二 最果てへの助走
出立の前夜、シェリルは灯りをつけたまま机に向かっていた。
出版を打診されていた魔法算術論・中級編の草稿はすでにドラウに渡してある。今夜書いているのは別のものだ。次の節、その次の節――頭の中にある構想を、順序立てて紙に落としていく。旅の道中でも書けるように、論点だけを先に整理しておく作業だった。
窓の外は暗い。風の音がする。二月の夜はまだ深く冷える。
ペンが動く。止まる。また動く。
――あの子も、ここまでやるようになったのね。
昼間、アルヴァンの執務室を出てから、その言葉が何度か頭をよぎった。追いかけてくるわけではない。
ただ、ふとした拍子に浮かぶ。論点を整理する手が止まるたびに、アノリスの字が目の裏に見えた。
帰れなければ受けられない試験に、先に出願した。それがアノリスという人間だ。怖さが燃料になる、とあの子はいつだったか言っていた。
ここからドルヴェナ岬への道は険しい。
怖いから動く、と自分も思っている。言葉は似ているが、動き方が違う。あの子の怖さはもっと明るい場所にある。
アノリスは旅の荷物を広げて、宿の床に並べていた。
着替え、乾燥食料、小瓶に詰まった回復薬――エルナからもらったものだ。ヴェントラーゼの手入れも済ませた。刃に油を引いて、柄の巻きを確かめた。緑のリボンを一本、荷物の外ポケットに入れた。旅のどこかで使う気がして、いつも持ち歩いている。
リーヴィンを北に出れば、人の気配は薄くなる一方だと聞いている。街道沿いにも集落はあるが、南とは比べ物にならない。危険な生き物が棲む地域もあると、宿の主人が言っていた。まあ、なんとかなるだろう、とアノリスは思った。姉さんがいる。ラフィ姉がいる。
出願票のことは、姉には言っていない。言うつもりもない。
帰ってから驚かせればいい。帰れなかったら――その時はその時だ。
アノリスは荷物を一つにまとめて、壁際に立てかけた。
窓の外を見た。雪がちらついている。
燃えてきた、とひとりごとのように言った。誰もいない部屋で、自分に言い聞かせるように。
ラフィスの部屋には灯りが一つだけ点いていた。
荷物はとうに整えてある。剣の手入れも終わった。やることはない。それでも眠れなかった。
椅子に座って、窓の外を見ていた。雪だ。
ドルヴェナ岬。名前を頭の中で繰り返した。何度繰り返しても、まだ遠い場所の名前のように感じる。もうすぐそこへ向かうのに。
カルナヴィアは、本来ならウルメシアで行うべき儀式だった。祖国の土で、両親の魂を送る。それが正しい。
旧カリティスディアの地は、今はヴォルテナ帝国のものだ。ラフィスが足を踏み入れることは、できない。
ウルメシアの花――マリーヴァとソルティアが、海を越えたこのコルトラン大陸で、唯一咲く場所。それがドルヴェナ岬だった。祖国で送れないなら、せめて祖国の花が咲く場所で。それが、ラフィスに残された唯一の道だった。
廃洋館のことを、ふと思った。
あの花茶の部屋だ。ガラスの向こうでマリーヴァとソルティアが育っていた。白と青。父上と母上が好きだった花が、コルトラン大陸の、エレシアの北西の辺境に――あのような人里離れた場所に建つ館の中で、誰かの手で育てられていた。
なぜ、あの場所だったのか。
ウルメシアにしか自生しない花だ。研究者が標本として取り寄せることはあるかもしれない。そう考えれば筋は通る。
だが、あの廃洋館のことを思うとそれだけでは片付かない気がした。
人里から離れた国境近くの辺境に、あれほど立派な佇まいの建物があった。石造りで広く、かつては相当な人手をかけて維持されていたはずだ。
誰がそれを作り、誰が金を出したのか。
あの辺りは、エレシアの西の端――ちょうど海岸線が南に食い込み、対岸のウルメシアが北へ張り出して、二つの大陸が最も近づく場所だった。
海を挟んで、何かと向き合うような位置に。
そこにマリーヴァとソルティアがあった。
何か、引っかかる。
答えは出ない。出せるだけの手がかりがない。ただ、引っかかりだけが残った。霧の中で何かの輪郭に触れたような、それだけの感触だ。
ラフィスは視線を窓の外に戻した。雪がちらついている。
復讐は意味を為さない。
それは、旅の中でラフィスが辿り着いた信念だった。国を奪われ、両親を奪われ、それでも――憎しみに身を任せたところで、失ったものは戻らない。
むしろ、憎しみそのものに食い尽くされる。だから、帝国への感情は努めて凪いだままに保ってきた。
祖国・カリティスディアは、ドルヴェナ岬から西の方角。そして海の向こうに近いのは、その祖国を亡き者にしたヴォルテナ帝国である
その姿を、実際に目にした時、自分は今のままでいられるのだろうか。凪いだ水面が、そのままでいられるのだろうか。ラフィスには、わからなかった。
そして――儀式が済めば、旅が終わる。
オルネスを発ってから、ずっと歩き続けてきた。目的地が、もうすぐそこにある。辿り着いてしまえば、その先には、何が残るのか。
両親を送り終えた自分は、何になるのか。
それも、まだ、わからなかった。
父上と母上に、もうすぐ会いに行く。
それだけが、今夜の確かなことだった。
夜明け前に、三人は宿を出た。
空はまだ暗い。星がいくつか残っている。宿の主人が見送りのために起きていてくれて、玄関先で「お気をつけて」とだけ言った。
荷を背負って石畳を歩く。リーヴィンの朝は静かだ。まだ商人も出ていない。靴音だけが路地に響いた。
シェリルが世話になっている出版社・グラフェル堂の前を通る。灯りはまだ点いていない。ドラウは今頃眠っているだろう。草稿は渡してあるし、何かあったらその時は帰ってきてからだ――ということは、やはり内心ここに帰ってくるつもりでいるのだろうか。
月華亭の前を通ったとき、アノリスは少しだけ足を緩めた。
最初に世話になる時に仕立てた紅、緑、水色、三着のドレスは、セレナに預かってもらうことにした。荷物に入れるには嵩張るし、旅先で着るものでもない。「帰ってきたら返すわ」とセレナは言った。「席も空けておく」とも言った。
帰ってくる。そのつもりだ。試験のために、絶対に帰る。
ただ――アノリスは暗い店の看板を横目に見ながら思った――上級試験に受かったとして、その先はどうなるのだろう。上級の魔法使いといえば、王宮や師団に仕えることになるのが普通だ。そうなったら、月華亭で受付をやっている場合ではなくなる。
王宮の客が月華亭に来ることはある。それはいい。だが王宮付きの魔法使いが娼館の受付をしている、というのは、どう考えても絵にならない。思わず笑いそうになったが、笑えない話でもあった。うまく折り合いがつくとは思えない。
セレナならうまいことやってくれるかもしれない。あの人は何でも知っていそうだから。
アノリスは視線を前に戻した。受かってから考えようと、気持ちを切り替えた。
ラフィスは何も言わなかった。ただ、一度だけ後ろを振り返った。王都の輪郭が、夜明け前の空の下に沈んでいる。それを一瞥して、また前を向いた。
北門、門番が二人いて、三人を確認すると無言で道を開けた。この街に来てから、もう五ヶ月になる。
エレシアに入国した時の扱いから考えれば、自分たちも随分顔を知られてしまった。
門を抜けると、風が変わった。
街の中とは違う空気だ。野の匂い、土の匂い、二月の朝の冷気が頬を刺すように触れた。
街道が北へ伸びている。まだ暗い中でも、道だけははっきり見えた。
「百四十リーグ」とシェリルは言った。「約一ヶ月強ね」
「山もあるんだよね」とアノリスが言った。
「ドルヴェナ峠を越える。最後の山越えになるわ。そこを抜ければ岬のエリアに入る」
アノリスは少し目を輝かせた。「峠かあ。燃えてきた」
険しい道のりを往くこと、アノリスは嫌いではなかった。むしろ好き。
ラフィスは空を見上げた。東の端が、わずかに白みはじめている。
「行くぞ」
ラフィスは言った。
三人は歩き出した。やがて石畳が途切れ、土の道になった。足音が変わる。
リーヴィンの灯りが、少しずつ遠くなっていった。




