三 実験室の悲鳴
まだ昼だ。高い位置にある窓から、光が差し込んでいる。
調査隊が何度か入っていたためか、空気も、思ったほど淀んでいなかった。埃っぽさはあるが、息苦しいほどではない。
ただ――静かだった。
物音が、何もない。五人の足音だけが、ホールに響いている。
その静寂の向こう、遠くから――低い、低い呻き声が聞こえた。
「……うぅぅ……あぁ……」
長く、途切れることなく続く声だった。人のものとも、獣のものとも、判断がつかない。喉の奥から、無理やり押し出されるような、湿った響きだった。
五人の表情が、それぞれに動いた。
シェリルは、小さく笑った。むしろ、興味を引かれた、という顔だった。
エルナは、表情を変えなかった。ただ、目だけが、声の方向に向いていた。
アノリスは、表情に、強い意思を浮かべていた。怖さを認めながら、それに負けない、という顔だった。
トーリーは、わずかに足がすくんでいた。一歩、二歩と続けて出すはずの足が、止まりかけている。
そして、ラフィスは――明らかに、嫌そうな顔をしていた。小さく、首を横に振っている。何か、思い出したくないものを、振り払うような仕草だった。
「ゾンビの山が、いるわね」シェリルは、言った。「それと――狂った魔法植物。あそこに見える、鉢植え」
シェリルが指したのは、ホールの隅に置かれた、大きな鉢植えだった。
その植物から、魔力が漏れ出している。明らかに、自然のものではない、不自然な脈動だった。
次の瞬間、
――っ!!!
その植物が蔓を伸ばし、シェリルとアノリスに向かって、一気に襲いかかった。
蔓が絡みつこうと、空を切る。
シェリルは、計ったように、炎の術式を放った。蔓が、焼け落ちる。
同時に、アノリスは、ヴェントラーゼを抜いていた。斬撃が、もう一本の蔓を、間一髪のところで両断する。
切られた蔓が、地面に落ちて、しばらく蠢いてから、動きを止めた。
一瞬の出来事だった。
エルナは、目を見開いていた。シェリルの炎が放たれたのも、アノリスの剣が振られたのも――両方、エルナの認識が追いつく前に、終わっていた。
「今の……」エルナは、小さく呟いた。「気配を感じてから、対応するまでが――速すぎます」
トーリーは、それ以上に、固まっていた。
視線は、アノリスから離れない。
蔓が伸びてきた瞬間から、両断するまで――その動きを、トーリーの目は、ほとんど追えていなかった。剣を抜く動作さえ、見えなかったように感じた。
「……すご」トーリーは、掠れた声で言った。「アノリスさん――めちゃ、強いんですね……」
「これくらいなら、まあ」アノリスは、剣を構え直しながら、軽く言った。「でも、ちょっと、びっくりした」
「びっくり――って、その反応で?」トーリーは、まだ、アノリスを見ていた。
「ここから先は、もっと出てくると思うわ」シェリルは、焼け跡を見ながら言った。
陽の位置は、まだ高い。だが、この洋館を一通り調べるには、時間が足りないだろう。
「日没までには、ここを出ないと」とシェリルは言った。「効率を考えると――二班に分かれて、調査した方がいいわね」
「二班、ですか」エルナが言った。
「ええ」シェリルは、四人の顔を見た。
そしてシェリルは、明らかに様子のおかしいラフィスを見た。シェリルもまた、墓荒らしの一件を覚えていた。
「ラフィス、大丈夫?」
「……平気だ」
その答えは、さっきと同じだった。ただ、声の調子は、あまり芳しくなかった。
シェリルは、少し考えた。
ラフィスは、これまで、生きているものを相手に、剣を振るってきた。賊、魔物、敵――どれも、命を持って、向かってくる相手だった。それに対して、ラフィスは、常に圧倒的な強さを示してきた。
だが――死者は、違う。
あれだけの実力で、生きているものを相手にしてきた者が、死者を相手にすることになったら。それが、どういう種類の「怖さ」になるか、シェリルには、想像がついた。
「私と、ラフィスで組むわ」シェリルは言った。「私たちは、二階を見る」
「シェリル――」
ラフィスは、思わずその後に「すまない」と言いそうになった。
「アノリスたちは、一階をお願い」シェリルは、続けた。「エルナさんは、ゾンビ系の対応が、得意そうだから――アノリスとトーリーさんと一緒に」
「わかりました」エルナは、頷いた。
「シェリル……」ラフィスは、もう一度彼女の名を呼んだ。
「いい?」
ラフィスは、シェリルを見た。
それから、小さく頷いた。
シェリルとラフィスは、ホールの奥、二階へ続く階段に向かった。
アノリス、トーリー、エルナの三人は、一階の通路へ進んでいく。
二班に分かれた五人は、それぞれの方向へ、足を進めた。
一階の通路は、左右に部屋が並ぶ構造になっていた。
最初の部屋は、扉が半開きになっていた。
アノリスが、慎重に押し開ける。
中は、風魔法の実験室だったらしい。机の上には、古びた本が、数冊、当時のまま置かれている。表紙には埃が積もり、長い間、誰も触れていないことがわかった。
エルナが、室内に向けて、軽く魔力を流した。気配を探るような、薄く広がる魔力だった。
「……何も、いないみたいです」エルナが言った。
「異常なし、ってことね……って、あれ」アノリスは、机の本を一通り見ると、その間に何やらメモが残されている。新しい。調査隊が残したものだろう。
――六号室、白い扉の部屋、ゾンビの群れ。
これはラフィスに見せないようにしよう、アノリスはそのメモをポケットに入れた。
三人は、次の部屋へ向かった。
扉に近づいたとき――アノリスは、足を止めた。
「……うわ」
異臭が、扉の隙間から漏れていた。
甘く、それでいて、腐ったような臭い。三人とも、思わず、顔をしかめた。
アノリスが、剣の柄に手をかけながら、そっと扉を開ける。
部屋の中に、人影があった。
人――だったもの、というべきかもしれない。
肉が削げ落ち、骨が露出した部分もある。それが、ゆっくりと、こちらに向かって、顔を向けた。
目が、合った。
ゾンビは、ゆっくりと、こちらに向かって歩き始めた。動きは、遅い。
「うわっ、これはマジもんだ――!」
アノリスは、思わず、一歩、後ろに下がった。
エルナは、漂ってくる異臭に、思わず顔をそむけた。
その時――
「下がってください」
トーリーが、二人の前に出た。
異臭の中、トーリーは、動かなかった。表情には、わずかな緊張があったが、足は、その場に踏みとどまっている。
背負っていたクロスボウを構え、引き金を引く。
一射目が、ゾンビの肩に突き刺さった。間髪を入れず、二射目、三射目――連射された矢が、次々と、ゾンビの体に命中していく。
最後の一射が、頭部を撃ち抜いた。
ゾンビは、その場に、崩れ落ちた。
部屋が、静かになった。
アノリスは、トーリーの背中を見ていた。
異臭で、自分は思わず下がってしまった。それなのに、トーリーは、その場に留まって、確実に仕留めた。普段の、どこか落ち着かない様子とは、まるで違う姿だった。
――いざとなったら、ちゃんとしてるんだ。
その背中に、アノリスは、少しだけ、頼もしさを感じた。
「……すごい」アノリスは、トーリーを見た。「連射、できるんですね」
「は、はい」トーリーは、クロスボウを下げながら、答えた。「これくらいなら……」
一方、シェリル・ラフィスの二人、階段を上がると、正面に扉があった。
シェリルが、ドアノブに手をかける。
――鍵が、かかっている。
「魔法で、開けられるけど」シェリルは言った。
ただ、シェリルは、すぐに、その扉から離れた。
「別の部屋を、先に見ましょう」
正面の扉の隣、もう一つの扉に向かう。
扉の表示には、かすれた文字で「魔獣実験室」と書かれていた。
近づくにつれて、シェリルは、わずかに眉を寄せた。
血の匂いだった。扉の隙間から、漏れている。
シェリルは、慎重に、扉に手を置いた。
手のひらから、術式を流す。中の魔力反応を、探る。
――鮮血の反応。それも、新しい。
「ラフィス」シェリルは、低い声で言った。「下がって」
ラフィスは、答えなかった。
代わりに、無言で、シェリルの腕に、しがみついていた。
シェリルは、ラフィスを見た。
やっぱりいつもの、冷静なラフィスではない。明らかに、怖がっている。
――これは、わかる。人とは違う殺気が丸出し。
「離れて」シェリルは、もう一度、静かに言った。
ラフィスが、わずかに、扉から距離を取った。
慎重に、ゆっくり開けたら、その隙間をこじ開けられて襲われる。
シェリルは、ドアノブに手をかけた。
――バタン!
一気に、扉を開けた。
いや、開け終わる前のことだった。
「グワアアアァァァッッッッッ!!!」
咆哮と同時に、何かが、シェリルに向かって、飛び掛かってきた。
狼の魔獣――カデア樹海で対峙したものと、同じ種類だった。
ラフィスのことを少し案じていたからか、至近距離からの跳躍。躱す間合いを誤った。
牙が、正面から、シェリルの首から胸にかけて、突き立てられる。
「――きゃああああっ!!」
シェリルの、大きな悲鳴が、館全体に響いた。
咄嗟に組んだ防御の術式が、間一髪、牙の威力を殺していた。出血は、最小限に抑えられている。だが、衝撃そのものは、防ぎきれなかった。
階下にいた三人にも、その声は、はっきりと届いた。
「シェリルさん!?」
「今の――!」
一階の三人が、凍りついた。
――シェリルさんが、あんな声を出すなんて。
普段、シェリルは、感情をほとんど表に出さない。だが、ごく稀に――本当に危険な瞬間にだけ、シェリルは大きな声を出す。
リドリウスで、龍の暴走を鎮めたときも、最後の瞬間、そういう声を上げていた。
それを聞いた者は、皆、同じことを思う。
――シェリルが、こんな声を出すほどの、何かが起きている。
二階では――
ラフィスが、すでに動いていた。
シェリルに圧し掛かっていた魔獣に、剣が、一閃する。
一度カデア樹海で何十体も倒していた魔獣となればラフィスも身体が動く。一瞬で斬り伏せられた。
「シェリル!」ラフィスは、駆け寄った。「しっかりしてくれ!」
「姉さん!」
アノリスが、真っ先に、階段に向かって駆け出した。トーリーも、エルナも、すぐ後ろに続く。
「待って!」
二階から、シェリルの声が響いた。
「そこを、動かないで」シェリルは、続けた。「私は、大丈夫。――下は、まだ、安全とは限らない」
アノリスたちは、階段の手前で、足を止めた。
「……防御魔法だけで、精一杯だったわ」シェリルは、仰向けになったまま、言った。「私としたことが……痛っ……」
首元から胸にかけて、薄く、血が滲んでいる。傷は深くない。それでも、痛みは、はっきりとあった。
それでも、シェリルは、ラフィスを見た。
「中に、まだ、いるかもしれない」
そう言って、シェリルは、ゆっくりと、体を起こした。




