだった。
三人分の器が湯気を立てている。
こうして鍋を囲む夜が、あと何度あるだろう――ラフィスは思った。
ドルヴェナで儀式が済めば、旅は終わる。多分このままリーヴィンへ三人のまま帰るのだと、それぞれが勝手に思っている。が、その先のことは分からない。
この三人が、当たり前のように同じ火を囲む時間も、そう長くは残っていないのかも知れない。
だが、それは口にしなかった。
明日も北へ向かう。
凍える夜、この温かさだけで、三人は満たされていた。




