第34話 兵糧のロジスティクス
第34話 兵糧のロジスティクス
パパン!
お立ち会い! 戦は気合いや大義名分だけで勝てるものではございません。前線で血を流す兵たちを支えるのは、後方から絶え間なく届けられる「兵糧」という名の命綱!
京都本社側へと寝返り、見事に木戸軍を無力化した我らが管領・上杉憲実殿! しかし、彼が率いる一万の軍勢とて、霞を食べて生きてはいけません。自軍の生命線を確保するため、憲実殿は非情なる決断を迫られるのでございます!
まあ、当時の陣屋の執務机には、略奪同然の徴発を受けた村の者たちが流した血の生臭さと、それを記録する帳簿の糊の酸っぱい匂いがこびりつき、そりゃあ目を背けたくなるような現実の重みであったに違いありませんなァ!(ここで講談師はふと扇子を釈台に置き、己の左の目尻を指の腹で強く揉む)
これぞ、綺麗事では済まされぬ、戦場という名の極限の実務!
さあさあ、不折の管領、波乱の第三十四席でございます!
*
「……木戸軍、完全に瓦解いたしました」
箱根の山中に張られた山内上杉軍の陣幕。
伝令の報告を、上杉憲実は冷たい板の間に正座したまま、死んだ魚のような目で聞いていた。
無言の圧力と、今川軍の執拗な弓矢の雨。その二つのストレスに耐えきれず、木戸範実の軍勢はついに崩壊し、霧散したという。憲実の冷徹な物理演算が弾き出した通りの結果であった。
だが、安堵する暇はない。
「憲実様」
長尾景仲が、足音もなく現れた。その手には、分厚い和紙の帳簿が握られている。
「我々も、これ以上この灰の山に留まることは不可能です。一万の兵を維持するための兵糧が、明日の昼には完全に底を突きます」
持氏を裏切る際、景仲は補給線を上野国方面へ切り替える手筈を整えていた。しかし、富士の火山灰によるインフラの物理的破壊は、彼らの想定すら超えていた。荷車が灰に埋もれ、予定していた補給物資の六割が届いていないのだ。
「……近隣の村落からの調達は?」
「すでに今川軍が、根こそぎ刈り取った後です。あのハゲタカどもは、軍資金の節約のために現地調達(略奪)を基本システムとして組み込んでおります」
憲実は、膝の上で白くなるほど強く拳を握った。
京都本社の正規軍として参戦した今川だが、その実態は独立採算の傭兵部隊である。彼らは関東の民の生死など一ミリも気にしていない。
「……では、どうする。気合いでカロリーは生み出せぬぞ」
「残された手段は一つです。相模川の対岸、まだ火山灰の被害が比較的少ない地域から、強制的に冬営用の種籾を徴発するのです」
ドン、と。
景仲が机の上に置いたのは、青銅製の重い「印章」だった。
そして、その横に広げられたのは『非常事態に伴う、相模川東岸の村落への強権的徴発令』。
「……景仲。それは、来年の関東の農地を完全に物理的死に至らしめる行為だぞ。種籾を奪えば、来春、彼らは何も植えられず、確実に餓死する」
「ええ、計算通りです」
景仲の目は、一切の光を反射しない。
「しかし、今ここで我々の軍勢が一万の餓死体となれば、京都本社からの『関東統治の委託』は取り消され、我々山内上杉家も物理的に消滅します。未来の農民の命を前借りしてでも、現在のシステムを維持しなければならないのです」
憲実は、左の目尻を指の腹で血が滲むほど強く揉み込んだ。
持氏の狂気を止めるために裏切ったはずが、結局は自分も、組織を回すために末端の領民をすり潰すという同じ行為を強要されている。
「あなたが京都の傘下に入るという泥を被った以上、この決裁から逃げることは許されません。あなたが坊主になろうが、その頭に管領の帽子を被せて、領民の未来を奪う書類にサインさせるだけです。……明朝の出立までに決裁を。拒否権はありません」
逃げたい超有能と、絶対に逃がさない現実の悪魔。
憲実は、直垂の懐にある麻の紙の「出家願」がカサリと鳴るのを感じながら、震える手を硯へと伸ばした。
ガリ、ガリ、ガリ。
ガツン、ガツン。
自軍のカロリーを確保するため、何の罪もない領民の明日を奪う決裁書類。深夜の陣幕に、かすれた墨の音と、非情なるハンコを叩きつける鈍い音だけが、虚しく響き続けた。
この泥舟は、沈まない代わりに、周囲のすべてを巻き込んで腐海を進んでいく。
*
パパン!
「おお、なんたる過酷なるロジスティクス! 自軍一万の兵を飢えから救うため、己の心を鬼にして領民からの徴発を決断した管領・憲実!
これぞ、将たる者が背負わねばならぬ、血と泥に塗れた重き十字架でございます! そして、その非情な実務を少しの揺らぎもなく執行する長尾景仲の冷徹さ!
……まあ、その涙の決断の裏で、種籾を奪われた農民たちが来年の春にどれほどの地獄を見ることになるかなど、歴史の華やかなる絵巻には決して残らぬ些末なことにございますなァ!
さあ、兵糧を確保し、ついに動き出す山内上杉軍! 彼らが向かう先には、いかなる運命が待ち受けているのか! 見事なる忠臣の知略がいかに歴史を動かすのか、次回を乞うご期待!」




