第45話 無駄になった和解案
第45話 無駄になった和解案
パパン!
お立ち会い! 組織において最も残酷な瞬間とは、己の命と知恵を絞り出して作り上げた成果物が、理不尽なトップダウンによって一瞬にしてゴミ屑と化す時でございます!
管領・上杉憲実殿が、関東の安寧のために血を吐くような思いで書き上げた、持氏公の『助命嘆願書』。
しかし、京都の足利義教公から届けられたのは、その和解案を完全に無視した、冷酷無比な「皆殺し」の御教書であったのでございます!
……まあ、当時の陣屋の執務室には、破り捨てられた和解案の紙切れが散乱し、憲実殿が怒りと絶望で噛み締めた奥歯から血の味が漂い、そりゃあ胃薬(生薬)を何包飲んでも効かないほどの重圧であったに違いありませんなァ!(ここで講談師はふと扇子を釈台に置き、己の左の目尻を指の腹で強く揉む)
これぞ、絶対的権力の前に無力化される、中間管理職の深い悲哀!
さあさあ、不折の管領、波乱の第四十五席でございます!
*
ビリッ、ビリリリッ!
上杉憲実は、無表情のまま、目の前にあった和紙の束を引き裂いていた。
それは、数日前に彼が徹夜で、自身の指の皮が擦り剥けるまで算木を弾いて作成した『和解条件案』の控えであった。
「……意味がなかったな。俺が関東の生産インフラを維持するために弾き出したコスト計算も、持氏公を生かすことで得られる将来的な治安維持のメリットも」
憲実は、引き裂いた紙片を冷たい板の間に放り投げた。
紙片がパラパラと落ちる乾いた音が、深夜の執務室に虚しく響く。
「義教公にとっては、我々支社の人間がどれだけ頭を使ってシステムを最適化しようが、そんなものは『自分の気分』一つで覆せる程度のゴミだったというわけだ」
憲実の低い声には、怒りよりも深い虚無感が滲んでいた。
組織のトップが、論理ではなく感情で動く。これほど救いのないバッドエンドはない。
「憲実様」
背後の襖が開き、長尾景仲が足音もなく現れた。その手には、新たな決裁書類……いや、死刑執行のリストが握られている。
「京都本社からの命令は絶対です。我々がこれを拒否すれば、今度は我々が『本社の意向に逆らうバグ』として、今川軍や他の国人たちに物理的に排除されることになります」
景仲は、散乱する和解案の紙片を一瞥すらせず、その上に新たな書類をドンと置いた。
「称名寺への強襲作戦は、明日の未明に決定しました。持氏公を自害に追い込み、その首を確保する。そして……」
景仲の無機質な声が、一瞬だけ止まる。
「……共に寺に籠もっている持氏公のご子息たちも、本社の命令通り、一人残らず物理的に排除(殺害)します」
憲実は、ピクリと眉を動かした。
子供まで殺す。それは、関東武士の感情を極限まで逆撫でし、反乱のリスクを何十倍にも跳ね上げる、最も非合理的な愚策である。
「……景仲。俺は、かつて仕えた社長の首を獲ることは、まだ理解できる。だが、何も知らない子供たちまで巻き込んでシステムを崩壊させるような真似を、俺のハンコでやれというのか」
「はい。それが『組織の決定』です」
景仲の目は、氷のように冷たい。
「あなたが京都の傘下に入った以上、本社の決定がどんなに非合理的であろうと、それを末端に執行させるのが管領(中間管理職)の仕事です。あなたが坊主になろうが、その頭に管領の帽子を被せて、子供を殺す書類にサインさせるだけです。……明朝の出立までに決裁を。拒否権はありません」
逃げたい超有能と、絶対に逃がさない現実の悪魔。
憲実は、直垂の懐にある麻の紙の「出家願」が、今はただの重たい石のように感じられた。
辞表を出して逃げれば、自分は助かる。だが、自分が逃げれば、景仲が、あるいは今川が、より残虐な方法でこの事務処理を行うだろう。
憲実は、左の目尻を指の腹で血が滲むほど強く揉み込み、冷え切った硯に墨を擦り始めた。
ガリ、ガリ、ガリ。
自らの知恵と努力が完全に否定された絶望の中、彼はただ、機械のように非情な決裁書類にハンコを叩きつける作業に戻った。
ガツン。
深夜の陣屋に、悲痛な響きを伴った青銅の音が虚しく響き渡った。
*
パパン!
「おお、なんたる悲壮なる事務処理! 己の和解案を破り捨て、ただ本社の命令に従うだけの歯車となった管領・憲実!
彼が叩きつけたそのハンコは、かつての主君のみならず、罪なき子供たちの命までも奪う、修羅の烙印でございました!
……まあ、その絶望のハンコの横で、長尾景仲が『はい、これで明日から粛清業務の開始ですね』と、早くも人員配置の計算を始めていたなど、歴史の華やかなる絵巻には決して残らぬ些末なことにございますなァ!
さあ、運命の夜明け! 称名寺に突入する山内上杉軍を前に、足利持氏公はいかなる最期を遂げるのか! 見事なる忠臣の知略がいかに歴史を動かすのか、次回を乞うご期待!」




