九 水色のドレス
アノリスが月華亭で働き始めて、数日が経った。
今日は初めて、水色のドレスを着てみた。肩から鎖骨まで、ほとんど隠すもののない作りだ。
最初は「攻めすぎかな」と思っていたが、思い切って袖を通してみると、案外、悪くない気もした。
むしろこのような高級な店で働く自分に自信が湧いてくるようにさえ思える。
開店時間になり、いつものように客が入ってくる。
馬車の音、受付での挨拶、案内――時間は、いつもと同じように過ぎていった。
その中に、見覚えのある男がいた。
数日前に来た、異国の雰囲気を纏った男だった。仕立てのいい外套、着慣れていない歩き方。あの日、リアを指名した男だ。
「いらっしゃいませ」
アノリスは、笑顔で声をかけた。
男は、何も言わなかった。ただ、アノリスを見ていた。
その目に、アノリスは、何かを感じた。
――あれ?
いつもの客とは、違う。値踏みするような視線でも、口説いてくるような視線でもない。鋭く、まっすぐに、アノリスだけを見ている。
「お前を、指名する」男は、低い声で言った。
「は――」
「魔法算術論を書いたのは――お前の姉か?」
アノリスは、一瞬、息を止めた。
次の瞬間には、答えが出ていた。
「お答えすることはできません」
男の口元が、わずかに動いた。
「ヴァッサンだ」男は言った。「ヴォルテナ帝国、陸軍省――」
言い終わるより早く、男の手が、アノリスの腕を掴んだ。
強い力で、引かれる。
とっさに、剣を抜こうとした。だが、店内だ。客に手を出せば、月華亭にとっても大事になる。何か、適切な術式を――咄嗟に組めなかった。
まだ、未熟だ。
男は、アノリスを抱えるように、奥の通路へ引き込んでいった。受付の周りにいたはずの誰かが、何かに気づいて声をかけたが、その時にはもう、男は個室の方向へ進んでいた。
セレナが気づいたのは、少し遅れてからだった。
――始末。
リアから聞いた、あの言葉が、頭の中で響いた。
個室の扉が閉まると、男は、アノリスを乱暴にベッドへ突き出した。
水色のドレスの肩紐が、その勢いで、片方ずれた。薄い生地が、肩から滑り落ちる。
「お前の姉を、連れてこい」男は言った。「我が軍に害悪をもたらす理論は――消さねばならない」
――こいつが、ラフィ姉の国を滅ぼした帝国の男!?
アノリスは相手のことがよく整理できていない。
ただ一つだけ、何やら頭の悪そうな男だということしか感じ取れない。
だからか、突然短絡的に自分の姉を消そうとしていることに、妙な納得を覚えている。
「消すって――」アノリスは、ずれた肩紐を気にする余裕もなく、男を見上げた。「もう、手遅れだよ」
「何だと」
「姉さんを消したって、もう世界は動いてる」アノリスは、男の目をまっすぐ見た。「そんなこと、無益だよ」
「うるさい!」
男が有無を言わさずアノリスに圧し掛かった。
ドレスの裾が乱れ、布が大きく捲れる。
「いい女じゃないか、姉の居場所を吐くまで、楽しませてもらおうじゃないか」
息がかかる距離まで、ヴァッサンはアノリスに顔を近づけた。
「私に何しようったって――姉さんは出てこない!」
その瞬間、アノリスは、圧し掛かる男に向けて、風の術式を放った。
強い風が、男の体を弾いた。男は、アノリスから離れ、床に転がった。
「な――!」
アノリスは、すぐに体を起こした。床に崩れた男に向けて、腰の剣を抜く。
ヴェントラーゼの刃先が、男の喉元に向けられた。
――紅淑館の誘拐事件の後から、アノリスは店の許可を得て、ヴェントラーゼを腰につけたまま勤務している。
セレナも、ドレスに合わせたファッションの一環として、特に気にしていなかった。
こんなに早く、役に立つとは思っていなかった。
その時、扉が、勢いよく開いた。
「アノリスさん!」
セレナだった。
駆け込んできたセレナの目に映ったのは――乱れたドレスのまま、床に崩れた男に、ヴェントラーゼを突き付けるアノリスの姿だった。
「さっすが!」セレナは、すぐに状況を理解したようだった。「騎士団に突き出すよ! ――ところで、これ誰?」
「帝国の――陸軍省司令官、だって」
セレナの表情が、固まった。
「……は?」
――
暦は、十月に入っていた。
二つの裁判が、相次いで行われた。
一つは、シェリルを襲撃した、中級クラス七の女性魔法師の審判。
放火、そして殺人未遂――師団内の審判の結果、女は等級を剥奪され、魔法師団から永久追放されることとなった。さらに、放火による器物損壊の責任として、一定期間の身柄拘束が命じられた。
もう一つは、ヴォルテナ帝国陸軍省司令官、ヴァッサン・オークロスの審判だった。
他国の人間が、月華亭――民間人の施設に強制的に侵入し、暴行未遂に及んだ。
さらに、自らの所属と地位を名乗ったうえでの犯行であり、外交上の問題にもなりかねない事案だった。
エレシア王宮は、この件を、慎重に扱った。
ヴァッサンの身柄は、エレシア側で一時的に拘束された後、ヴォルテナ帝国側へ引き渡された。
帝国側からの正式な抗議はなく、むしろ、内々に処理してほしい、という意向が伝えられたという話だった。
軍事部門の司令官であるこの男が私憤から起こした凶行が外交問題に発展するという、笑うに笑えない事態は回避されることとなる。
ヴァッサンが、なぜ単独で行動していたのか。なぜ、エーテラリスの正体を、アノリスを通じて掴もうとしたのか。その詳細は、エレシア側には明かされなかった。
ただ、一つだけ、確かなことがあった。
ヴァッサンの名前と、月華亭で起きた一件は、リーヴィンの一部――王宮と魔法師団の上層部の間でだけ、静かに記録された。
アノリスの方には、その後、特に大きな変化はなかった。
月華亭は、変わらず営業を続けていた。セレナは、あの一件以来、アノリスへの信頼を、さらに深めたようだった。
「あなたがいてくれて、本当に良かった」
シェリルは出版と講義、アノリスは月華亭、ラフィスは騎士団――それぞれの仕事が始まってからは、宿屋で顔を合わせることはあっても、ゆっくり話す時間は、ほとんど取れていなかった。慣れない生活に追われるまま、気づけば十月も半ばになっていた。
リーヴィンは、日中も、そろそろ肌寒くなってくる頃、ヴァッサンの身柄が本国であるヴォルテナ帝国へ送られた。
帝国の陸軍省司令官が、
隣国の娼館で、
婦女暴行に及んだ
――その話は帝国としても、黙っておけるものではなかった。
アノリスは、その一件について、シェリルとラフィスには、特に話していなかった。
月華亭で起きたことだ。被害に遭いそうになったのは自分で、最終的には、自分でなんとかした。詳しく話せば、二人が心配するだろう。そう思って、何も言わないままにしていた。
そして月華亭の受付嬢としてアノリスも、いつも通り立っていた。
その夜、三人は、宿のロビーで時間を合わせた。
ロビーは、酒場を兼ねた作りになっている。九月の間、三人がこうして揃って話す時間は、ほとんど取れていなかった。
「久しぶりだね、こうやって三人で」アノリスが、テーブルに着くなり言った。
「アノリス、なんかこう……可愛くなったな」とラフィスが茶化し気味に言う。
「はははっ、だって私はこの店の最高級の受付嬢だからっ!」
アノリスはまんざらでもなさそうだった。
「まぁそこは、みんな忙しかったから」シェリルは、椅子に座りながら言った。
軽い食事と酒を頼んで、三人は、それぞれの近況を話し始めた。
最初は、何気ない会話だった。講義の様子、月華亭での出来事、騎士団での訓練――それぞれの一ヶ月半は、それぞれに濃いものだった。
「そういえば」アノリスが言った。「今月の給料、銀貨六十枚×だいたい六日で、結構な額になってきたんだよね。月で見たら、金貨にしたら結構いくし」
「金貨で――どれくらい?」シェリルが聞いた。
「だいたい、百五十枚くらいかな」
ラフィスが、わずかに目を見開いた。
「百五十枚……」
「ラフィ姉は、どれくらい?」
「基本給は、月に銀貨百枚から百五十枚くらいだ」ラフィスは言った。「それと、先日の討伐の褒賞が、別で金貨数枚」
「姉さんは?」
「講義は、月に銀貨五十枚から八十枚くらい」シェリルは言った。「それと、出版の――初版の取り分が、もう少し後で入ってくる予定」
三人は、しばらく、互いの数字を見比べていた。
「……アノリス、断トツじゃん」ラフィスが、静かに言った。
「いや、私もまだびっくりしてる」アノリスは、少し笑った。「月華亭、本当にすごい店だったんだなって」
「変な客とか、危険な目にあうことも、あるんでしょう」シェリルは言った。「楽しそうだけど――大変そうね」
「まあ、いろいろあるよ」アノリスは、軽く笑った。「でも、慣れてきたし。それに、向いてると思う」
シェリルは、アノリスを、少しの間、見ていた。
大変なことも、危険なことも、あるのだろう。それでも、アノリスの表情には、充実したものが見えた。姉として――その姿に、シェリルは、目を細めた。
「それぞれ、ちゃんと稼げてるってことだな」とラフィスが言った。
三人は、何となく、顔を見合わせた。
「それって――」アノリスが、ニヤッとした。「もっといい宿に変えてもいいんじゃない、ってこと?」
「九月は、それを考える時間もなかったからな」ラフィスが言った。
「十月も半ばだし」シェリルが言った。「そろそろ、寒くなってくる。部屋が暖かい宿の方が――いいと思うわ」
「それ、すごく賛成」アノリスが、勢いよく言った。「燃えてきた」
その夜のうちに、三人は、宿の主人に相談した。
翌日には、リーヴィン中央通りに近い、少し格式のある宿への引っ越しが決まった。
「お風呂、部屋についてるところもあるんだって」アノリスが、荷物を運びながら言った。
「それは――いいな」とラフィスが言った。
「楽しみね」とシェリルも言った。
新しい宿の窓からは、今までとは違ったリーヴィンの街並みが見えた。




