八 魔法と複素数
その日の講義は、いつもより少し難しい内容だった。
受講者の中でも、算術を一定以上修めている者を対象にした回――複素数の魔法への応用を扱う講義だった。
「今日は、複素数を使います」
シェリルがそう言った瞬間、教室の空気が、わずかに変わった。基礎の積分や微分とは、明らかに違う響きを持つ言葉だった。
「複素数というのは、これまでの一次元の数の延長として、平面上の点を表すための数です」シェリルは、黒板に図を描きながら続けた。
「先に算術で複素数に触れた方は二乗して負になる数の存在を学んだと思います。ただし実際、どのように応用するのか少々分かりにくいかも知れません。何しろ『実』に対して『虚』とされているものを扱うのですから」
そこまで言うとシェリルは横軸を「実」、縦軸を「虚」として黒板に平面を提示した。
「これを使うと、術式の動きを――回転として記述できます」
生徒の一人が驚いたような顔をした。
「か、回転ですか?」
「えぇ、複素数というのは平面上の原点、つまり術者の位置からの距離と方向を記述することで、術式を展開できるのです。勿論、中心座標を動かすことで術式発生の位置を操作することができます」
黒板に円が描画され、平易な式で説明されている。
「実関数で使用したX-Y平面でも円の方程式は記述できますが、二乗が入ったり、半径を求めるためには右辺の正の平方根を考えたり、そもそもy=f(x)の形になっていない陰関数なので取り扱いが難しい。魔法に応用するためには『イメージしやすい』というのも大切です」
「たとえば、複素数による円形展開」シェリルは式を連ねて行く。三角関数を用いた極形式表記から、オイラーの公式を使ってより平易な式に変形した。
「この式は優秀です。半径rを決めたら、術者からの方向θを一回転させるだけで円形展開可能です。このrを定数ではなく、術者からの距離によって変動する関数にすれば、その円形術式を領域として展開することも可能です」
教室の中で、何人かが、ノートを取る手を止めた。これまで学んできた一次関数や積分とは、別の次元の話に聞こえているのだろう。
ただ、魔法使いにとって「円形領域展開」という言葉は時々耳にする。これを定式化できることに対して興味深く耳を傾けていた受講者も多数いた。
ここまででシェリルは受講者にノートを取る時間を与える。
その間、講義室の脇にある簡易的な実演スペースの準備をしていた。
頃合いを見て、シェリルは講義を再開した。
「ところで、皆さんの中に竜巻を扱う方はいらっしゃいますか?」
――両手の指で足りるくらいの人数が挙手した。一通り見まわして、シェリルは「はい、ありがとうございます」と手を収めさせる。
そして、実演スペースへ移動して、軽く竜巻を発生させた。
「……は、速い」何人かの生徒は目を丸くした。無詠唱、瞬きしている間に竜巻が生成されていた。
「竜巻の術式というのは風魔法の花形、習得したいという方も多いと思います。その反面、イメージだけで展開すると安定しづらい術でもあります」
シェリルは竜巻を収めて、黒板に平易な式をまた一つ書いた――r=aθ
「アルキメデスの螺旋、と呼ばれる式です。θが増えるとrも増える、つまり回転を与えると中心からの距離も離れていく――つまりこのような簡潔な式で螺旋状の術式が得られます。aの値を変えることで螺旋の間隔も変えることができます」
ここで三列目の女子生徒が手を挙げた。
「先生、これは平面での話ですが竜巻は空間です。ここからもう一つ操作が必要ですか」
ここでシェリルはその生徒のことを、少しだけ緩んだ表情で見た。
「とても良い問いです。熟練者であればここから上空方向への設計も記述できます。ただし螺旋を設計できるような術者は、その螺旋を算術を使わずとも上空方向へ感覚・イメージで展開出来ると思います。算術で記述すればより安定しますが難易度は非常に高い。あるところまで算術で記述して、あるところからは術者のイメージに制御を移す、というのはとても実戦的な手法です」
その女子生徒は熱心に聞いている。純粋算術の講義も受けているが、皆が知りたいのは魔法への応用だ。
シェリルは続けた。
「それと、もう一つ補足します。螺旋にもいくつか種類があります。今日扱ったアルキメデスの螺旋は、間隔が常に一定という性質を持ちます。竜巻のように広い範囲へ均等に力を及ぼす場合には、これが向いています。ただ、風を発生させて自身でそれに乗って移動する。場合によっては相手との間合いを詰めるような動きには、また別の性質を持つ螺旋の方が適しています」
――いやはや、全く俺は算術を噛んでないからほぼ分からんかったが、それでも魔法で使っている言葉が所々出てくる。次代の術者は一層手ごわくなるな。
後ろの方でシェリルの様子を見ていたベルナルトが講義終了と共に立ち上がり、感心した様子でシェリルを一瞥した。シェリルもそれに気が付き、軽く一礼した。
――
講義時間後、希望者は魔法師団の訓練場へ行きシェリルの本格的な実演に沸いた。
対数螺旋術式で風を起こし、その風に乗って相手との間合いを一気に詰める技だ。
掛かり始めは高速・広範囲で動き相手を翻弄、相手の懐に入り込むところで軌跡が密となり、正確な位置に着地する。
「ひえっ……」
男子生徒を奥に立たせて、その風の術で見えない角度から一気に間合いを詰める。それも至近距離。
「対数螺旋は接触角が一定です。これだけ高速で動いても姿勢が安定するということで、自身を風に乗せるという動作に相性が良いのです」
講義と実演が終わりシェリルが一息つく。講義前にドラウから「魔法算術論・初等編」が書店に並んだという話を聞いた。
手応えは上々、さらに増刷の手配も進めるということだ。
論文と違って、書籍ということになるとまた、読者の受け止め方も様々であろう
不安も多々あったが、満足そうな表情がどこか滲み出る。
夕刻、広場ですれ違う者から声が聞こえてくる。
「……あの歳で、講義まで持つなんて」
「特級だかなんだか知らないが、調子に乗ってないか」
「複素数まで持ち出して、ついていけるわけないだろ……」
声は、決して大きくはなかった。だが、聞こえないわけではなかった。
シェリルは、足を止めなかった。表情も変えなかった。
――事実なので。
新しいものが広がるとき、それを快く思わない者がいるのは当然のことだ。それは出版社への放火のあった夜にも確認したこと。気にしたところで、何かが変わるわけではない。
魔法算術論は、すでに師団の中で、爆発的に広がっていた。入門書が市場に出れば、その広がりは、リーヴィンの外にも及ぶだろう。エレシア国内の他の都市、そして――おそらくは、周辺国にも。
知は独占しない。
それはシェリルが選んだ道だった。自分が組み上げた理論が自分の知らないところで、誰かに研究され応用され、形を変えていく。
それでいい、とシェリルは思っていた。理論は、誰のものでもない。広がってこそ、意味がある。
むしろ国によってはその理論を他に流出させず、理論を国で独占し、挙句の果てにはその理論を組み上げた個人の功績を無かったことにする――このようなことが平気でまかり通ることさえある。
この国の懐の広さにシェリルは感謝していた。
が、やはり嫉妬なんていうのは何処にでもあるものだ、とも感じていた。
王宮の敷地を出て、いくつかの通りを過ぎ、宿への近道になる路地に入った。
その時――魔力の気配が、四方から動いた。
次の瞬間、四つの斬撃の軌跡が、シェリルに向かって走った。建物の屋根から、路地の両側から――死角を潰すように、計算された角度だった。
刃が、シェリルの体に届く――はずだった。
だが、何も起こらなかった。
四つの軌跡は、シェリルの体に触れる直前で、それぞれ別の方向へ逸れていった。一つは壁に、一つは地面に、残り二つは、互いを避けるように軌道を変えて、空を切った。
……もしかして、放火と同じ者?
犯人が捕まったとは聞いていない。だが、あの放火は、魔法ではなく油を使ったものだった。魔力の痕跡を残さずに燃やす――もし、魔法師団の中の誰かがやっているのなら、卑怯な話だ。シェリルも、師団に誰がいるかまでは、すべて把握しているわけではない。
そう考えている間に、今度は、さっきよりも大きな斬撃が一本、闇の中から走った。
同時に、頭上で空気が震えた。
雲もない夜空に、雷が落ちる。
――私を、殺したくて仕方がないのか。
しかし――全て、丸見えだった。
シェリルは術者の位置を瞬時に特定した。
指先から風の糸が走る。斬撃と雷を何の問題もなくやり過ごしながら――術者を、糸で縛り上げる。
斬撃と雷が空を切ってから、術者が縛られるまで、〇・五秒もかからなかった。
宙に浮かされた人影が、もがいた。
「――っ、なんで……!」
声は、悲鳴のようだった。
「なんで、当たらないの! どうして、いつもあなたばっかり――!」
女の声には、怒りと、それ以上の何かが滲んでいた。
「私だって、ずっと努力してきた! クラス7まで上がるのに、何年もかかった! それなのに――あなたは、二十二歳で特級だなんて、ふざけてる! 講義まで持って、出版までして、みんなに褒められて――!」
シェリルは、宙に浮かされたままの女を見上げた。
若い。自分と同じくらいの年齢だった。魔法師団の制服を着ている。襟元のリボンの大きさから、中級。色は紫――クラスは七か八。
たしかに、術式展開を始めてからシェリルに届くまで、速さはあった。実力はある。
――それなのに、愚かなものだ。
シェリルは、女の下まで歩いていった。
話は、聞かなかった。
女の叫びはまだ続いていた。発狂した猫のようにシェリルには聞こえた。
風の糸でコントロールを保ったまま、シェリルは女を引き連れて、魔法師団の建物へ向かった。
犯人は、これから、晒し者になる。
魔法師団の建物に入ると、特に表情も変えずシェリルはまっすぐ、ベルナルトの執務室へ向かった。
風の糸で縛られたままの女を連れて、扉を開ける。
「シェリルさん――」ベルナルトは、机から顔を上げて、すぐに立ち上がった。「これは――」
シェリルが魔法で女を拘束している様子、どう見てもただ事ではなかった。
「路地で、襲われました」シェリルは、淡々と言った。「斬撃を四回、その後に雷を一回。術者は、この人です」
ベルナルトは、宙に浮かされた女の顔を見た。表情が、わずかに固まった。
「お前――」
女は、何も答えなかった。視線を逸らし、唇を強く結んでいる。
「先日の、火事のことについても」シェリルは続けた。「もしかしたら、関係があるかもしれません」
ベルナルトの顔が、一段引き締まった。そして汚らしいものを見るような目で言った。
「すぐに、尋問の準備をする」
最初、女はしらを切った。襲撃については、何も知らない、誤解だ、と繰り返した。火事についても、関係ない、と言い張った。
だが、尋問が進むにつれて、女の口調は、徐々に変わっていった。
風の糸で縛られた瞬間の、抵抗できない無力さ。最初から全てを見られていた、という事実。そういったものが、女の中の何かを、少しずつ崩していった。
その後、女は放火についても認めた。
「……あの夜、油を撒いた。魔力じゃ、跡が残るから」
女の声は、低く、それでいて、まだ熱を持っていた。
「あんな理論が広まったら、今までの修練が、全部無意味になる」女は、シェリルを見た。「『誰でも簡単に強くなれる』なんて、ふざけてる。私たちが、何年もかけて積んできたものが――」
――あぁ、やはり誤解されている。
シェリルは一歩前に進んだ。
「魔法算術論は、誰でも簡単に強くなれる、という理論ではありません」シェリルは、続けた。「今、その人が持っている魔力を、無駄なく使う――余計な消費を削ぎ落として、効率を上げる。それと、もう一つ。その日の精神状態に、結果が左右されないようにすること。それが、この理論の根底にあるものです」
女は、シェリルを見たまま動かない。嘘だ、と言わんばかりの表情。
「強さが、誰かから奪われるものでもありません」シェリルは言った。「ただ、今より、少し無駄が減る。それだけのことです」
女は、視線を逸らした。謝罪の言葉は、最後まで出てこなかった。
放火、そして殺人未遂――二つの容疑で女は後日、師団内の審判にかけられることになる。




