六 火葬
二階の正面――これまで、施錠されていた扉の前に、立つ。
ラフィスが、ドアノブに手をかけた。
――動く。
シェリルは、扉の向こうの気配を、探った。
――何も、いない。
「入りましょう」
シェリルが声をかけ、ラフィスは扉を開けた。
中は、意外なほど、普通の部屋だった。
執務室なのか、応接室なのか、判断がつかない。古い机と椅子、長椅子。窓は蔦に覆われていて、外の光はほとんど入らない。シェリルは指先の術式で灯りを点した。
壁際に、本棚があった。
埃をかぶった本が何冊も並んでいるが、その中に一冊だけ明らかに厚さが違うものがあった。背表紙も他よりしっかりとした作りだ。
シェリルは、それを取り出した。
めくり始める。細かい文字が、びっしりと書き込まれている。実験の記録、数値、図――研究者が長年にわたって書き続けた、私的な記録のようだった。
ページをめくる手が、あるところで、止まった。
日付が、目に入った。
――三十七年前。
シェリルは、そのページを、もう一度、見た。
一階で見つけたノートには、三十六年前の記録があった。その一年前――。
「どうした」ラフィスが、シェリルの様子を見て、聞いた。
「……ちょっと待って」
シェリルは、明かりをそのページに近づけ、ノートを読み始めた。
『――ギロッグ公爵は、最近、目の色が、狂気を帯びているように思える。
この魔法研究所は、効率が良く、実践的な魔法を展開するために、研究員たちが日々、努力と研鑽を重ねて、研究に勤しんでいた。
ある日、一人の研究者が、効率を見誤って、炎の魔法を暴走させてしまい、周辺の集落を、住人もろとも、焼き払ってしまった。
その研究員は、その夜、気が触れてしまったか、そこから姿を見なくなってしまった。彼の名前は、何だったか――。
それからというものこの研究所は、魔法の効率化から、暴走制御の可能性に特化した研究に傾倒していった。
無論、そんなことは不可能だろうが、公爵は各研究員に意図的な魔力の暴走と、その制御の命を下していく。
そんなことに従う研究員は、私も含めて皆無。暴走させる振りをして、何とか己の精神を繋ぐ日々。
そんな中、召喚魔法の区画で顕現暴走事故が起きたらしい。穏やかな使い魔を実験で呼んでいたため、館への影響は軽微であったが、術者は三日後に死亡。
あの使い魔は部屋での気候管理のために呼ばれていた。なんでも召喚魔法実験の傍ら、海峡の先・ウルメシアと本大陸最北のドルヴェナでしか咲かない花を、ここで栽培して花茶を飲むのが日課だったとか。
書いているうちに思い出した。行方不明になった研究員の名前は、ソレッグだ。ギロッグ公爵の、実の弟。
ソレッグ殿の部屋は、一階の七号室。鍵は開いているが、あの日以来、誰も立ち入っていない――』
シェリルは、ページから、顔を上げた。
「ラフィス」シェリルは言った。「では、あの部屋は」
「ああ」ラフィスも、同じことを考えていた。「二階の、最後の部屋――マリーヴァとソルティアが咲いていた、あの部屋」
「少し前まで、使い魔が、顕現し続けていた」シェリルは言った。「三十年あまり、あそこに、居続けたことになるわ」
シェリルは、あの部屋で感じた、残存魔力のことを、思い出していた。光の量、気温――意図的に調整されていた環境。それは、死んだ術者が生前に呼んでいた使い魔が、長い時間をかけて、維持し続けていた空間だったのだ。
「そして、ソレッグの部屋……」トーリーが、ノートを覗き込みながら、呟いた。「ということは――隣の、ゾンビの群れは」
トーリーの声が、少し、震えた。
「暴走事故で、焼き払われた……集落の、住人たち……」
三人の間に、しばらく、沈黙が落ちた。
この館から、街まで届いていた「声」。
あれは――炎に焼かれた、無数の住人たちの、無念の声だったのだ。そして、それを悔い続けるソレッグの声。
弟が始めた研究のために、犠牲になった人々。気が触れて姿を消し、亡霊となってもなお、館に縛られ続けたソレッグ。
――三十年以上、ここで。
シェリルは、ノートに、視線を戻した。
しかしここで疑問が残る。
ソレッグはギロッグ公爵の実弟。
では、当の本人・ギロッグ公爵はどうなったのだろうか。
今いるこの研究所、地図を思い出すと、この地域は北から海岸線がせり出している。あと北へ五リーグほど行けば海、そして対岸にはウルメシア。
集落があったとはいえ、このような場所に似つかぬ大きな館。この立地は一体何か……根拠を求める様子は実にシェリルらしい。
一階では――エルナが、アノリスの治療を、続けていた。
淡い光が、アノリスの傷を、ゆっくりと包んでいく。黒い変色は、少しずつ、薄れていった。
「声は、元気ですね」エルナが、ゆったりと微笑んだ。
「うん、まぁ……声だけは」アノリスは、苦笑した。「背中は、結構、痛いけど」
「無理しないでください。瘴気が入っているので、少し、時間がかかります」
エルナの瞳は、穏やかだった。慈愛に満ちた、と言ってもいい。その目で見つめられていると、アノリスは、不思議と、気が緩んだ。
月華亭では、傷を見せるわけにはいかない。常に整った姿でいることが求められる。だが、今は――傷があっても、痛がっても、いい。エルナの前では、それが許される気がした。
「エルナさんって、なんか、安心する」アノリスは、ぽつりと言った。
「そうですか?」エルナは、嬉しそうに、首を傾げた。「よく、言われます」
二階では――シェリルが、ノートのページを、さらに、めくっていた。
食い入るように、文字を、追っている。
あるページで、また、手が止まった。
日付は、一階でアノリスたちが見たノートの数日前だった。
『――カデア樹海で、魔法生物の発生実験と、生態観察を行うらしい。
生態を見るくらいなら、発生させる個体は、小規模であればよいはず。なのに、あの大がかりな装備は、一体、何だ。
一階の実験室に行ってみたが、公爵は、初めから、ことを荒立てようとしているように見える。魔法物質を使って、実験補助を行うというが、生成した物質の量が、尋常ではない。
こんなことができるなら、実験なんかしないで、この物質を使って王都で商売した方が、儲かるだろう。
私は、実験には同行せずに、留守番だ。そういえば例の七号室から、昨日あたりから気配を感じる。気味が悪い――』
シェリルは、ノートを、閉じた。
――カデア樹海の事故は、偶然じゃなかった。
一階のノートにあった、三十六年前の記録。魔獣召喚物質が、予定量を大幅に超えて放出された、あの事故。それは、ギロッグ公爵が初めから、大規模な何かを引き起こすつもりで、用意していたものだった。
なぜ、そんなことを。狂気としか、言いようがない。
シェリルは、目を、閉じた。
魔法算術が、まだ、研究されていなかった時代。
魔力の効率も、暴走の制御も、すべてが、感覚と経験に委ねられていた時代。その曖昧さの中で、一人の人間の狂気が、これだけの犠牲を生んだ。
もし、あの時代に、算術論があったなら。暴走を、数値で捉えることができていたなら。何かが、違っていたのかもしれない。
――いや。
シェリルは、目を開けた。
算術論があっても、狂気は、止められない。理論は道具でしかない。それをどう使うかは――人間の問題だ。
「依頼は、これで果たした、ということでいいわね。報告の内容も纏められそう」
シェリルは、そのノートを証拠として、手に持ったまま階段を下りてきた。
一階では、エルナがアノリスの治療を終えていた。アノリスは、ゆっくりと立ち上がり背中を伸ばした。
傷の変色は、ほとんど消えていた。
「動ける?」シェリルが聞いた。
「うん、大丈夫」アノリスは、頷いた。「ありがとう、エルナさん」
「よかったです」エルナは、ゆったりと微笑んだ。
五人は、館を出た。
玄関の扉をくぐると、十二月の夜の空気が頬を刺した。すでに、日は完全に落ちていた。正門の外、闇の中に馬たちが、繋がれたまま待っていた。
「野営の準備を――」トーリーが言いかけたとき、
「……嫌だ」
ラフィスが、少し、視線を逸らしながら、言った。声は、いつもより、わずかに、小さかった。
「……ここから、すぐに、離れたい」ラフィスは続けた。耳の先が、わずかに、赤くなっていた。「野営は、もう少し、先でいい」
先ほどはあまりにも鮮やかな体術、剣技を見せたラフィスだが、やはり気味の悪いものは克服できていないようだ。
誰も、笑わなかった。誰も、反論しなかった。
「あ……」
エルナが小さく声を上げた。「ラフィスさん、先ほど受けた傷……治します」
つい今まで、ラフィスが堂々としていたのでエルナも、彼女が攻撃を受けて負傷していたのを忘れていた。
五人は、正門を抜け、馬の方へ、歩き始めた。
その時――
シェリルが、足を止めた。
一人だけ、館の方向へ振り返った。
闇の中に浮かぶ、ギロッグ魔法研究所の外観。石造りの壁、蔦に覆われた窓。三十年以上、誰も触れずにいた建物が、静かに、そこに立っていた。
シェリルは、ノートを、懐に入れた。
そして、右手を、前に出した。
指先に、術式が、組まれていく。
一本。二本。三本――複数の炎の術式が、同時に、構成されていく。それぞれが、独立した渦を形成しながら、互いに干渉せず、拡大していく。
四本。五本。六本。
それぞれの炎の渦が、空気を、大きく、吸い込み始めた。
七本。八本。九本。
周囲の気温が、急激に上昇していく。トーリーが気が付き振り返って、そこに展開されている炎柱を見て思わず、一歩後ずさった。
遅れてエルナが、アノリスが、ラフィスが、シェリルの様子をじっと、見ていた。
十本。
「――っ」
シェリルが、腕を、振り下ろした。
十本の炎柱が、同時に、館に向かって、放たれた。
轟音が、丘を揺らした。
石造りの壁が、一瞬で赤く染まる。蔦が炎に巻かれて瞬く間に焼け落ちて行く。木製の窓枠が、爆ぜる音を立てて燃え上がる。
十本の炎の柱が、それぞれ別の角度から、館を包み込んでいく。
だが――石は、燃えない。
シェリルは、炎の術式を、維持したまま、左手に、別の術式を組んだ。
収束。圧縮。そして――解放。
衝撃波のような魔力の塊が、炎の渦の内側から、石造りの壁に向かって、叩きつけられた。
バァン!!
正面の壁が、一部、砕け散った。砕けた石が、炎の中に、まき散らされる。破砕の衝撃が、建物の構造を、内側から、揺さぶる。
シェリルは、さらに、術式を重ねた。
炎の熱が、石を、焼き続ける。圧縮魔力が断続的に、壁を叩く。砕けた石片が炎の中で、赤く染まり散っていく。石造りの外壁が、一枚、また一枚、剥がれ落ちていった。
柱が、傾いた。
二階の外壁の一部が、崩れ落ちた。轟音が、もう一度、丘を揺らした。
四人は、唖然と、立っていた。
燃え上がる館を見ながら、シェリルの腕に力が入った。
――ソレッグ。
あなたが、暴走させた炎は――これよりも、大きかったか。どうだったか。
あの日、集落を焼き払った炎。あなた自身が、その後、気が触れて姿を消した。そして三十年以上、亡霊として、あの館に縛られ続けた。
シェリルは、静かに、炎の術式を、三本、足した。
十三本の炎の柱と、断続的な圧縮魔力が、館を、完全に、包んだ。
「あ――」
アノリスの口から、小さく、声が漏れた。
それ以上の言葉は、誰も、出なかった。
シェリルと、燃え崩れていく館を、四人は、ただ、見ていた。
――これで。
シェリルは、術式を、静かに、解いた。
館は、燃えていた。崩れていた。もう、何十年も、そこにいた者たちを、炎が、包んでいた。
――
すっかり夜になったリーヴィン。
魔法師団の建物、ベルナルトの執務室の窓から――北西の方角に、明らかに色の違う空が見えた。
赤い。
夜空の一角が、燃えるように、赤く染まっている。
「――終わったか」
ベルナルトは、窓の外を見ながら、呟いた。
無事かどうか――一瞬、頭をよぎったが、すぐに、消えた。
――シェリルさんが、簡単に死ぬわけがないだろ。
それに――あの派手さは。
「素晴らしい」ベルナルトは、小さく、笑った。
曰くつきの館など、最後は燃やすに限る。




