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エーテラリスの薫風 第一部 測れない魔法使い  作者: 裸単騎大佐
第三章 エーテラリス、国を駆ける
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六 異国の男

 初出勤の日。

 宿の部屋には、仕立て上がった三着のドレスが並んでいた。

 深紅のドレス。紅淑館で着ていたものに近い色合いで、袖と裾に金の刺繍が入っている。

 水色のドレス。胸元が大きく開いていて、肩から鎖骨まで、ほとんど隠すものがない。

 そして、緑のドレス。体の線に沿うように仕立てられていて、腰から脚にかけてのラインが、はっきりと出る作りになっている。


「どれにする?」

 ラフィスが、ベッドに腰かけながら聞いた。

 シェリルは椅子に座って難しそうな本を読んでいた。二人とも、アノリスが今日から月華亭で働くことは知っている。

「うーん」

 アノリスは、三着を順番に手に取って、自分の体に当ててみた。

 深紅は、見慣れた色だった。落ち着くが――今日は、新しい場所に行く日だ。同じ色で行くのは、なんとなく違う気がした。

 水色は、思わず笑ってしまった。露出が紅淑館のものより一段上だった。これを着て受付に立つ自分を想像すると、少し気恥ずかしい。

「これは、攻めすぎかな」

 最後に、緑のドレスを手に取った。

 体の線が、はっきりと出る。胸元の開き方は、水色よりは控えめだが、その分、全体のシルエットで魅せる作りになっている。色も、肌の白さを引き立てる深い緑だった。


 ――これ、いいかも。


「これにする」

 アノリスは、緑のドレスを選んだ。

「いいんじゃないか」とラフィスが言った。

 それから、少し間を置いて、「私が男だったら、アノリスとの夜を買うよ」

「ラフィ姉、それ――」

 アノリスは、ラフィスの顔を見た。

 いつもと同じ、落ち着いた表情だった。冗談なのか、本気なのか、判断がつかない。ラフィスはこういうことを、たまに真顔で言う。

「冗談だよね?」

「さあ」

 ラフィスは、それ以上、何も言わなかった。

 しかし言われたままでも面白くなかったので、

「でもさ、ラフィ姉がもし男だったら絶対イケメンでしょう。一夜限り……いいかも」

 アノリスは、緑のドレスを抱えたまま、自分の胸に手を当て、少しだけ頬が熱くなるのを感じた。


 月華亭の裏口、初めてドアを叩いたときも通ったが、改めて見ると思ったより目立たない場所にあった。表の荘厳さと比べると、不釣り合いなほど小さな扉だ。

「おはようございます」

 控室は、いくつかの部屋に分かれていた。受付の控室に向かう途中、セレナが声をかけてきた。

「アノリスさん、来てくれたのね」

「よろしくお願いします」

「まずは着替えてもらって、それから一通り、案内するわ」

 セレナに連れられて、案内されたのは、接客側の女性たちが使う控室だった。

「受付の控室は別にあるんだけど、今日は初日だから、こちらで」セレナが言った。「みんなにも、顔を覚えてもらった方がいいでしょう」

 控室には、何人かの女性たちがいた。鏡の前で化粧を直す者、ドレスに着替える者。誰もが、慣れた様子で準備を進めていた。


「新しく入った、受付のアノリスさんよ」セレナが、軽く紹介した。

「よろしくー」

「初めまして」

 声が、いくつか返ってきた。誰も、特に驚いた様子はない。入れ替わりの多い業界だろうか、新しい人間が入ること自体、珍しくないのだろう。

 アノリスは、空いている場所で、緑のドレスに袖を通した。

 鏡に映った自分を見る。仕立て屋の腕は、確かに良かった。体に沿う形が、想像していたよりも自然だった。

 着替えながら、アノリスは部屋の空気に、何かが足りないことに気づいた。


 ――香、焚いてない。


 紅淑館では、開店前から、控室や客間に独特の香が焚かれていた。媚薬の類が混ざった香だ、というのは、働き始めてすぐにわかった。客にも、働く側にも、ある種の作用がある香だった。

 ここには、それがない。

 アノリスは、少しだけ、肩の力が抜けるのを感じた。

 ――よかった。あれ、苦手だったんだよね。

 着替えを終えて、受付に立った。


 月華亭の営業が始まると、客が次々とやってきた。

 馬車で来る者が多かった。仕立てのいい外套、上質な靴。受付で名前を確認すると、聞いたことのある名前もあった。リーヴィンの貴族や、官僚の名前だ。

「いらっしゃいませ」

 アノリスは、笑顔で客を迎えた。

 最初の数人は、特に問題なかった。指名を伝え、案内する――紅淑館でやっていたことと、大きくは変わらない。

 だが、しばらくすると、難しい客も出てきた。

 一人は、すでに酒が入っているらしく、声が大きかった。指名していた女性が他の客の対応中だと知ると、不機嫌そうに受付の前で待たされることに苦言を言い始めた。

「待たせるとは、どういうことだ」

「申し訳ございません。今、ご案内できるよう、調整しております。少々、こちらでお待ちいただけますか」

 アノリスは、笑顔を保ったまま、声のトーンを少し落として答えた。相手の勢いに合わせず、こちらの調子で話す――紅淑館で身についた感覚だった。

 男は、しばらくぶつぶつ言っていたが、最終的には、用意された椅子に座って待つことにした。


 もう一人は、口説いてくる客だった。

「君、新人?」男はにやにやしながら、アノリスを見た。「受付なんかより、こっち側に来た方がいいんじゃないか」

「ありがとうございます。ですが、私は受付ですので」

「もったいないなあ」

 アノリスは、相手をしながらも、視線をさりげなく外して、次の客に意識を向けた。深く関わらず、かわす――これも、慣れた対応だった。

 そんな中、一人の男が、馬車から降りてきた。


 歳の頃は、四十代後半から五十代だろうか。仕立てのいい外套を着ているが、どこか着慣れていない印象があった。歩き方や、立ち姿に、エレシアの貴族や官僚とは違う何かがあった。

 顔つきも、リーヴィンで見かける人々とは少し違う。異国の雰囲気――そう言われれば、そうとしか言えない、何かがあった。

 男は、受付に近づいてきた。

「予約は――していないのだが」男は言った。「今夜、誰か空いている者はいるか」

「お待ちください、確認いたします」

 アノリスは、空き状況を確認した。男は、その間、受付の周りをさりげなく見ていた。視線の動きが、少し気になった。


 ――何を見てるんだろ。


「ちょっとお高いですがリアさんでしたら直ぐにご案内できます。ご予算が限られているというなら、あと三十分ほどでアディナさんもご案内可能です」

 アノリスが肖像画付きの娼婦リストを開いて二人を示す。

「リア――」男は、その名前を、一度繰り返した。「では、その者で」

「承知いたしました。少々、お待ちください」

 男は、頷いて、待合の椅子に向かった。アノリスは、係の者にリアへの取り次ぎを頼んだ。

 男が、料金表に目を通している。リアの指名料を確認しているのだろう。

 その額を見ても、男は表情を変えなかった。懐から、迷いなく金を出した。

 ――金、持ってるなあ。

 アノリスは、そう思いながら、男の様子を見送った。

 異国の雰囲気を纏った男は、特に怪しい動きをすることもなく、案内の者に連れられて、奥へ向かっていった。


 受付の仕事は、ただ案内するだけではなかった。

 ホールには、酒や軽食を楽しむためだけに来ている客もいた。月華亭は、女性たちとの夜を買う場所であると同時に、リーヴィンでも一流の高級酒場としての側面も持っている。受付の合間に、アノリスはホールへ酒の追加を運ぶ仕事も兼ねていた。

「お待たせいたしました」

 アノリスは、注文されたワインをテーブルに運んだ。

 トレイを片手に、ホールを横切ったとき――視界の端に、リアの姿が映った。

 リアは、先ほどの異国の雰囲気を纏った男と一緒に、奥の個室へ向かっていくところだった。男の歩調に合わせるように、リアが何かを話しかけている。男は、小さく頷いていた。

 二人の姿は、廊下の奥へ消えていった。

 この店にいる以上、当たり前の光景だった。指名された客が、女性とともに個室へ向かう――それだけのことだ。アノリスも、何度も見てきた光景だった。

 奥の個室で何が話されるのか、何が起こるのか。それは、誰にもわからない。


 ――闇の中、ってことか。


 予約なしで、たまたま空いていたリア。トップ三の一角を、運よく指名できた――男にとっては、それだけのことだったはずだ。

 あの男が出した金貨を、アノリスは思い出した。指名料はおそらく金貨十五枚。それに、さらにチップが盛られるはずだ。

 ――ロズウェルの時とは、金の動き方が違う。

 アノリスは、トレイを持ち直して、受付に戻った。


 その夜は、特に大きな問題もなく過ぎていった。

 深夜近く、リアと過ごした男が、満足した様子で帰っていった。女と過ごした後は他の客に見られるのも気まずいので、個室から専用の出口が用意されているのだが、敢えて堂々と正面玄関から馬車に乗り込む後ろ姿を、アノリスは受付から見送った。


 受付の控室で、緑のドレスから旅装に着替える。今日一日が、思ったより長く感じられた。

 控室を出て、裏口へ向かう途中――奥の小部屋から、声が聞こえた。

 セレナと、リアの声だった。

「――始末、ですか」

 セレナの声が、小さく聞こえた。

「ええ。詳しいことは、また後で」リアは、いつもの落ち着いた調子だった。


 アノリスは、足を止めた。

 始末、という言葉が、少し気味悪く、耳に残った。

 詳細はわからない。だが、月華亭という場所では、客との時間の中で、いろいろな話が、女性たちの耳に入ってくるのだろう。悪だくみを引き出すのも、ここで働く女の仕事のひとつなのかもしれない。

 それ以上、聞き耳を立てることはしなかった。

 静かに、裏口から外へ出た。

 ――初日、無事に終わった、ってことで、いいのかな。

 そんなことを思いながら、アノリスは宿への道を歩き始めた。


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