九 ラフィスの油断
リーヴィンから戻った翌日、アノリスは月華亭へ向かった。
背中の傷は、エルナの治療でほとんど塞がっていた。動いても引きつるほどではない。問題ない、と判断した。
裏口から入ると、控室に、すでに何人かの従業員がいた。
アノリスが顔を出した瞬間、明らかに、空気が変わった。
「あ、アノリスさん」
一人が、アノリスを見た。その目に、好奇心と遠慮が混じっていた。
「あの、お久しぶりです」
少し申し訳なさそうにアノリスが挨拶した。
「お帰りなさい、師団からの依頼だったんでしょう、大丈夫でした?」
「うん、大丈夫」アノリスは、緑のドレスに着替えながら、答えた。「ご心配おかけしました」
休んでいた間に何かなかったか、アノリスは周囲に尋ねてみた。
「……あの、二・三日前の夜だったか、北西の空がすごく赤くなってたって」
別の店の女がドレスに着替えながら言った。
「見た人、いたんだ」
「二階から見えたって、お客様が話してたみたいで」従業員の一人が、少し、声を落とした。「エセウルの近くの、廃洋館が燃えたって。王宮が調査に入ってたって話、広まってて――」
「まあ、そうなんだよね」アノリスは、鏡の前で髪を整えながら言った。「行ってきた」
控室が、少し、ざわついた。
「アノリスさんが?」
「師団からの依頼って、それ?」
「うん」
「怖くなかったですか」
アノリスは、少し、考えた。
「怖かったよ」アノリスは、素直に言った。「鉢植えの植物に襲われるし、ゾンビがいっぱい出るし、ぶっとい剣持ったでっかい亡霊も出るし」
「ゾンビ!?亡霊!?」
「でもまあ」アノリスは、鏡の中の自分を見ながら言った。「終わったから」
店の女たちは、アノリスをまじまじと見ていた。
いつも通りの笑顔で、いつも通りの緑のドレスで、さらりとそう言うアノリスを。
「……アノリスさん、本当に受付なんですか」あとから来たミラが、小さく言った。
「受付だよ」アノリスは言った。「受付以外の何でもないよ」
「でも、剣、持ってますよね」
「護身用です。あと、ファッションとして」
「亡霊と戦えるの、護身用ですか」
「場合による。でもここではドレスの一部」
エヴァが、控室の入口に立っていた。いつから、そこにいたのかわからなかった。
「お帰り」エヴァは、静かに言った。久し振りに見ても、他の女たちと格の違いが出ている。
「無事で良かった」
「ありがとうございます、エヴァさん」
「セレナから聞いてたけど」エヴァは、アノリスをまっすぐ見た。「あなた、面白い子ね」
アノリスは、少し笑った。
「そうですかね」
「うん」エヴァは、それだけ言って、控室を出ていった。
ミラが、エヴァの背中を見送ってから、アノリスを見た。
「エヴァさんに『面白い』って言われるの、初めて見た」
アノリスは、鏡の前で、もう一度、自分の顔を確認した。
少し、疲れが残っているかもしれない。でも、笑顔は、ちゃんと作れる。
「じゃあ、行きましょうか。もうすぐ開店ね」
アノリスはドレスを整え、受付カウンターに向かった。
ラフィスは、騎士団の宿舎に戻った。
客員という立場上、通常は宿舎の使用は認められていない。だが、今回の調査の件を受けて、副団長バレンツが一時的に許可を出してくれた。
「今回だけだ」バレンツは言った。「ゆっくり休め」
ラフィスは、短く礼を言って、宿舎に入った。
女性用の区画は、宿舎の端の方にあった。部屋の数は少ない。元々、女性の団員が多くないからだ。
騎士団における女性の仕事は補給・後方支援、伝令、事務・式典担当、中には楽団員というのもあった。が、前線で武を披露する者は極めて少ない。
シャワールームは、男性用とは別の棟に、少し離れた場所に設けられていた。
部屋に荷物を置き、着替えを手に取った。
ソレッグとの戦闘、ちゃんと仕事は出来ていたとは思うのだが、それでもあのような気味の悪い館は、ラフィスにとっては居るだけで正気を持って行かれそうなものだった。
――浴槽に入ったら寝てしまいそうだが、せめてシャワーくらいは浴びよう。
館の中に入ってから、ずっと汗と埃と、それ以外のものが、体に染み込んでいる気がした。ソレッグの一撃を受け、エルナの治療を受けたが、清潔にしておきたかった。
薄着になって部屋を出た。廊下は静かだった。夜の時間帯で、他の団員はほとんど部屋にいるのだろう。足音だけが、石造りの廊下に、低く響いた。
シャワールームの方向へ、歩き始めたが……
――いつもより、足が、重い。
気づいてはいた。宿舎に戻ってきた時から、体の芯に鉛が詰まったような重さがあった。
だが、まだ動けると思っていた。シャワーを浴びれば、少し楽になると思っていた。
――昔なら、こんなふうに、人前で気を抜くことは、なかった。
旅の間は、どこで誰が見ているかわからない。気を抜けば、それだけ隙になる。そういう緊張が、体のどこかにずっとあった。その緊張が、いつからか緩んでいる。
廊下の途中で、足が止まった。
壁が、すぐ隣にあった。
――少し、寄りかかるだけ。
ラフィスは、壁に肩を預けた。
「んっ……」
あろうことか、そのまま目を閉じた。
ほんの少しだけ、目を閉じるつもりだった。
閉じた瞬間に、意識が落ちた。
壁に寄りかかっていた体が、ゆっくりと崩れていった。廊下の床に、薄着のまま、静かに倒れた。
石の床は、冷たかった。
だが、ラフィスには、もうそれを感じる余裕がなかった。
「――っ!」
若い女性団員が一名、床に倒れているラフィスを見つけた。
一瞬、固まった。次の瞬間には、駆け寄っていた。
「誰か! 誰かいますか!」
甲高い声が廊下に響いた。ただ事では無いのは明らか。
――バタバタバタッ
廊下駆けてくる音。
「ラフィス小隊長!?」
最初に発見した女性は、ラフィスの肩に手を当てた。
温かい。呼吸も、ある。規則正しく、ゆっくりと、胸が上下している。
「……眠ってる?」
廊下の向こうから、声を聞きつけた別の団員が、二人、駆けてきた。
「どうした!? 何が――」
来た者たちが、床に倒れているラフィスを見た。
全員、一瞬、止まった。
「ラフィス小隊長が……」
三人は、ラフィスを囲んで、しばらく、顔を見合わせた。
ラフィス・ミラセシル。客員・小隊長待遇。国境の反乱でほぼ単独で八十人の賊を制圧した、その人が。
着替えを胸に抱えたまま、廊下の床で、眠っていた。
「……人の子だったんだ」最初に来た女性が、小さく呟いた。
「廃洋館の件、聞いた?」もう一人が、声を落として言った。「相当ハードだったらしいよ。ゾンビの大群と、でっかい亡霊が出たって」
「あれ全部片付けて、さっき帰ってきたんだっけ」
三人は、もう一度、ラフィスを見た。
眠っているラフィスの顔は、戦闘の時とも、小隊長として指示を出す時とも、まったく違った。
ただ静かに、疲れ果てた人間が眠っている顔だった。
「どうする、運ぶ?」
「起こした方が――」
「でも、こんなに熟睡してたら……」
そこで、ラフィスの目が、うっすらと、開いた。
――光が、見えた。
石造りの天井。
自分を覗き込む、見知らぬ顔が、三つ。
ラフィスは、数秒、その光景を、ぼんやりと見ていた。
――ここは。
廊下だ。
――私は、何をしている。
着替えが、胸の上にある。
――シャワーを浴びに行くところで。
壁に寄りかかった。
目を閉じた。
それだけのはずだった。
「あ、目が覚めた」
「小隊長、大丈夫ですか?」
ラフィスは、体を起こした。
顔が、じわりと、熱くなった。
――廊下で、眠っていた。
しかも、人に、見られていた。
旅の間も、こんな不用心なことは、しなかった。人前で気を抜いて眠り込むなど、ラフィスにとっては、あまり褒められたことではない。
なのに、今日は。
石の床で、意識を手放すほど、深く眠っていた。
――こんなに、気を抜いて。
情けなさよりも先に、胸の奥で、何か別のものが疼いた。この街に来て、自分は少し変わってしまったのかもしれない。良くも、悪くも。
「……」
ラフィスは、三人の顔を、一人ずつ見た。
全員が、心配とも驚きとも取れる顔で、こちらを見ていた。
「……すまない」
声が、出た。状況を把握したのか、顔がさらに赤くなった。
三人は、顔を見合わせた。
「大丈夫ですよ、誰にでもあります」
「部屋まで、肩、お貸ししますか」
「……いい」ラフィスは、ちょっと恥ずかし気に立ち上がった。
ラフィスは、着替えを抱え直し、直ぐに照れ隠しだと分かるような笑みを浮かべた。
それから、小さく、もう一度だけ言った。
「……すまなかった」
ラフィスはシャワー室へ向かって歩き始めた。
「……なんか、ちょっと可愛くなかった?あの顔」
「いっつも稽古の時は厳しい顔してるけど、なんか私たち、弱みを握っちゃった感じ?」
「こらっ、小隊長相手にそんなことを……」
窘めた女も、内心では何か言いたげだった。




