第33話 箱根関の防衛線
第33話 箱根関の防衛線
パパン!
お立ち会い! 組織に見捨てられ、補給も絶たれた最前線。そこに残された者たちを突き動かすのは、もはや大義でも忠義でもなく、純粋なる「死への恐怖」と「生存への執着」のみにございます!
箱根の関を死守する鎌倉府の猛将・木戸範実! 彼は、迫り来る今川の傭兵軍団と、背後から迫るかつての上司・上杉憲実の挟み撃ちという絶望的な状況下で、泥水をすすりながらの地獄の遅滞戦闘を決行するのでございます!
まあ、当時の箱根の陣地には、兵たちが餓えを凌ぐために噛み砕いた木の皮の青臭い匂いと、傷口から流れ出るドス黒い血の生臭さが充満し、そりゃあ目を覆いたくなるような惨状であったに違いありませんなァ!(ここで講談師はふと扇子を釈台に置き、己の左の目尻を指の腹で強く揉む)
これぞ、見捨てられた現場の、血塗られた意地と執念!
さあさあ、不折の管領、波乱の第三十三席でございます!
*
「ひけぇっ! 岩陰に隠れろ! 無駄な矢は撃つな!」
箱根関の険しい山道。
木戸範実の怒声が、火山灰の舞う灰色の空に虚しく響き渡る。
彼の顔は泥と煤で真っ黒に汚れ、かつて憲実のストライキ鎮圧で支給された銭で買ったはずの具足も、今やボロボロにひび割れていた。
ヒュン、ヒュン、ヒュン!
眼下の街道から、今川軍の統制された弓隊が、正確無比な制圧射撃を浴びせてくる。
今川軍は決して無理な突撃はしない。箱根の険しい地形を前に、彼らは「一定の距離から矢の雨を降らせ、敵の損耗率が基準値に達するまで待つ」という、極めて事務的な作業を繰り返しているだけだった。
「木戸様! 右翼の陣が崩れました! これ以上は……!」
血まみれの伝令が、木戸の足元に崩れ落ちる。その口からは、空腹と疲労で黄色い胃液が吐き出されていた。
兵糧は三日前に完全に尽きた。兵たちは、火山灰にまみれた泥水をすすり、木の皮を齧って飢えを凌いでいる。
「……耐えろ。ここで我らが崩れれば、鎌倉は完全に丸裸になる。公方様が態勢を立て直すまで、一歩も退くことはならん!」
木戸は、ひび割れた声で部下たちを叱咤した。
彼を突き動かしているのは、もはや持氏への忠義というよりは、「最前線に置き去りにされた現場指揮官としての意地」という名の呪いだった。
「申し上げます! 後方より、山内上杉の軍旗が接近!」
新たな伝令の報告に、木戸の動きがピタリと止まった。
「……憲実様か」
木戸は、かつて自分たちのストライキに対し、私財を投げ打って銭を与えてくれたCFOの顔を思い浮かべた。あの冷たい、しかし確かな計算に基づいた決断。
だが、今の憲実は、京都本社の命令により「木戸軍の背後を突く」というタスクを帯びて迫ってきている。
上野国方面から箱根へと続く山道。
上杉憲実は、馬上で死んだ魚のような目を前方に向けたまま、軍勢を率いていた。
「憲実様」
並走する長尾景仲が、無機質な声で報告する。
「前方、木戸軍の防衛線です。今川軍との交戦により、すでに彼らの戦力は三割以下に減少しております。我々が背後から突撃すれば、一時間で完全に物理的排除が完了します」
景仲の言葉は、かつての味方を「排除すべき障害物」としか認識していない。
憲実は、手綱を握る手の関節が白くなるのを感じた。
(……ここで木戸を叩き潰せば、俺の京都本社への「忠誠の証明」は完了する。だが、それは、かつて俺が身銭を切って生かした命を、自らの手で刈り取るということだ)
憲実の左の目尻が、痙攣するようにピクピクと動いた。
彼は指の腹でそこを強く揉み込むと、極限まで浅くした呼吸で、静かに口を開いた。
「……全軍、停止」
憲実の低い声に、一万の軍勢がピタリと足を止めた。
景仲が、微かに眉をひそめる。
「憲実様? ここで止まれば、京都の監査役・満済殿の命令違反となりますが」
「木戸軍を物理的に排除する必要はない。彼らの目的は『鎌倉へのルート封鎖』だ。我々が攻撃の意思を見せず、ただ『背後に完全武装の一万が展開している』という物理的な圧力をかけ続ければ、彼らの士気は自然崩壊する」
憲実は、景仲の冷たい視線を受け止めながら続けた。
「……弓隊を前面に展開させろ。ただし、矢は一歩も放つな。これは、無駄なカロリー消費を抑えるための『最適化』だ」
それは、京都本社の命令を形式上は遵守しつつ、かつての部下を直接殺すことだけは避けるための、ギリギリの「言い訳」だった。
景仲は、憲実の死んだ魚のような目を数秒見つめた後、スッと視線を前に戻した。
「……承知いたしました。弓隊、展開。矢は放つな」
ガシャガシャと、山内上杉軍の弓隊が無言で陣形を整える。
箱根の山中に、今川軍の矢の音と、山内上杉軍の不気味な沈黙だけが、重く圧しかかるように響き続けた。
木戸軍の完全崩壊は、もはや時間の問題であった。
*
パパン!
「おお、なんたる悲壮なる対峙! かつて命を救った部下を前に、攻撃の命を下すことができず、ただ無言の圧力をかける道を選んだ管領・憲実!
刃を交えずとも、その沈黙こそが最大の攻撃となる。これぞ、血を流さずして敵を降す、天才管領の恐るべき知略であり、同時に、かつての絆に対する彼なりの最大限の情けであったのでございます!
……まあ、その無言の圧力の裏で、前からは今川の矢の雨、後ろからはかつての上司の無言の圧力という絶望的な板挟みに遭い、現場の木戸軍がどれほどのストレスで胃を壊していったかなど、歴史の華やかなる絵巻には決して残らぬ些末なことにございますなァ!
さあ、完全に退路を断たれた箱根の防衛線! いよいよ崩壊の時が迫る! 見事なる忠臣の知略がいかに歴史を動かすのか、次回を乞うご期待!」




