issue#06 I I I Little Talks CHAPTER 02 23
あの日のあの診断が下されて以来、吉濱家を満たす空気は重く澱み、
粘り気を帯びたものへと変質してしまった。
朝の食卓には、カチャカチャという食器の触れ合う乾いた音だけが響く。
「……そこの、えーと。……誰じゃったか。醤油を取ってくれ」
尊の視線が、食卓を挟んで向かい合う娘の輪郭を捉えることなく、
虚ろに彷徨う。その視線の先に座っていたのは、はちるだ。
「……ママ?ウチだよ、はちるだよ?」
獣人の娘が、ひきつりそうになる頬を懸命に持ち上げ、
作り笑いを浮かべて母の顔を覗き込む。
「ああ、そうじゃ。……ポチじゃったか」
「違うよ!は・ち・る!」
「……うるさいのう。細かいことはどうでもよい」
尊は不機嫌に吐き捨てると、箸を乱暴に放り出した。彼女は茶碗に残った白米を、
まるで未知の物体でも見るような目つきで凝視している。
その瞳の奥には、米粒という物質の意味すら解せなくなったかのような、深い混迷が渦巻いていた。
言葉が急速にその輪郭を失っていく。かつては神託のごとく明晰だった彼女の口ぶりは、
日を追うごとに濃い霧に覆われ、構成する単語のピースが欠落していった。
愛する娘たちの名前。使い慣れた家電の操作法。昨夜の食事の記憶。
それらがひとつ、またひとつと、脳内にある書架から滑り落ち、音もなく焼け焦げていく。
「これ、お薬だよ。飲んで」
さなが、粉末状に砕いた認知症の進行抑制剤をヨーグルトに混ぜ、スプーンを差し出す。
医師からは気休め程度の効果しかないと告げられていたが、それでも何かに縋らずにはいられなかった。
「……毒見は済ませたのか?」
尊は疑心暗鬼に満ちた眼差しで白い塊の乗ったスプーンを睨みつけ、口を真一文字に結ぶ。
「毒なんか入ってないって。元気になるサプリメントみたいなものだから」
「……ふん」
嫌々ながら口に含んだ瞬間、ただでさえ敵愾心に満ちた尊の相貌が、さらに激しい拒絶の色に染まった。
「ぐえっ!……苦い!貴様ら、やはりわしを毒殺して遺産を狙う気じゃな!」
「ちがうよ!私たちの体には毒は効かないんでしょ?」
「そう……そうじゃった!……しかし、だったら、薬なんてモンもそもそも効かんのじゃ!!
……無駄じゃァ!こんなものぉ!!」
尊は激情に任せて腕を振り、ヨーグルトの入った器を壁へと叩きつける。
白い飛沫が飛び散り、抹茶色の砂壁を汚した。リハビリテーションも、
投薬も、神の肉体には何ひとつ通用しない。彼女の症状は、誰にも止める術を持たぬまま、
急な坂道を転げ落ちるように悪化の一途をたどっていく。




