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エーテラリスの薫風 第一部 測れない魔法使い  作者: 裸単騎大佐
第三章 エーテラリス、国を駆ける
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五 私憤

 十六年前に滅亡したカリティスディア王家の生き残りが、リーヴィン王都騎士団にやってきた――

 その報せは瞬く間にひろがり、宮中は騒然となった。

 訓練場に居た者は、ラフィスのことを「殿下」と呼び、その日のうちに国王との謁見の場が設けられた。

 その中で、ラフィスを将軍級の待遇として騎士団に迎えることも提案された。


 だが、ラフィスは旅人の身分だ、今のところは。

 今は九月。三月の末には大陸最北端・ドルヴェナ岬へ居ることになっている。

 今のところはここに留まる意思は無い、ということを伝えた結果、客員扱いの小隊長という身分で落ち着くこととなった。


「私は、もうすでに存在しない国の者です」

 エレシアとカリティスディアは友好国であった故に、私が生きていたことを知った想いも特別だろう――と理解を示しつつも、やはり「殿下」と呼ばれるのは少々抵抗があった。


――


 入門書の出版準備は、思ったより早く進んでいた。

 ドラウの仕事は早かった。原稿の確認、図版の調整、装丁の相談――シェリルは、週に何度かグラフェル堂に通い、原稿を読み合わせる作業を続けていた。

「この章の説明、もう少し噛み砕いた方がいいかもしれません」とドラウは言った。「読者は、算術に触れたことがない人も多いので」

「わかりました。書き直します」

 シェリルは、原稿の該当箇所に目を通す。一次関数の説明部分、魔力の消費量と時間の関係をグラフで表す――算術を先に習得している者にとっては最も基本的で平易な部分であったが、場合によっては魔法で初めて算術に触れる読者を振り落としてしまえば、後の内容が意味をなさなくなる。


 この本の最後の章は、積分と微分にあてている。

 魔力の変化を時間で積み重ねて消費した魔力の総量を求めるのが積分、瞬間的な魔力の変化を見て威力を制御する考えを与えるのが微分、その――初等編の核心部分だった。

 原稿の修正と並行して、講義の準備も進めていた。ベルナルトの依頼通り、魔法師団内で週に二回、講義を行うことになっていた。一回は初学者向け、もう一回は既に算術に触れたことがある者向け、すでに二度、講義を終えている。


「先生」という呼び方には、まだ慣れない。

 講義が終わると、何人かの団員が質問に来る。中には、自分で算術を学び始めて、わからない部分を聞きに来る者もいた。

「先生、この――積分というやつなんですが」一人の団員が、ノートを見せながら聞いてきた。「魔力の消費量を積み重ねていく、というのは理解できるんですが、これがどう『使える』のか、まだ実感が――」

「実感、ですね」シェリルは少し考えた。

「たとえば、長時間の維持魔法を組むとき。今までは、感覚で『そろそろ切れそうだ』と判断していたと思います。それを消費量の積み重ねとして、事前に予測できるようになる――というのが、積分の使い方の一つです」

「予測……」

「事実なので」

 団員は、少し考えてから、納得したように頷いた。こういう反応には、もう何度も出会っていた。最初は抽象的に聞こえても、具体的な場面に結びつくと、理解が一段深くなる。


 その日も、講義を終えて、グラフェル堂へ向かった。

 ドラウとの打ち合わせは、出版に向けて最終段階に入っていた。表紙のデザイン、タイトルの確定、初版の部数――細かい部分が、一つ一つ決まっていく。

「タイトルは、これで決定でいいですか」ドラウが、表紙の試作を見せた。「『魔法算術論 初等編――魔力を測るということ』」

 シェリルの表情が少し緩んだ。自分の著作がこうやって形になっていく喜びを感じる。

「いいと思います」

「初版は、千部で考えています。師団内での評判もありますし、これ以上に増える可能性もあるので、増刷の準備もしておきます」

 千部、という数字に、シェリルは少し驚いた。論文を協会に提出したときは、読者の数を意識することはなかった。だが、入門書という形を取ることで、初めて「広く読まれる」という実感が出てきた。

「それと――」ドラウは、少し声を落とした。「初等編の評判次第ですが、中級編、上級編という形で、続けて出していただくことも、考えていただけませんか。今の段階で、お話だけでも」

「中級編、ですか」

「算術分野ですと、三角関数や指数関数あたりまで含めた内容です。この辺りの関数と魔法を結びつける、あなた様の論文も読んだことがあります。初等編で微分積分まで学んだ読者が、次に求めるものになると思います」

 シェリルは、少し考えた。その論文は学会に登録してから最初の方に出したものだ。今考えれば少し拙い部分もあったかも知れないが、目の前に居る編集者に読まれている事実に、少々身が引き締まる思いだ。

 初等編はまだ出版されていない。それでも、もう次の話が出てくる――展開の速さに、少し戸惑いはあった。だが、悪い話ではない。

「考えておきます」とシェリルは言った。

「ありがとうございます。焦らせるつもりはありませんので」

 ――たくさんの人に、届けばいい。

 シェリルは、そう思った。


 その夜。

「火事だ! 火事だぞ!」

 最初に気づいたのは、近くに住む老婆だった。寝つけずに外の空気を入れようと窓を開けたとき、煙の匂いに気づいた。

 グラフェル堂から程近い裏通りで、火の手が上がった。

「あわわわわ……大変だ!火事だ!」

 老婆の声が、夜の通りに響いた。

 火元は、空き家になっていた建物だった。グラフェル堂の裏口から、十数歩ほどの距離しかない。

 窓から、すでに赤い光が漏れていた。

「グラフェル堂が――!」

 近隣の住民たちが、次々と家から出てきた。誰かが、井戸へ走った。誰かが、近くの店から水の入った桶をかき集めてきた。

「風が出てきてる! このままじゃ隣に――!」

 火は、空き家の壁を這うように広がっていた。木の窓枠が、ぱちぱちと音を立てて燃えている。黒い煙が、夜空に向かって立ち上っていった。

「グラフェル堂の本は――! 中に人は!」

 グラフェル堂の従業員の一人が、店の方へ駆けていった。住民の何人かが、店の裏手に回り、燃えている空き家とグラフェル堂の壁の間に、水をかけ始めた。

「早く、火が回る前に――!」

 怒号と水音が、入り混じった。子供を抱いて避難する家族もいた。誰かが、消火を手伝う者を呼び集める声を上げていた。


 幸い、風はそれ以上強くならなかった。

 住民たちの消火活動が、功を奏した。また、魔法師団からも応援が来て、半刻ほどで火はようやく勢いを失い、消し止められた。

 空き家は、半分以上が焼け落ちていた。だが、グラフェル堂には火の手は及ばなかった。店舗も、保管されていた原稿も、無事だった。

 ただ、火元の周辺からは、不審な点が見つかった。

 焼け跡から、油のような匂いがした、という証言があった。空き家には、燃えるようなものはほとんどなかったはずだ、と近隣の住民は言った。

 火が上がる少し前――空き家の方向から、足早に立ち去る人物を見た、という証言もあった。魔法師団の制服を着ていた、という話だった。


 翌日、その話は、シェリルの耳にも入った。

 ベルナルトが、直接、グラフェル堂を訪ねてきた。表情が、いつもより硬かった。

「シェリルさん。お伝えしておきたいことがあります」

「何でしょうか」

「昨夜、この近くで火事がありました。グラフェル堂には被害はありませんでしたが――出火の状況に、不審な点があります」

 シェリルは、ベルナルトの顔を見た。

「火元の周辺から、油の匂いがしたという証言があります。それと――魔法師団の制服を着た人物が、現場から立ち去るのを見た、という証言も」

 ベルナルトは、慎重に言葉を選んでいるようだった。

 そして、

「あなたの出版に、悪意を持つ者がいるという話は――正直なところ、聞いたことがあります」

 シェリルは表情を変えずに、ベルナルトの声を聞いた。

「悪意、ですか」

「論文が話題になってから、師団の中には、独学で算術を学ぶ者が増えました。ですが――それを快く思わない者も、一定数います」ベルナルトは、少し言葉を切った。「『あんなものは邪道だ』『魔法はあんなものでは記述できない』――そういう声を、私自身、耳にしたことがあります」

 シェリルは、その言葉を、静かに受け止めた。

 驚きはなかった。新しいものが広がるとき、それを快く思わない者がいるのは、当然のことだ。

 ただ、それが――火を放つという形で表れたかもしれない、ということには、少し別の感情があった。

「あなたの身には、これから何も起きないとは言い切れません」ベルナルトは続けた。


 ――出版を喜びながら、なんて無責任なことを言っているんだ俺は。


「ありがとうございます」とシェリルは言った。「気にかけていただいて」

 ベルナルトは、小さく頭を下げて、出版社を出ていった。

 シェリルは、原稿の束に目を落とした。

 千部の本が、これから世に出ていく。それを快く思う人もいれば、思わない人もいる。当然のことだ、と頭ではわかっていた。

 ただ、これまでは、その「思わない人」の存在が、こんなに具体的な形で――火という形で、近くに来ることはなかった。


 ――事実なので。


 シェリルは、小さくその言葉を口にした。何かを確認するような、自分に言い聞かせるような言葉だった。

 知識を広めることに、迷いはない。だが、その代償の輪郭が、少しだけ見えた夜だった。


――


 その頃、コルトラン大陸と海を隔てて北、ヴォルテナ帝国。

 陸軍省の一室で、ヴァッサン・オークロスは、報告書を読んでいた。


 五十歳。陸軍省の司令官の一人で、現場叩き上げの軍人だった。直情的な性格で、回りくどい話を好まない。

 報告書には、エレシア王国の王都リーヴィンで起きていることが書かれていた。


『――エーテラリスと名乗る魔法研究者により、魔力消費を算術的に定式化し、運用効率を高める理論が発表され、王都魔法師団内で広く受け入れられつつある。同理論は、近く一般向けの入門書としても出版される予定――』


 ヴァッサンは、報告書を机に叩きつけた。

「算術だと?」

 部屋にいた部下が、肩を震わせた。

「魔力の消費を、算術で定式化する……だと?」ヴァッサンは、報告書を睨みつけた。「これがどこに行き着くか、わかっているのか」

「司令官――」

「効率化、効率化と聞こえはいいが」ヴァッサンは、立ち上がった。「こういうものは、必ず魔法省の連中が拾う。連中は、こういう『新しい理論』に飛びつくのが大好きだ」

 ヴァッサンは思わず椅子から立ち上がり、落ち着き無さげに司令官室を歩き回り始めた。

「ですが、まだエレシアの話で――」

「エレシアの話で終わるか? こういうものは、すぐに国境を越える」ヴァッサンは、低い声で言った。「魔法省の連中が、これを基に研究を重ねる。効率がいい、便利だ、と言って取り入れる。そうなれば――あいつらは、また図に乗るぞ」

 部下は、何も言わなかった。

「魔法省は、これを『興味深い研究』だと言っているそうだな」ヴァッサンは、報告書を指で叩いた。「興味深い、で終わらせるな。内容なんぞどうでもいい。あいつらに渡る前に、こちらで食い止める」

「司令官――?」

 ヴァッサンは、報告書を握りつぶした。

「作者を見つけて、始末するべきだ」


 部下は、息を呑んだ。

 帝国の陸軍省と魔法省は古くから犬猿の仲であった。

 相手に有利な話が入るたびに、その相手を陥れようとする力学が働く。

「エーテラリス、というのは何者だ。詳しい情報は」

「エレシア王都魔法師団に在籍する、研究者だということまでは確認しています。年齢や経歴については――まだ、詳細は不明です」

「調べろ」ヴァッサンは言った。「居場所がわかったら、すぐに動かせるようにしておけ」

「承知しました」

 ヴァッサンは、握りつぶした報告書を、机に投げ置いた。

 窓の外、帝都の空は、灰色の雲に覆われていた。

 ――算術。

 ヴァッサンは、その言葉を、もう一度、口の中で繰り返した。

 まだ、何も始まっていない。

 だが、ヴァッサンの中では、魔法省への苛立ちと、ある一つの結論が、すでに固まり始めていた。


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