一 別れの挨拶
十二月の廃洋館の一件が過ぎた後、また三人にとって平穏な日々が続いた。
シェリルは魔法算術論の中級編をまとめる一方、大陸魔法協会へ提出する次の論文を先に完成させていた。
測度論――純粋算術においては、長さや面積といった素朴な「測る」という行為を、厳密に組み直す分野である。だが魔法が絡めば、測る対象は術式の威力そのものになる。
たとえば、斬撃。アノリスが自身の魔力を宿してヴェントラーゼを振ると現れる、斬撃だ。
刃の描く軌跡には、厚みがない。面積を持たないものが、確かに存在し、物を断つ。ならば、その威力は何をもって測るのか。
あるいは、円形に展開した無数の刃。一枚一枚は面積を持たないはずのものが、束ねられた時、なぜ実体を持つのか。
どれだけ精緻に定義を積み上げても、必ず「測れないもの」が現れる。それは理論の欠陥ではなく、魔法という現象そのものに含まれた構造だった。
具体を抽象へと引き上げ、その果てに、魔法の本質へ迫る論文である。
アノリスはリーヴィンの最高級娼館酒場・月華亭の受付嬢として日々、難しい客やトラブルを前にして、持ち前の明るさと話術で局面を乗り切ってきた。ドレスに剣を刺した佇まいはやがて「娼婦たちへの麗しき門番」として、店の顔となっていた。が、廃洋館の一件の後も、魔法の鍛錬は日々怠っていなかった。いつ、自分が危険な目に遭うかなど見当もつかない。
ラフィスは新年を迎えて数日で年齢を一つ重ね、二十五歳を迎えていた。やはり素振り、早朝の走り込み、平穏な時にこそ凡事を徹底する。
コルトラン大陸最北、ドルヴェナ岬においてラフィスは両親――カリティスディアの王、そして王妃――の魂を、故人が愛した花をもって送る儀式「カルナヴィア」を遂行するために、旅を続けてきた。岬でその花が咲くのは三月末から四月初旬。岬までは人里離れた荒野から山岳を越える、一ヶ月ほどの道のり。
そうしている間に暦は二月も中旬を迎えていた。
ということは五ヶ月に及んだリーヴィンの滞在も、間もなく終わることになる。
出立は十日後と決まった。
オルネスを発って九年近く、ラフィスと出会ってから五年、長い旅も最後の滞在地。寂しさ半分、岬まで行ったらどうするんだろうという不透明さ半分の中、三人は挨拶に回った。この街で出逢った者達とは、しばしの別れになるのか、もしかしたら今生の別れになるのか。
エルナとトーリーには、出立三日前の夜、まとめて顔を出した。
エルナは「お気をつけて」と言って、少し目を赤くした。それ以上は何も言わなかったが、三人全員の分の回復薬を小瓶に詰めて渡してくれた。トーリーはアノリスが来ると知って、三度くらい咳払いをしてから「道中、気をつけてください」と言った。アノリスが「またね」と笑顔で手を振ると、トーリーは耳まで赤くなって視線を逸らした。
ラフィスは横でそれを見て、小さく息をついた。
月華亭には、シェリルとアノリスの二人で出向いた。
セレナは奥の応接室で待っていた。三十代、という年齢より少し若く見える。柔らかな物腰の中に、何でも見透かしているような鋭い目のある女だ。アノリスが「お世話になりました」と頭を下げると、セレナは軽く手を振った。「あなたは来てくれるとわかってるから、挨拶はいいの。席は空けておくわ」
それからシェリルに目を向けた。初めて向き合う顔だ。
「噂はかねがね」とセレナは言った。「エーテラリスって、こんなにお若いのね」
「二十二歳です」
「わかってる。それより――」セレナはシェリルをひと通り眺めた。「紫が良く似合う。こういう色は難しいのに、不思議ね」
シェリルは特に反応しなかった。セレナは構わず続けた。「帰ってきたらね、毎月一回でいいの。来てくれるだけでいい。あなたみたいなお客さんはそう多くないから、レアキャラとして大事にするわ」
「レアキャラ」とシェリルは繰り返した。
「希少価値が高い、という意味よ」
「わかっています」少し間があった。「検討します」
セレナは満足そうに笑った。アノリスは笑いをこらえながらシェリルの袖を引いた。
騎士団へはラフィスが単独で赴いた。
バレンツ副団長は執務室で腕を組んで待っていた。ラフィスが入ると、開口一番言った。
「お前のような強者は、この国に必要だ」
ラフィスは一瞬だけ目を細めた。
「帰って来いとは言わないんですね」
「言わん」
「卑怯な言い方ですね」
バレンツは鼻を鳴らした。「褒め言葉として受け取っておく」
ラフィスは少し笑った。笑顔を見せることが珍しい相手だったので、バレンツは少し面食らったようだったが、何も言わなかった。
魔法師団を訪ねたのは、出立前日の午後だった。
ベルナルト副団長は廊下でシェリルを見つけると、開口一番「中級編は間に合いそうか」と聞いた。草稿の催促だ。
「渡せます」とシェリルは答えた。「明日、グラフェル堂に持っていきます。あなたへの写しも用意してあります」
「早い」
「事実なので」
ベルナルトは苦笑した。「師団上層部向けの講演、帰ってきたら最初にやってもらうからな」
「覚えておきます」
それが、ベルナルトとの別れだった。あっさりしていたが、シェリルはそれでよかった。長い挨拶は向いていない。
ベルナルトとの別れ際、師団長アルヴァンの部屋を案内された。
アルヴァン師団長の執務室は、廊下の突き当たりにある。
七十二歳、上級γ。シェリルの論文を個人的に取り寄せ、最初に読んだ師団側の人間だ。シェリルは一人で扉をノックした。
「どうぞ」
部屋は質素だった。書棚と机と、窓際に小さな椅子が二脚。アルヴァンは立ち上がってシェリルを迎えた。白髪で、背はそれほど高くない。穏やかな顔をしている。これほど穏やかな顔の人間が上級γまで上り詰めたというのは、やはり外見だけではわからないものだとシェリルは思った。
「初めまして、でしたな。まぁ座ってください」とアルヴァンは言った。「せっかくですから、少し話しましょう」
シェリルは促された椅子に腰を下ろした。アルヴァンも向かいに座った。
「出立は明日でしたか」
「はい」
「帰ってくるのかと聞くのは野暮でしょうかね」
シェリルは少し考えた。
「この大陸の最南端からここまで来ました」とシェリルは言った。「最北まで行ったら、旅が一旦終わります。その先でどこに行くかは、その時に決めます」
「なるほど」とアルヴァンは言った。「正直な答えだ」
それからアルヴァンは机の引き出しを開けて、一枚の紙を取り出した。シェリルの前に置いた。
書式のある用紙だった。上部に「上級魔法使い昇格試験 受験出願票」と印字されている。名前の欄に、見慣れた筆跡があった。
――アノリス・アリアシスト。
試験期日の欄には、五月末と書いてある。
「一昨日、本人が持ってきましてね」とアルヴァンは言った。「お姉さんには内緒にしてほしいと言っていましたが――私も歳を取るごとに口が軽くなってきましたかな、と」
シェリルは用紙を見たまま、しばらく何も言わなかった。
アノリスの字だ。癖のある、少し急いたような字。名前のところだけ、いつもより丁寧に書いてある。
五月の試験。大きな問題が無ければドルヴェナから帰ってきている時期だ。出願の締め切りは四月の中頃まで、岬にいる間と重なる。だから先に出した。
そして元より帰れなければ受けられない。それを承知で、出した。
「……あの子も」とシェリルは言った。「ここまでやるようになったのね」
声に出してみると、思ったより静かな言葉だった。驚きというより、確認に近い。どこかで知っていたことを、ようやく形にしたような。
「ということは」とアルヴァンは穏やかに言った。「シェリルさんの意思がどうであれ、妹さんはここへ戻る」
シェリルは用紙を見つめたまま、一瞬だけ笑った。小さく、静かに。
「またお世話になるかも知れません」
「それはこちらこそ」とアルヴァンは言った。
今まで会話をしたどんな相手よりも、一言が身体に浸透する。
歳は五十離れているが、喋っていて何か心地よさを感じた。
「行ってらっしゃい」
「……行ってきます」
廊下に出ると、冷えた空気が頬に触れた。シェリルはしばらくその場に立っていた。
右腕に、少しだけ力が入った。




