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不折の管領  作者: あめたす


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第35話 伝令少女の数字

第35話 伝令少女の数字


 パパン!


 お立ち会い! 戦の行方を決めるのは、刃の交わりだけではございません。後方から届けられる『情報』こそが、将の命運を左右する要となるのでございます!

 無事に上野国へと逃げ延び、京都本社の正規軍と合流を果たした我らが管領・上杉憲実殿。しかし、彼の元には、かつての主君・足利持氏公の軍勢が、いかにして崩壊していったかという、目を覆いたくなるような惨状の報告が次々と舞い込んでくるのでございます!

 まあ、当時の陣屋には、報告書にこびりついた血の匂いと、戦場を駆けてきた伝令の少女が放つ、埃と泥にまみれた汗の酸っぱい臭いが充満し、そりゃあ呼吸をするだけで胃がせり上がるような空間であったに違いありませんなァ!(ここで講談師はふと扇子を釈台に置き、己の左の目尻を指の腹で強く揉む)

 これぞ、無慈悲なる数字が突きつける、戦場のリアル!

 さあさあ、不折の管領、波乱の第三十五席でございます!


     *


「……以上が、箱根の防衛線突破後における、持氏公本軍の損耗状況でございます」


 上野国・平井城の軍議の間。

 泥と火山灰で真っ黒に汚れた小柄な少女——長尾景仲直属の伝令「お駒(こま)」が、抑揚のない声で報告を終えた。

 彼女が提示した木簡には、生々しい悲鳴や武勇伝は一切書かれていない。あるのはただ、冷徹な「数字」だけである。


『第一陣、箱根関突破後に補給が完全に停止。餓死者および逃亡者により、半数が物理的機能を喪失』


『第二陣、今川軍の夜襲により三割が焼死。残存部隊は指揮系統を失い暴徒化、近隣の村落を略奪中』


『本陣の持氏公、残存兵力約一千と共に鎌倉方面へ後退を開始するも、士気は完全に崩壊』


 上杉憲実は、冷たい板の間に正座したまま、死んだ魚のような目でそのデジタルな数値を眺めていた。

 彼が弾き出した最悪の物理演算が、現実の事象として完全に確定したのだ。

 精神論で兵站を無視したトップの末路。それは、現場の人間がただ無惨にすり潰されていくという、最も救いのない崩壊劇だった。


「……お駒。道中、今川の連中は何か言っていたか」


 憲実のボソボソとした問いかけに、お駒は泥だらけの顔をピクリとも動かさずに答えた。


「今川軍の将兵は、『鎌倉の田舎侍は、飯も食わずに死んでいくから矢の節約になって助かる』と、嘲笑しておりました」


 憲実は、膝の上で関節が真っ白になるほど強く拳を握った。

 怒りではない。トップの無能さが、敵から『コスパが良い』と嘲笑されるほどの惨めな死を現場に強要したことに対する、深い絶望感だった。


「憲実様」


 お駒の背後から、長尾景仲が足音もなく進み出た。彼の手には、新たな決裁書類が握られている。


「持氏公の軍勢が崩壊したことで、我々のタスクは『戦争』から『残党の事後処理』へとフェーズを移行しました。これは、逃亡して暴徒化した持氏軍の兵士たちを、治安維持のために物理的に排除(処刑)する命令書です」


 ドン、と。

 景仲が、木製の天板に青銅製の重い「印章(ハンコ)」を置いた。


「……景仲。彼らは、俺が裏切って補給を絶ったから暴徒になったのだぞ。俺の手で餓えさせた連中を、今度は俺の手で殺せというのか」


「はい。彼らが暴徒化した理由は問題ではありません。現在、彼らが『地域の生産インフラを破壊するバグ』として稼働している以上、システムを管理する我々が責任を持ってデバッグ(殺害)しなければならないのです」


 景仲の目は、氷のように冷たい。


「あなたが京都の傘下に入った以上、関東の治安維持は我々山内上杉の業務となります。あなたが坊主になろうが、その頭に管領の帽子を被せて、かつての味方を虫けらのように殺す書類にサインさせるだけです。……明日の朝までに決裁を。拒否権はありません」


 逃げたい超有能と、絶対に逃がさない現実の悪魔。

 憲実は、直垂(ひたたれ)の懐にある麻の紙の「出家願」がカサリと鳴るのを感じながら、震える手を硯(すずり)へと伸ばした。


 ガリ、ガリ、ガリ。


 ガツン、ガツン。


 飢えて狂ったかつての部下たちを、ただの数字として処理するための決裁書類。深夜の平井城に、かすれた墨の音と、非情なるハンコを叩きつける鈍い音だけが、虚しく響き続けた。

 お駒は、その音を背で聞きながら、無言で泥だらけの足を運び、次の伝令任務へと闇の中へ消えていった。


     *


 パパン!


「おお、なんたる冷酷なる数字の羅列! かつて苦楽を共にした味方が、次々と餓えと戦火に散っていく様を、ただ数字の増減として受け止めねばならぬ管領・憲実の悲哀!

 これぞ、大将の座に就く者が避けられぬ、血の涙を流すような事務処理でございます! そして、その惨状を一切の感情を交えずに報告する伝令の少女・お駒!

 ……まあ、その無機質な報告の裏で、彼女自身が戦場を駆け抜けるためにどれほどの泥水をすすり、死体の上を這いつくばってきたかなど、歴史の華やかなる絵巻には決して残らぬ些末なことにございますなァ!

 さあ、完全に崩壊した持氏軍! 追いつめられた鎌倉公方は、いかなる最期を遂げるのか! 見事なる忠臣の知略がいかに歴史を動かすのか、次回を乞うご期待!」


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