一 総帥と魔法算術
コルトラン大陸から海を隔てて対岸、ウルメシア大陸は帝都ヴォルテナ、軍総帥府。
その執務室に、ヴァッサン・オークロスは、立っていた。
上座の椅子に座るガルデウスは、机の上に、一枚の報告書を広げていた。エレシア王国から外交ルートを通じて送られてきた、事案の経緯を記した文書だった。
ガルデウスは、しばらく、その報告書を見ていた。
「聞かせてもらおうか」ガルデウスは、静かに言った。「順番に、だ」
ヴァッサンは、黙っていた。
言うべき言葉が、見つからなかった。いや――正確には、どの言葉を口にしても、この場では、言い訳にしか聞こえないと、わかっていた。
「魔法算術論という理論が、エレシアで広まっているという報告を受けた。それに対して、お前は――どう判断した」
「陸軍省にとって、脅威だと――」
「私憤だ」ガルデウスは、遮った。「魔法省が台頭することへの、お前個人の苛立ちだ。それを帝国の判断と混同した」
ヴァッサンは、口を閉じた。
図星だった。だが、そう認めてしまえば、自分がこの帝都から遠く離れた隣国まで、たった一人で乗り込んでいった行動の全てが――ただの八つ当たりに成り下がる。それだけは、認めたくなかった。
「次。お前は、軍を無断で離れた」ガルデウスは、続けた。「行き先も、目的も、報告なし。帝国軍の司令官が、だ」
「緊急の判断として――」
ヴァッサンが言い終わるかどうかというところで、
「緊急の判断は、上に通してから行う」
ガルデウスがそれを制した。
「次。エレシアに入って、お前は何をした」
ヴァッサンは、答えなかった。
答えられなかった、と言った方が、正しい。
あの時の自分が、何を考えていたのか――今となっては、自分でも、うまく説明ができない。理論を潰す。そのために、書いた本人を捕らえる。そこまでは、筋が通っていたはずだった。それが、どこで、あんな形に転がったのか。
「エーテラリスを名乗る研究者に、直接会おうとした。だが、当事者には会えなかった」ガルデウスは語尾を強め、報告書を指で叩いた。「代わりに――娼館の受付嬢を、個室に連れ込んで、暴行を働こうとした」
ガルデウスの調子が上がってきた。叱責するような様子では無いのだが、事実を並べるだけの口調にしては少々緊張感が高まってきた。
情報収集と称して月華亭という最高級娼館へ行き、その後、受付嬢の姉が「当の本人」ということを突き止める。そこまではよかった。
が、その受付嬢に戦闘能力があった、というのは誤算であった。
そこにガルデウスが少々声の調子を落として言う。
「陸軍省の司令官が、隣国の娼館で、婦女暴行だ」
ヴァッサンは、下を向いた。
その言葉を、他人の口から、こうして並べられると――自分でも、信じられなかった。
総帥府の執務室。磨き上げられた床。壁に掛かる帝国の紋章。その全てが、今の自分を、突き放しているように感じた。
「外交問題になるところを、エレシア側が、内々に処理することを選んでくれた。本国への移送で、済んだ」ガルデウスは、報告書を閉じた。「感謝すべき話だ。皮肉なことに」
沈黙が、続いた。
ヴァッサンは、その沈黙の重さに、耐えていた。むしろ、怒鳴られた方が、まだ楽だった。ガルデウスの静けさは、失望そのものだった。
「お前の処分については、追って、通達する。今日は、下がれ」
ガルデウスは言った。それを受けてヴァッサンは深く頭を下げて、執務室を出ていった。
――ちっ、あの受付の女め……
ヴァッサンは扉を閉める。それでも収まらないものがあった。
扉が閉まると、ガルデウスは机の上に肘をついた。
報告書を、もう一度、開く。
エーテラリス、魔法算術学者。魔力消費やその軌道を定式化し、術式の効率を高める理論――。
ガルデウスは、しばらくその部分を、読み返した。
――面白い。
ヴァッサンが「脅威だ」と判断したのは、魔法省への警戒からだった。陸軍省と魔法省の権力争いを、そのまま、この理論に投影した。
だが――ガルデウスの見方は、違った。
術者個人の効率が上がることは、帝国の軍全体の底上げになる。陸軍であれ、魔法師団であれ、関係ない。
理論として広まることを、単純に「脅威」と切り捨てるのは――考えが、浅い。
それよりも、気になることがあった。
――エーテラリスとは、何者か。
エレシア王都で、活動している研究者。魔法使いを志す学生や魔法師団の講義を担い、入門書を出版した――そこまでは、報告に書いてある。
だが、王都の魔法師団に所属しているわけでもなく、素性の詳細は、まだ、つかめていない。
ガルデウスは、報告書の一節に、指を止めた。
ヴァッサンが襲おうとした、月華亭の受付嬢。その素性についても、簡潔に記されていた。
――エーテラリスの、妹。
そして、その年齢。文面には、被害者はまだ十代と見られる、とあった。
ガルデウスの目が、細くなった。
妹が、十代。
姉と妹の年が、極端に離れていない限り――エーテラリスもまた、若いということになる。二十代の、それも、前半か。
ガルデウスは、報告書から、視線を上げた。
――若い。
この理論を、一から体系立て、入門書として書き上げ、講義として教え、大陸に広げている。その人物が、二十代そこそこの若さだというのなら――それは、ヴァッサンが「脅威」と呼んだ以上に、恐るべきことだった。
いや、恐るべき、という言葉は、正しくない。
ガルデウスの中に湧いたのは、警戒ではなかった。
「帝国の本屋には、まだ、並んでいなかったな」ガルデウスは、独り言のように言った。
エレシアで出版されたという入門書。ソルガン連邦やウィルモント共和国には届いているという話を、別の報告で聞いていた。だが、帝国には、まだ、流通していない。
――読んでみたいものだ。
研究者として。魔法使いとして。
一人の人間が、それも、まだ若い人間が、これだけの理論を、これほどの速さで、広げている。
ヴァッサンが「始末すべきだ」と言った相手を、ガルデウスは、そうは思わなかった。
――会ってみたい、と思う。
その若き頭脳が、何を見て、何を考え、この理論に辿り着いたのか。それを、この目で、確かめてみたい。
ガルデウスは、報告書を閉じて、机の引き出しに入れた。
窓の外、帝都の空は、灰色の雲に覆われていた。




