十 広がる名
二件の裁判が終わり、三人が宿を移ってからは、それぞれの日常が静かに進んでいった。
シェリルは講義と次の学会提出予定の論文、アノリスは月華亭、ラフィスは騎士団――大きな事件もなく、季節は、ゆっくりと進んでいった。
その間にも、シェリルの周りでは、変化が、確実に進んでいた。
十二月に入る少し前――
講義を終えたシェリルが、教材を片付けていると、ベルナルトが、教室に入ってきた。
「シェリルさん、少し、お時間いいですか」
「何でしょうか」
「実は――団長から、話がありまして」ベルナルトは、少し、言葉を選ぶように言った。「学生向けの講義とは別に、師団向けの実戦講義はどうか、という話です」
シェリルは少し目を細めた。
「要するに戦場に向けて、という?」
「そうです。上級の方々――それと、中級の中でも、最上位の数名。師団でも実力者の面々です」
シェリルは、師団を前に講義をする自分を想像した。
「人数は、それほど多くありません」ベルナルトは続けた。「ですが――師団の方針にも、関わる話になります。算術論を、どう師団の運用に組み込んでいくか。その判断をする立場の人たちに、直接話を聞いてほしい、ということです」
「……つまり」シェリルは言った。「私の理論が、もう、運用の話に、なっているということですか」
「ええ」ベルナルトは、頷いた。「正直、これは――予想以上の速さです」
その言葉に、シェリルは、小さく、息をついた。
九月、出版社で、エーテラリスとしての正体が明らかになったとき。その時点では、論文が、師団内で話題になっている、という程度の話だった。
それから、二ヶ月余り。
入門講義になり、入門書の出版になり――今は、師団の運用方針そのものに、影響を与える段階に来ている。
「わかりました」シェリルは言った。「日程は、また、相談させてください」
「ありがとうございます」
ベルナルトが、控室を出ていった後――シェリルは、しばらく、その場に座っていた。
この二ヶ月で、シェリルの周りで起きたことは、加速していた。
入門書『魔法算術論 初等編』は、リーヴィン市内だけでなくエレシア国内の他の都市でも、書店に並ぶようになっていた。
ドラウからは、北西のソルガン連邦や南のウィルモント共和国からも、書籍の取り寄せ依頼が来ている、という報告があった。
師団内では、もはや、シェリルを「先生」と呼ぶことに、誰も違和感を持っていなかった。
街を歩いていても、時々、声をかけられることがあった。「エーテラリスさんですか」と、遠慮がちに聞かれることもあった。最初は戸惑った。だが、今はそれにも慣れてきていた。
――広がっている。
知は独占しない、と決めたときから望んでいたことである。それでも実際に、自分の名前がこんな速さで、広がっていく感覚は――どこか、不思議なものだった。
その夜、シェリルは、宿の部屋で、新しい原稿に向かっていた。
中級編――三角関数と指数関数、そして先日の講義で扱った複素数の魔法への応用を記す次の本の執筆を、始めていた。
――エーテラリスとしての名前と、特級魔法使いとしての名前。
この二つは、今、シェリルの中で、別々の方向に、伸びている。
学者としての名前は、本を通じて、どんどん広がっていく。
会ったことのない人々が、エーテラリスの理論を学び、応用し、議論する。それは、嬉しいことだった。
一方で――特級魔法使いとしての自分は、どうなるのか。
学者として有名になればなるほど、戦う人間としての自分が、見えにくくなっていく気がした。机に向かい、本を書き、講演をする――それだけの人間だと、思われてしまうかもしれない。
シェリルは、原稿を置いた。
自分の右腕を、見た。
――私は、魔法使いだ。
収縮法で龍の暴走を鎮めたのも、自分だ。賊を相手にしたことも、自分だ。エーテラリスという名前が、どれだけ広がっても、その事実は、変わらない。
シェリルは、右腕に、軽く、力を込めた。
それから、もう一度、ペンを取った。
中級編の、最初の一行を、書き始める。
翌週、師団への講義。明らかに学生向けの空気とは違う。
教室に入ってきたシェリルを、受講者たちが、一斉に見た。視線の中に、これまでとは少し違う、緊張のようなものが混じっていた。
「今日は、少し、先のことを話します」シェリルは、黒板の前に立った。
「初等編は、もうすぐ、終わります。その後――中級編で、何を扱うか」
教室が、静かになった。
「中級編のゴールは、一つです」シェリルは言った。「実戦で使える術式を、あらかじめ、設計しておくこと」
「設計、ですか」誰かが、聞いた。
「ええ。戦場で、その場で考えて、できることは、限られています」シェリルは続けた。「だから――『ここぞというときに使う術式』を、いくつか、得意魔法として、前もって設計しておく。そして、その設計の中で、自分の魔力消費を、できるだけ抑える」
教室が、静かに、シェリルの言葉を聞いていた。
「戦場で、何より大事なのは――魔法の威力じゃありません」シェリルは、言葉を、はっきりと、区切った。「魔力切れを、起こさないこと。それに尽きます」
教室の中で、何人かが、小さく、頷いた。
長く戦ってきた者ほど、その言葉の重みを、わかっていた。威力のある魔法を、一度や二度使えても、その後、魔力が切れてしまえば、戦線を維持できない。逆に、多少威力が落ちても、最後まで使い続けられる術式の方が、結果的に、生き残る。
「これまでは、こうした『設計』も、感覚に頼っていました」シェリルは続けた。「同じ威力を出すのに、消費が少ない組み方と、多い組み方――その差は、確かにあります。それを、算術で見えるようにします」
シェリルは、黒板に、簡単な図を描いた。同じ大きさの円が二つ、並んでいる。一つには、細かい目盛りが、もう一つには、粗い目盛りが、振られている。
「同じ結果を出す術式でも、組み方によって、消費の効率は変わります。中級編では、こういった『組み方の違い』を、自分で見極められるようになることを、目指します」
教室の中に、小さなざわめきが、広がった。
「それから――周期」シェリルは、続けた。「術式の維持には、周期的な揺らぎがあります。詠唱のリズム、魔力供給のタイミング――これを、波として捉えることができます」
シェリルは、黒板に、波のような曲線を描いた。
「波の形を、式で表せれば――いつ、術式が一番、弱くなるかが、わかります。逆に言えば――いつ、最も効率よく、術式を切り替えられるか、ということです」
教室の前列に座っていた、一人の団員が、小さく、息を呑む音を立てた。
「最後に――境界」シェリルは、もう一つの図を描いた。曲線が、外側に向かって、徐々に弱まっていく様子を示す図だった。「結界や防御の範囲は、中心から離れるほど、効果が弱くなります。この『弱まり方』にも、式があります。どこまでが、本当に守られている範囲か――感覚ではなく、数値で、判断できるようになります」
教室は、しばらく、静かだった。
それから、誰かが、小さく、呟いた。
「……これ、自分の得意魔法、見直す必要があるかもしれないな」
その言葉に、何人かが、頷いた。
シェリルは、教室を、見渡した。
「一つ、誤解してほしくないことがあります」シェリルは言った。「算術で説明できるようになることが、感覚を否定する、という意味ではありません」
教室の空気が変わる。
自然科学を記述するための手段として用いられる算術が、自然を超える力を扱う魔法でも使われるという事実を、どうにも快く思っていない者がいる。
そのような者に対して、シェリルは優しく語りかけるように、言った。
「楽器を弾くとき――楽譜通りに、完璧に弾く人もいます。でも、楽譜から少し外れても、出したい音を、出したいように弾いて、人の心を動かす人もいます」シェリルは、続けた。「魔法も、同じです。理論は、その人の感覚を、置き換えるものじゃない。なぜそれができるのか、後から説明できるようにする――それだけのことです」
教室の中に、何か、ほっとしたような空気が、広がった。
「初等編は、魔力の動きそのものを、知るための内容でした」シェリルは続けた。「中級編は、それを使って――自分自身の『戦い方』を、設計する話になります」
「今日は、ここまでにします」シェリルは言った。「中級編は、来年から、出版を予定しています。気になることがあれば、いつでも聞いてください」
講義が終わった後も、教室には、人が残っていた。
団員たちの間から、自然と、声が漏れていた。
「あの歳で、ここまで体系立てて話せるって、やっぱり、すごいよな」
「実戦的、っていうのが、いい。理屈だけじゃない」
「俺、得意魔法、見直してみるわ」
好意的な声が、教室のあちこちから聞こえてくる。九月、初めて講義が始まったときの、戸惑いと興味が混じった空気とは、もう、違っていた。今は、シェリルの言葉を、自分の戦い方に、具体的に取り入れようとする空気があった。
その一方で、教室の隅、何人かの団員が別の表情を見せていた。
「……二十二歳、だろ」
「俺たちが、何年かけても届かないものを、あの若さで」
羨望と、その裏にある、わずかな苦さ。声には、出さない。それでも、その表情には、隠しきれない感情が、滲んでいた。
――やはり、どこに行ってもそんな言葉は聞こえてくる。
シェリルは、その両方の空気を、感じ取っていた。
好意も、嫉妬も、どちらも、広がっていく名前に、自然とついてくるものだった。それを、消そうとは思わなかった。
ベルナルトは、教室の入り口で、その様子を見ていた。
九月、出版社で初めて会ったときの、まだ「研究者」という肩書きだけだったシェリルと、今、教室の中央に立っているシェリルとは――同じ人間でありながら、纏う空気が、明らかに違っていた。
世界に何人もいない、特級魔法使い。そして、エーテラリスという名で、大陸に広がっていく学者。
その二つの肩書きを、両方、その身に抱えながら――シェリルは、教室の中央に、自然に、立っていた。
誰かに教わったものではない、その人自身の風格が、そこに、確かに、あった。
と同時に、ベルナルトには疑問が生じた。
――なぜ、彼女は若くしてここまでのものを得て、年齢不相応な落ち着きを見せているのだろう。
この答えは分かるのは、もう少しだけ先のことだった。




