issue#06 I I I Little Talks CHAPTER 04 18
そして――はちるの前で、立ち止まった。
はちるは、立ったままだった。かろうじて、立っているだけだった。膝は笑い、目は充血し、
唇が痙攣のように細かく動いている。頭の上では、あの誇り高い獣の耳が、ぺたりと伏せられていた。
「ママ……」
「ん?どうしたんじゃ、お嬢さん。この子が気になるか?」
尊ははちるの顔を見上げ、にっこりと笑った。そして――はちるの腕を取り、ぐいと引き寄せた。
「ほれ。抱いてみるか? ちぃとだけじゃぞ」
尊の両手が、はちるの腕へ「何か」を乗せる動作をした。何もない空間を、
壊れ物を扱う手つきでそっと持ち上げ、移し替える。片方の掌は低く、首のすわらぬ頭を支える位置に。もう片方は、小さな背を受ける角度に。その所作のどこにも、ごっこ遊びの曖昧さはなかった。
はちるの腕の上に、重さのない赤ん坊が託される。
何も乗っていない。それなのにはちるの両腕は、受け取る形に丸まっていた。
断れなかった。ここで腕を開けば、ママが渡した「何か」が落ちる。
たとえ存在しないものであろうと、この腕は、取り落とすことができなかった。
かわりに、はちるの膝がそこで折れた。
ガクンと崩れ、肩がパイプ椅子の脚を跳ね飛ばす。金属の倒れる派手な音が、
静まり返った相談室に響き渡った。誰も椅子を起こさない。当のはちるにさえ、
その衝撃は届いていなかった。
「おっと――」
尊が慌ててしゃがみ込む。膝をついたはちると、そこでようやく目線が揃った。
小さな腕がはちるの首の後ろへ回り、ぐっと引き寄せる。頭を胸に抱え込み、
左右にゆっくりと、揺らし始めた。
遠い昔、夜泣きの赤子をあやすために編み出された――独特の、波のようなリズム。
それを見守る3人の背筋を、覚えのない懐かしさが駆け上がった。物心のつくはるか手前。
記憶と呼べるものが始まるより前に、自分たちの体へ刻まれた揺れ。
頭では誰ひとり思い出せないその律動を、体のほうが、勝手に知っていた。




