一 露見
出版社「グラフェル堂」は、リーヴィン中央通りから一本入った場所にあった。看板は古びていたが、石造りの立派な佇まいをしていた。
大陸魔法協会への論文提出窓口を兼ねているとロズウェルで聞いた覚えがある。
シェリルは扉を開けた。
「いらっしゃいませ」
受付の男が顔を上げた。三十代後半、眼鏡をかけている。
「すみません、出版の相談をしたいのですが」とシェリルは言った。「算術の入門書のようなものを、考えていて」
「算術の入門書、ですか。専門の編集者に取り次ぎますので、少々お待ちください」
男は奥へ下がった。しばらくして、別の男を連れて戻ってきた。五十代、痩せ型、白髪が交じっている。
「お待たせしました。編集のドラウと申します。算術関連の――」
言いながら、ドラウはシェリルの手元の紙束に目を落とした。それから顔を上げた。
魔法算術論と書いてある。こんな研究している者は一人しか知らない。
ドラウは眼前の女を見た。そしてもう一度、ゆっくりを紙束に視線を移す。
「失礼ですが、お名前を伺っても」
「シェリル・アリアシストです」
ドラウの動きが止まった。
「エーテラリス……というのは、ご存知ですか」
「私です」とシェリルは言った。「事実なので」
ドラウの手が少し震えていた。
そして、たまたま手に持っていたものを拡げた。
「これは――あなた様の論文『召喚魔法と微分方程式の可能性』の写しです。大陸魔法協会から、関連資料として送られてきました。実は、つい先日も別件でこの論文の話が出たところで」
「別件、ですか」
「最近、魔法師団内部でこの論文が話題になっているそうで――いえ、話題というより、ちょっとした騒ぎになっているとか」
シェリルは小さく目を細めた。話題になっていることは知らなかった。論文は協会に提出した時点で公開扱いになる。読まれること自体は想定していた。
ただ「騒ぎ」という言葉には、想定していなかった速度を感じた。
瞬間、或いは限定的な時間の動きで記述できる通常魔法に対して、召喚が成立している間の魔力の変化や召喚対象の顕現度を記述する際に、連続的な時間変化を扱う微分方程式を用いることが出来ないか、という発想でシェリルが書いたものだ。
その発想は召喚魔法の使い手にとどまらずに、各方面で応用が利かないかと注目されているんだとか。
「それで、入門書の出版について、相談したいのですが」とシェリルは続けた。「召喚魔法の論文とは別のものを考えています。算術を魔法に結びつける考えそのものを、初めて学ぶ人向けに――基礎から、体系立てて」
「もちろんです、もちろんです。ただ――少々お時間をいただけますか。ご紹介したい方がいます。当社の読者でもある方で、たまたま本日こちらにいらっしゃっているのですが」
と言ってドラウが一旦奥の扉を開けてその場を離れた。
数分後、ドラウが一人の男を伴って戻ってきた。四十代、仕立てのいい外套を着ているが、どこか軍人らしい歩き方をしている。
「ベルナルト・ライアス。リーヴィン王都魔法師団、副団長を務めております」
「シェリル・アリアシストです」とシェリルは言った。
「エーテラリス――その論文の」ベルナルトの目が、紙束とシェリルの間を往復した。「お会いできて光栄です。実は、団長のアルヴァンも論文を取り寄せて読んでいまして」
シェリルは少し意外そうな顔をした。
論文が大陸魔法協会の窓口を通って一般の研究者に届くことはあっても、王都魔法師団の師団長が個人的に目を通すというのは、想定よりも大きな反応だった。
「魔力の制御を、算術で記述するという考え方が――」ベルナルトは言葉を選んでいるようだった。「私のような実戦畑の者には、新鮮でした。召喚事故への応用というのは理論としては理解できても、実際に――」
ベルナルトが、ふと言葉を止めた。
「実際に、何でしょうか」とシェリルは続きを促した。
「いえ。失礼しました」ベルナルトは小さく首を振った。
しかし、やはりベルナルトには引っ掛かることがあった。先日の召喚事故だ。
ベルナルト、少し黙った後、意を決したように口を開いた。
「リドリウスの方には、行かれたことは?」
ドラウが少し驚いた顔をした。話の流れが急に変わったように見えたのだろう。
だがシェリルは、ベルナルトの目の動きに気づいていた。一瞬だけ、確かめるような色があった。
シェリルは少し考えた。隠す理由はもうない、と思った。
あの夜のことは、いずれ誰かに辿られる。それなら、自分から言う方が早い。
「行きました」とシェリルは言った。「先月。召喚事故があって」
「その事故を――」
「鎮めました。私が」
部屋が静かになった。
ベルナルト、あの夜のことを思い出す。
「やはり」が大半だったが、「まさか」も残っていた。
あの時見た周辺の魔力の残滓、そして変質した地表の草の様子。
これで全て説明がつく。しかし、その手法は説明が付かない。確か論文に書かれていた気がするのだが、恐らく説明されても理解できない。
ただ何を言い出すか、という興味だけが先に出た。
「鎮めた、というのは――どうやって、ですか」
あの規模の召喚暴走を、外部から、術者なしで止める方法など聞いたことがない。
対話で退去させるのでなければ、できることはほとんどないはずだった。
「位相空間の中で、顕現を一点に潰す写像を構成しました」とシェリルは言った。「使い魔が顕現している空間を、収縮写像で縮小していく――空間そのものの大きさを、算術的に小さくしていく方法です」
ベルナルトは黙っていた。理解しようとしている顔だった。だがやはり、理解には届いていない顔でもあった。
「位相空間、写像――」ベルナルトは小さく繰り返した。「申し訳ありません、専門的すぎて――術者がいない状態で、そんなことが可能なのですか」
「可能です。理論上は、ですが」シェリルは続けた。
「使い魔の顕現は、空間の中での写像として記述できます。その写像を、別の写像に置き換える――術者の魔力ではなく、外部から構成した術式で、空間の方を動かすという考え方です」
ベルナルトは、机に置かれた紙束の表紙を見た。それからシェリルを見た。
わからない、という顔だった。だが、わからないことが、むしろ事の大きさを物語っていた。専門用語の意味はわからなくても、自分が知らない領域の話だということだけは、はっきりとわかった。
ドラウは、机上に置かれた紙束――召喚魔法と微分方程式の可能性――を引っ込めた。
代わりにシェリルが持参していた紙束――魔法算術論 初等編――を広げた。
「失礼ながら――あなたの等級は」
「特級です」
ドラウが小さく息を呑む音がした。
「世界に、何人もいない――」ベルナルトは言葉を切った。それから、急に何かに気づいたような顔になった。「二十四年前に引退された方の後、新しい特級が――」
「私が最初かどうかは知りません」とシェリルは言った。「ただ、今のところ確認されている特級は私だけだと思います。少なくとも、私はそう聞いています」
ベルナルトは紙束に視線を落とした。表紙には「エーテラリス シェリル・アリアシスト」と記されている。理論として読んでいたものの裏に、こういう人間がいたのか、という驚きが顔に出ていた。
それから、ベルナルトの表情が変わった。驚いてばかりではだめだろう、本当のところ「特級」というのは自分でもよく分かっていない――
「シェリルさん」ベルナルトは一歩、さらに距離を詰めた。「単刀直入に伺います。講義をしていただくことは、可能ですか」
「講義、ですか」
シェリル、ロズウェルでは探していたものの全く需要が無かった講義という話。
「魔法算術論。皆、もっと知りたいと言っています。師団内にも、独学で算術を勉強し始めた者が出てきている。ですが体系的に教えられる人間がいない。あなたご本人から、直接――」
「急ですね」とシェリルは言った。
「急で申し訳ありません。ですが、できるなら明日からでも」
シェリルは少し驚いた。年齢のことを聞かれていない、と思った。
普通なら、まず聞かれることだ。二十二歳の人間が、世界に何人もいない最高位だと名乗って、それを誰も疑問にしていない。
ベルナルトの中では、もうそこは終わった話のようだった。論文の質と、リドリウスでの実証。それだけで――という顔をしていた。
「考えさせてください」とシェリルは言った。「王都に来てからまだ時間が全然経っていません」
「もちろんです。ただ――」ベルナルトはドラウの方を向いた。「ドラウさん、入門書の件は、できるだけ早く進めていただけますか。これだけの内容を、世に出すのを遅らせる理由はないと思います」
「は、はい。すぐに編集部に話を――」
ドラウは机上の紙束を抱え、奥へ駆けていった。
ベルナルトはシェリルに向き直った。
「本来であれば、師団にお迎えしたい――というのが、正直なところです」と彼は言った。「ですが、街に着いたばかりの旅人に、それを求めるのは失礼でしょう。今すぐ何かを決めていただく必要はありません。悪いようにはしませんので」
「ありがとうございます」とシェリルは言った。
ベルナルトは小さく頭を下げた。それ以上は何も言わなかった。
ただ、その目には、もう一つの色があった。
これだけ若くて、これだけ突出した人間が、護衛もつけずに街を歩いている。論文を読んだ者の中には、純粋な興奮だけでなく、別の感情を抱く者もいるだろう。嫉妬という感情は、時に理屈を超える。
いずれは王宮内で、目の届く場所に置いた方が安全かもしれない。
いや――王宮の中にも、同じ種類の人間はいる。
どこに置いても、安全とは言い切れない。それだけ、この娘は特別なのだ。
ベルナルトは、その考えを口にはしなかった。
「改めて、ご挨拶を」とベルナルトは言った。「リーヴィンに来られたばかりだと思いますが、何か困ったことがあれば、魔法師団に声をかけてください」
その言葉に、シェリルは小さく頷いた。
自分のことが論文を通してこれほど早く広がるとは思っていなかったと驚く一方、旅してきた中でこれほど学問に開かれた街も、無かったように思えた。
分からない者が、分からないものに手を出し、分からないと言う。至極当然のことだ。
人として問われるのは、分からないものに接した時にどうするか――ベルナルトは少なくとも現時点では信頼のおける人物だと、シェリルは直感していた。




