issue#06 I I I Little Talks CHAPTER 04 05
だが、奇跡というものは、それがほんの一時だけの現象であるがゆえに――「奇跡」と呼ばれるのだ。
翌朝。
昨日とまったく同じ角度から、無情なほどに爽やかな朝日が尊の寝室へ差し込んでいた。
小ぶりな桐たんすの上には、あの古いアルバム。
台所の水切りカゴには、昨日の茶会で使った5人と1匹ぶんの湯呑みが、まだ伏せられたまま乾いている。
何もかもが、あの奇跡のいちにちの続きが今日も始まることを、疑ってすらいなかった。
「……あのう、どなたか」
1階の廊下。部屋からぶらりと現れた尊の、その瞳を見た瞬間、朝食の盆を運んでいたおせちの足が凍りついた。
光が、消えていた。昨日あれほど鮮やかに輝いていた知性の光が、
ひと晩でぬぐい去られたように、完全に。
目が合う。だが、そこに親愛の情はない。娘の顔を覗き込み返すその眼差しにあるのは、
見知らぬ場所で見知らぬ人間と2人きりになってしまった老人の、怯えの混じった、
遠慮がちな警戒――まったくの、赤の他人の目だった。
そして母は、実の娘に向かって、あくまで丁寧にこう言った。
「……のう、そこのお方。ちと、ものを尋ねてもよろしいかの?ここは……どちら様のお宅じゃろうか。失礼ながらわし、いつ、どうやってこちらへ上がり込んだのか、とんと思い出せませんでのう……。すまんが、わしの家までの道を、調べてはもらえませんかの。住所は……む、住所も、今ちょっと出てこんのじゃが……とにかく、娘が、4人おりまして。今日は誕生日で……はよう帰って来い、と言われておるのです」
『娘が、4人おりまして』――。
その4人のうちの1人が、今、目の前で盆を持ったまま立ち尽くしていることを、彼女は知らない。
帰るべき「わしの家」の畳を、彼女は今まさに踏んでいる。それなのに、記憶の中の間違った誕生日だけが、行き先のない約束として、ほどけた魂の底にぽつんと残っているのだった。
「…………はい。……調べておきますね。それまで、ここで休んでいてください」
声が震えなかったことを、おせちは、我ながら奇跡だと思った。親切な他人のふりをして廊下を辞し、
台所の引き戸を閉め――その戸に背中を預けたまま、彼女はしばらく、その場から動けなかった。
絶望という名の厚い雲が、ふたたび吉濱家を覆い尽くした。
昨日の「別れの挨拶」は、回復などではなかった。消えゆく魂が、最後に残ったすべての力を芯に集めて燃え上がらせた――蝋燭の、最後の灯火。燃え尽きたあとに残されたのは、ただ緩やかに死へと向かっていく、記憶と尊厳を失った抜け殻のような肉体と、果ての見えない介護の日々だけだった。




