六 異国の男
初出勤の日。
宿の部屋には、仕立て上がった三着のドレスが並んでいた。
深紅のドレス。紅淑館で着ていたものに近い色合いで、袖と裾に金の刺繍が入っている。
水色のドレス。胸元が大きく開いていて、肩から鎖骨まで、ほとんど隠すものがない。
そして、緑のドレス。体の線に沿うように仕立てられていて、腰から脚にかけてのラインが、はっきりと出る作りになっている。
「どれにする?」
ラフィスが、ベッドに腰かけながら聞いた。
シェリルは椅子に座って難しそうな本を読んでいた。二人とも、アノリスが今日から月華亭で働くことは知っている。
「うーん」
アノリスは、三着を順番に手に取って、自分の体に当ててみた。
深紅は、見慣れた色だった。落ち着くが――今日は、新しい場所に行く日だ。同じ色で行くのは、なんとなく違う気がした。
水色は、思わず笑ってしまった。露出が紅淑館のものより一段上だった。これを着て受付に立つ自分を想像すると、少し気恥ずかしい。
「これは、攻めすぎかな」
最後に、緑のドレスを手に取った。
体の線が、はっきりと出る。胸元の開き方は、水色よりは控えめだが、その分、全体のシルエットで魅せる作りになっている。色も、肌の白さを引き立てる深い緑だった。
――これ、いいかも。
「これにする」
アノリスは、緑のドレスを選んだ。
「いいんじゃないか」とラフィスが言った。
それから、少し間を置いて、「私が男だったら、アノリスとの夜を買うよ」
「ラフィ姉、それ――」
アノリスは、ラフィスの顔を見た。
いつもと同じ、落ち着いた表情だった。冗談なのか、本気なのか、判断がつかない。ラフィスはこういうことを、たまに真顔で言う。
「冗談だよね?」
「さあ」
ラフィスは、それ以上、何も言わなかった。
しかし言われたままでも面白くなかったので、
「でもさ、ラフィ姉がもし男だったら絶対イケメンでしょう。一夜限り……いいかも」
アノリスは、緑のドレスを抱えたまま、自分の胸に手を当て、少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
月華亭の裏口、初めてドアを叩いたときも通ったが、改めて見ると思ったより目立たない場所にあった。表の荘厳さと比べると、不釣り合いなほど小さな扉だ。
「おはようございます」
控室は、いくつかの部屋に分かれていた。受付の控室に向かう途中、セレナが声をかけてきた。
「アノリスさん、来てくれたのね」
「よろしくお願いします」
「まずは着替えてもらって、それから一通り、案内するわ」
セレナに連れられて、案内されたのは、接客側の女性たちが使う控室だった。
「受付の控室は別にあるんだけど、今日は初日だから、こちらで」セレナが言った。「みんなにも、顔を覚えてもらった方がいいでしょう」
控室には、何人かの女性たちがいた。鏡の前で化粧を直す者、ドレスに着替える者。誰もが、慣れた様子で準備を進めていた。
「新しく入った、受付のアノリスさんよ」セレナが、軽く紹介した。
「よろしくー」
「初めまして」
声が、いくつか返ってきた。誰も、特に驚いた様子はない。入れ替わりの多い業界だろうか、新しい人間が入ること自体、珍しくないのだろう。
アノリスは、空いている場所で、緑のドレスに袖を通した。
鏡に映った自分を見る。仕立て屋の腕は、確かに良かった。体に沿う形が、想像していたよりも自然だった。
着替えながら、アノリスは部屋の空気に、何かが足りないことに気づいた。
――香、焚いてない。
紅淑館では、開店前から、控室や客間に独特の香が焚かれていた。媚薬の類が混ざった香だ、というのは、働き始めてすぐにわかった。客にも、働く側にも、ある種の作用がある香だった。
ここには、それがない。
アノリスは、少しだけ、肩の力が抜けるのを感じた。
――よかった。あれ、苦手だったんだよね。
着替えを終えて、受付に立った。
月華亭の営業が始まると、客が次々とやってきた。
馬車で来る者が多かった。仕立てのいい外套、上質な靴。受付で名前を確認すると、聞いたことのある名前もあった。リーヴィンの貴族や、官僚の名前だ。
「いらっしゃいませ」
アノリスは、笑顔で客を迎えた。
最初の数人は、特に問題なかった。指名を伝え、案内する――紅淑館でやっていたことと、大きくは変わらない。
だが、しばらくすると、難しい客も出てきた。
一人は、すでに酒が入っているらしく、声が大きかった。指名していた女性が他の客の対応中だと知ると、不機嫌そうに受付の前で待たされることに苦言を言い始めた。
「待たせるとは、どういうことだ」
「申し訳ございません。今、ご案内できるよう、調整しております。少々、こちらでお待ちいただけますか」
アノリスは、笑顔を保ったまま、声のトーンを少し落として答えた。相手の勢いに合わせず、こちらの調子で話す――紅淑館で身についた感覚だった。
男は、しばらくぶつぶつ言っていたが、最終的には、用意された椅子に座って待つことにした。
もう一人は、口説いてくる客だった。
「君、新人?」男はにやにやしながら、アノリスを見た。「受付なんかより、こっち側に来た方がいいんじゃないか」
「ありがとうございます。ですが、私は受付ですので」
「もったいないなあ」
アノリスは、相手をしながらも、視線をさりげなく外して、次の客に意識を向けた。深く関わらず、かわす――これも、慣れた対応だった。
そんな中、一人の男が、馬車から降りてきた。
歳の頃は、四十代後半から五十代だろうか。仕立てのいい外套を着ているが、どこか着慣れていない印象があった。歩き方や、立ち姿に、エレシアの貴族や官僚とは違う何かがあった。
顔つきも、リーヴィンで見かける人々とは少し違う。異国の雰囲気――そう言われれば、そうとしか言えない、何かがあった。
男は、受付に近づいてきた。
「予約は――していないのだが」男は言った。「今夜、誰か空いている者はいるか」
「お待ちください、確認いたします」
アノリスは、空き状況を確認した。男は、その間、受付の周りをさりげなく見ていた。視線の動きが、少し気になった。
――何を見てるんだろ。
「ちょっとお高いですがリアさんでしたら直ぐにご案内できます。ご予算が限られているというなら、あと三十分ほどでアディナさんもご案内可能です」
アノリスが肖像画付きの娼婦リストを開いて二人を示す。
「リア――」男は、その名前を、一度繰り返した。「では、その者で」
「承知いたしました。少々、お待ちください」
男は、頷いて、待合の椅子に向かった。アノリスは、係の者にリアへの取り次ぎを頼んだ。
男が、料金表に目を通している。リアの指名料を確認しているのだろう。
その額を見ても、男は表情を変えなかった。懐から、迷いなく金を出した。
――金、持ってるなあ。
アノリスは、そう思いながら、男の様子を見送った。
異国の雰囲気を纏った男は、特に怪しい動きをすることもなく、案内の者に連れられて、奥へ向かっていった。
受付の仕事は、ただ案内するだけではなかった。
ホールには、酒や軽食を楽しむためだけに来ている客もいた。月華亭は、女性たちとの夜を買う場所であると同時に、リーヴィンでも一流の高級酒場としての側面も持っている。受付の合間に、アノリスはホールへ酒の追加を運ぶ仕事も兼ねていた。
「お待たせいたしました」
アノリスは、注文されたワインをテーブルに運んだ。
トレイを片手に、ホールを横切ったとき――視界の端に、リアの姿が映った。
リアは、先ほどの異国の雰囲気を纏った男と一緒に、奥の個室へ向かっていくところだった。男の歩調に合わせるように、リアが何かを話しかけている。男は、小さく頷いていた。
二人の姿は、廊下の奥へ消えていった。
この店にいる以上、当たり前の光景だった。指名された客が、女性とともに個室へ向かう――それだけのことだ。アノリスも、何度も見てきた光景だった。
奥の個室で何が話されるのか、何が起こるのか。それは、誰にもわからない。
――闇の中、ってことか。
予約なしで、たまたま空いていたリア。トップ三の一角を、運よく指名できた――男にとっては、それだけのことだったはずだ。
あの男が出した金貨を、アノリスは思い出した。指名料はおそらく金貨十五枚。それに、さらにチップが盛られるはずだ。
――ロズウェルの時とは、金の動き方が違う。
アノリスは、トレイを持ち直して、受付に戻った。
その夜は、特に大きな問題もなく過ぎていった。
深夜近く、リアと過ごした男が、満足した様子で帰っていった。女と過ごした後は他の客に見られるのも気まずいので、個室から専用の出口が用意されているのだが、敢えて堂々と正面玄関から馬車に乗り込む後ろ姿を、アノリスは受付から見送った。
受付の控室で、緑のドレスから旅装に着替える。今日一日が、思ったより長く感じられた。
控室を出て、裏口へ向かう途中――奥の小部屋から、声が聞こえた。
セレナと、リアの声だった。
「――始末、ですか」
セレナの声が、小さく聞こえた。
「ええ。詳しいことは、また後で」リアは、いつもの落ち着いた調子だった。
アノリスは、足を止めた。
始末、という言葉が、少し気味悪く、耳に残った。
詳細はわからない。だが、月華亭という場所では、客との時間の中で、いろいろな話が、女性たちの耳に入ってくるのだろう。悪だくみを引き出すのも、ここで働く女の仕事のひとつなのかもしれない。
それ以上、聞き耳を立てることはしなかった。
静かに、裏口から外へ出た。
――初日、無事に終わった、ってことで、いいのかな。
そんなことを思いながら、アノリスは宿への道を歩き始めた。




