第39話 冷たい計算式
第39話 冷たい計算式
パパン!
お立ち会い! 戦とは、血湧き肉躍る英雄たちの武勇伝ばかりではございません。その裏には必ず、算盤を弾き、兵糧を数え、無慈悲な帳尻合わせに追われる者たちがいるのでございます!
主君・持氏公の軍勢が崩壊し、関東の覇権が京都本社へと移りゆく中、我らが管領・上杉憲実殿は、ただ一人、果てのない事後処理(残業)の泥沼に沈んでおりました!
……まあ、当時の執務室には、膨大な死者の数を記録する木簡の乾いた音と、夜通し算木を弾き続けた憲実殿の、指の皮が擦り剥けて滲んだ血の匂いが充満し、そりゃあ呼吸も浅くなるような息苦しさであったに違いありませんなァ! ええ、あの算木の角が指に食い込む痛みの感触たるや、まさに地獄……おっと!(ここで講談師はふと扇子を釈台に置き、己の左の目尻を指の腹で強く揉む)
これぞ、天下を動かす知将の、人知れぬ血を吐くような苦悩!
さあさあ、不折の管領、波乱の第三十九席でございます!
*
パチッ……パチッ……。
上野国・平井城の執務室。
深夜の冷気が忍び込む中、上杉憲実は死んだ魚のような目で、無数の算木を動かし続けていた。
彼の目の前には、長尾景仲や伝令たちが持ち込んだ、絶望的な量の木簡や和紙が山積みになっている。
(……相模方面での戦死者、約八千。餓死・凍死による損耗、およそ一万五千。逃亡して行方不明となった者、三万以上……)
カチャ。
憲実の指先が算木を弾くたび、関東という巨大な生産インフラから、どれほどの労働力が永遠に失われたかが冷酷な数字となって現れる。
彼は無意識に、算木を弾きすぎて皮が剥け、血が滲んだ指先を直垂に擦り付けた。
「憲実様」
襖がギイと開き、長尾景仲がいつものように無表情で現れた。その手には、また新たな「負債」のリストが握られている。
「相模川沿いの村落からの報告です。今川軍の略奪と、我々の『強制徴発』により、十を超える村が完全に物理的機能を停止(全滅)しました。来春の税収は、この地域一帯でゼロとなります」
「……」
憲実は何も答えない。答えたところで、失われたカロリーと命は戻ってこない。
「さらに、持氏公の敗走に伴い、これまで鎌倉府に属していた国人たちが、次々と我々の陣営に寝返りを申し出ております。彼らは皆、『京都本社からの恩賞(見返り)』を確約するよう求めてきております」
ドン、と。
景仲が、未決裁の書類の山の上に、青銅製の「印章」を置いた。
「我々が京都の正規軍として認められた以上、彼らの要望には応えねばなりません。関東の土地を切り刻み、彼らに分け与える『知行宛行状』の作成が必要です。……計算のやり直しですね」
憲実の胃の腑が、ギリリと捻り上げられた。
戦は終わったのではない。トップが自滅したことで、逆に「誰がどの土地を奪うか」という、最も醜悪で泥臭い事後処理のフェーズが始まったのだ。
(……俺は、ただ静かにバックレたかっただけなのに。なぜ、他人の起こした炎上プロジェクトの尻拭いで、毎日毎日、領土の計算ばかりさせられているんだ)
憲実は、直垂の懐にある「出家願」がカサリと鳴るのを感じた。
これを突きつけて「辞める」と宣言すれば、どれほど楽だろうか。だが、今彼がシステムから外れれば、恩賞に群がる国人たちと、略奪を続ける今川軍によって、関東は完全に修復不可能な荒野となる。
「……景仲。この土地の配分案だが、今川の連中には駿河国境沿いの三郡だけをくれてやれ。それ以上は関東のインフラに食い込ませるな」
憲実は、死んだ魚の目のまま、新たな計算式を立ち上げた。
「寝返ってきた国人たちには、持氏派の没収領地を細かく切り刻んで与えろ。一箇所に巨大な権力を持たせるな。物理的に反乱が起こせないレベルまで、細分化して管理する」
「……御意。合理的な判断です」
景仲は、わずかに目を細めて頷いた。
「あなたがその冷徹な計算式を維持し続ける限り、この関東のシステムは回ります。あなたが坊主になろうが、その頭に管領の帽子を被せて、死体の山の帳尻合わせをさせるだけです。さあ、夜が明けます。墨をお擦りください」
逃げたい超有能と、絶対に逃がさない現実の悪魔。
憲実は、左の目尻を指の腹で強く揉み込み、血の滲む指で冷え切った硯に墨を擦り始めた。
ガリ、ガリ、ガリ。
ガツン、ガツン。
数字となって消えた命の穴埋めと、欲望にまみれた恩賞の計算。深夜の平井城に、かすれた墨の音と、絶望の決裁書類にハンコを叩きつける鈍い音だけが、虚しく響き続けた。
*
パパン!
「おお、なんたる苦悩! なんたる重責! 戦場の血生臭さとは無縁の静寂なる執務室で、管領・憲実殿は関東の未来という途方もない重圧と一人戦っておられたのでございます!
算木を弾く指先から流れる血は、まさに彼が背負った天下万民の命の重さ! その痛みを堪え、ただひたすらに大局を見据えるそのお姿……!
……まあ、その苦悩の裏で、長尾景仲が『はい、計算やり直し』と容赦なく書類の山を積み上げていたなど、歴史の華やかなる絵巻には決して残らぬ些末なことにございますなァ!
さあ、事後処理の泥沼でもがく憲実! 一方、敗走した足利持氏公は、ついに最期の時を迎えようとしていた! 見事なる忠臣の知略がいかに歴史を動かすのか、次回を乞うご期待!」




