issue#06 I I I Little Talks CHAPTER 02 15
「ママ、最近ずーっとお寝坊さんだし、起きたと思ったら、すぐパチンコ行っちゃうじゃん。
ご飯の味付けだって、昨日、お塩とお砂糖まちがえてた。……それにさっき、
ウチの名前、『ポチ』って呼んだよ」
はちるは怒っていなかった。怒っていないことが、この場の誰にとってもいちばん怖かった。
彼女は悲しげな瞳のまま、ゆっくりと首を横へ振る。部屋の温度が、すっと下がった気がした。
「……ッ!」
尊の顔から、さぁっと血の気が引いていく。
施錠の忘れ。味覚の取り違え。そして、愛娘の名前の失念。1件なら笑い話で済む。2件なら偶然で押し通せる。だが3件も重なってしまえば――それはもう不注意ではなく、「傾向」だった。
「母ちゃん……なあ、マジでどうしたんだよ?最近、ホントにおかしいぞ」
アシュリーの声から、怒気が抜け落ちていた。怒鳴り声を支えていた燃料が、
途中から不安へ切り替わってしまったような、頼りない響きだった。
「前の母ちゃんなら……こんなミス、ぜったい1個もしなかったって」
「……」
尊は、震える両の掌で自分の顔を覆った。
認めたくない。認めるわけにはいかない。自分は神――この物質世界の経綸を預かる、
管理霊だ。高次の界より遣わされ、肉の衣を持たぬ純粋な霊体のまま、
現世に在ることを特例として許された存在。その自分が、老いさらばえた人間と同じように、
認知の歯車を欠いているなど――。
(……違う。有り得ぬ。じゃが……思い出せぬのじゃ。記憶が、白う濁ったかのように。なぜ施錠を忘れた?なぜ、愛子の名を呼び損ねた?
なぜ、こうまで注意が衰えた?――その時の記憶だけが、ごっそりと、抜け落ちておる……!)
怒りは、恐怖へ蓋をしておくための最後の重しだった。その重しが今、音もなく滑り落ちる。
空いた隙間から、冷え冷えとしたものが、胸の内側へとめどなく流れ込んできた。
「……すまぬ」
その3文字が、今の尊に絞り出せる、精いっぱいのすべてだった。
逆上するための威勢のいい文句も、笑いに逃げるための上手い弁解も、
どこを探しても出てこない。言い終えたあとに残った空白で、
名前のつかない『崩壊』が自分の内側で静かに進んでいる――その事実だけが、
濡れた砂袋のような重さでのしかかってくる。
「…………」
娘たちは、絶句していた。うなだれたその姿のどこにも、威厳に満ちた女神の面影はない。
そこにあるのは、老いと不安に小さくわななく、あまりにも矮小な背中だけだった。
冷めきった茶の面に、うつむいた母の顔が、頼りなく揺れて映っていた。




