四 形見
日は、すでに傾きかけていた。
十二月、日没が早くなってきている。残された時間はあと二時間ほどだろう。
そこに留まるように指示された一階の三名、アノリス・トーリー・エルナだったが、軽傷とはいえ、やはり負傷したシェリルが心配だった。
「アノリスさん、さっきのメモを下さい」
ラフィスには見せないでおこう、と言ってアノリスが服のポケットにしまったものだった。エルナはそのメモを受け取り、一人で二階へ上がった。
言動はとても柔らかく、足取りも落ち着いた様子。こんな異様な空気の廃洋館でも、エルナは変わっていない。
まずは、エルナが、シェリルの傷を見た。
「治療しますね」
エルナの手のひらから、淡い、温かい光が広がった。首から胸にかけての傷が、その光に包まれて、ゆっくりと塞がっていく。
シェリルは、その光を見ながら、少し昔を思い出した。
子供の頃――ヒルビット卿のもとで、軽度ながら術式暴走を起こして火傷を負った時も、治療のための似たような光に、包まれた記憶がある。
「優しい魔法ね」シェリルは、エルナを見て言った。
「ありがとうございます」エルナは、ゆったりと微笑んだ。
傷は、ほとんど目立たないところまで、塞がっていた。そしてシェリルは、エルナの持ってきたメモを見た。
「白い扉の、六号室は」シェリルは言った。「後回しにしましょう。大量のゾンビ、というメモが本当なら開けるのは最後。まだ調べるべきものはあるわ」
五人は、再び、二班に分かれた。シェリルとラフィスは二階、アノリス、トーリー、エルナは一階――先ほどと同じ組み合わせだった。
二階の他の部屋にも、調査隊の遺体が、いくつか転がっていた。
ある部屋では、毒ガスの反応があった。すでに、ガスが噴き出すことはなかったが――おそらく、これも、罠の一つだったのだろう。調査隊の何人かは、こうした罠で命を落としたようだった。
一階でも、別の部屋から、割れた試験管が見つかった。
その部屋の机の上に、一冊のノートがあった。
アノリスが、それを開く。
日付は、三十六年前。
書かれていたのは、カデア樹海での、ある実験の記録だった。
『――魔獣召喚物質、予定量を大幅に超過して放出。回収不能。樹海内部に拡散――』
カデア樹海。アノリスたちが、妖獣の数々に襲われながら、命がけで突破してきた、あの場所だ。
「これ、カデア樹海のこと?」アノリスが言った。
ノートには、続きがあった。
樹海内には、放出された物質の影響で、妖獣の出現率が上昇。それだけでなく――副作用として、悪魔生物の存在も確認された、という記述があった。
『――この量であれば、樹海の危険状態は、五十年は続くと見られる。ただし、これは定期的な駆除作業が継続されることが前提であり、放置された場合の影響は予測できない――』
アノリスは、ノートを、しばらく見つめていた。
――カデア樹海が、あんなに危険な場所になったのは、これが原因?
三十六年前の事故。それが、今のカデア樹海の姿に、つながっている。
――いつまで、これが明るみに出ずに、いられたんだろう。
アノリスは、ノートを閉じた。
二階では――
シェリルとラフィスが、最後の角部屋に到達していた。
危険ではないとシェリルが判断し、扉を開ける。
他の部屋とは、明らかに違う雰囲気だった。
窓が大きく、光が、よく入っている。その一方、室内の温度も他の部屋より明らかに低い。
その光の下に――花が、咲いていた。
白い花と、青い花。
二種類の花が、それぞれ、丁寧に手入れされた鉢に植えられている。
ラフィスは、一瞬、足を止めた。
「……これ」
ラフィスは、その花を、見つめた。
――マリーヴァと、ソルティア。
ウルメシア大陸原産のはずの花が、なぜ、こんな場所に。
ラフィスは、少しの間、何も言わなかった。
「知ってる花?」シェリルが聞いた。
「……ああ」ラフィスは、小さく頷いた。
マリーヴァとソルティア。その名前は、以前シェリルに話したことがあった。二色の花であることも、リーヴィンへ向かう道中に、伝えている。
目の前の花が、その実物だとは、ラフィスは言わなかった。
だが、それだけで、シェリルには察しがついた。ラフィスが探し続けていた花だと。
「小さい頃、よく――フラワーティーにして飲んでいた」ラフィスは言った。
ラフィスの肩から、少し、力が抜けた。
白いマリーヴァは、父が好んだ花だった。青いソルティアは、母が。
二つを一緒に湯へ落とすと、茶は、どちらの色でもない、淡い薄紫に染まる。その色になるまで、幼いラフィスは、卓に頬をつけたまま、じっと器を眺めているのが常だった。
「まだか」と急かすと、母は決まって「もう少し」と笑った。父は、政務の書類を脇へ押しやって、その隣に座っていた。
王宮の、朝の一室。湯気と、花の匂い。卓の上には、いつも三人分の器があった。
それだけの、ありふれた時間だった。
マリーヴァとソルティアのフラワーティー――両親と過ごした、数少ない、温かい記憶の一つだった。
今となっては、形見のようなものだ。失われた国、失われた時間の中で、確かに自分の手の中にあったものの、感触。
「美容にいい茶、らしい」
ラフィスの口から出た言葉が、あまりに日常的で、シェリルは一瞬、返事に迷った。
部屋の中を、シェリルは、見渡した。
光の量、気温――他の部屋とは、明らかに条件が違う。意図的に、調整されている。
本来、この大陸には咲いていないはずの花を、人工的な環境で育てる実験。研究の内容としては、これまで見てきた、ゾンビや魔獣の実験とは、まるで違う種類のものだった。三十年放置されているはずの部屋なのに、ここだけ明らかに命の息吹が存在しているような。シェリルはそこに何らかの根拠を見出そうとしたが、確たる結論に辿り着かない。
一方ラフィスは、花を見つめたまま、しばらく、その場に立っていた。
マリーヴァとソルティアの花を見つめながら、ラフィスは幼い頃の記憶に、少しの間想いを巡らせていた。
一階では――
アノリス、トーリー、エルナの三人が、七号室の扉を開けていた。
部屋は、これまでの中でも、特に広かった。
そして――ここにも、遺体があった。
騎士団の制服を着た、二人の遺体。
だが、様子が、これまでとは違った。
二人とも――首が、無かった。
部屋の中は、静まり返っていた。三人は、その場で、動けなかった。
特に、トーリーの表情は、明らかに変わっていた。
――この遺体、もしかして……
近い隊の、知っている人間かもしれない。その可能性が、トーリーの中に、浮かんでいた。
その時――
奥から、重い足音が、響いてきた。
ゆっくりと、一歩ずつ。床が、わずかに震えるほどの重さだった。
暗がりから、人影が、現れた。
鎧を着た、人の形をしている。だが――大きさが、おかしかった。
アノリスの、三倍はある。
三人は、それを見て、さらに、足が動かなくなった。
巨大な人影が、止まった。
その瞬間――
ビュウッ!!
巨大な戦士の亡霊が、滑空するように、三人に向かって、近づいてきた。
大剣のようなものを構え、三人をまとめて斬り捨てようとする、明確な気迫があった。
――これを受けたら、間違いなく、首と胴体が、離れる。
エルナが、咄嗟に、防御の術式を展開した。
淡い光の壁が、三人を包む。
戦士の亡霊の一撃が、その壁に、激突した。
――バギンッ!!
大剣が鈍い音を立てて、エルナの防御術式に直撃した。防御壁が軋む音も聞こえた。
そしてその衝撃で、三人はまとめて、部屋の外へ吹き飛ばされた。
「うわっ――!」
三人の体が、ホールの床に、転がった。
その音――いや、その瞬間に放たれた、ただならない魔力の波動が、館全体に、響いた。
二階で、幼少期の思い出に浸っていたラフィスが、長期間環境が保たれていた部屋の仕組みを考えていたシェリルが、その気配に顔を上げ、二人はすぐに一階へ駆け下りていった。




