第30話 賽は投げられた
第30話 賽は投げられた
パパン!
お立ち会い! 武士の生き様とは、いかに美しく散るか、あるいはいかに泥に塗れても大局を成すか。その選択の連続にございます!
主君・足利持氏公の狂気なる進軍から、ついに決死の離脱を果たした管領・上杉憲実殿! 背後に迫る一色直兼の猛追を、血を吐くような殿の犠牲によって振り切り、ついに己の領地たる上野国へと逃げ延びたのでございます!
灰にまみれたその姿は、かつての華やかなる管領の面影はありません。しかし、その瞳の奥には、関東の安寧を取り戻すという、何よりも熱く、そして重き忠義の炎が燃え盛っていたのでございます!
まあ、当時の上野国の陣屋には、凍傷で黒く変色した兵たちの手足から放たれる腐臭と、限界まで擦り減った硯から漂う膠の匂いが立ち込め、そりゃあ目を背けたくなるような惨状であったに違いありませんなァ!(ここで講談師はふと扇子を釈台に置き、己の左の目尻を指の腹で強く揉む)
これぞ、滅びゆく主君を背に、新たな時代を切り拓かんとする男の壮絶なる第一歩!
さあさあ、不折の管領、第一章の結びとなる第三十席でございます!
*
ヒューーーッ……。
上野国・平井城。
関東山地から吹き下ろす空っ風が、急造の陣屋の幕を激しく揺らしている。
上杉憲実は、冷たい板張りの床に崩れ落ちるように座り込んでいた。直垂は火山灰と泥で完全に色を失い、すり切れた裾からは凍傷で変色した足先が覗いている。
彼が率いた一万の軍勢は、執拗な一色直兼の追撃と、箱根の異常気象により、この城に辿り着いた時点で三割の物理的欠損(死傷・逃亡)を出していた。
(……だが、逃げ切った)
憲実は、氷のように冷え切った自らの手を握りしめた。
本軍への補給線は、長尾景仲の事前工作により完全に切断されている。食糧も防寒具もない持氏の十万の軍勢は、今頃、箱根の灰の中で完全に立ち往生し、自壊の時を迎えているはずだ。
これで、関東全域が焼け野原になるという最悪のバッドエンドは回避された。
「憲実様」
陣屋の襖が開き、長尾景仲が足音もなく姿を現した。
彼もまた泥まみれであったが、その手にはすでに、分厚い和紙の束と青銅製の「印章」が握られている。
「京都の幕府軍より、早馬が到着いたしました。彼らはすでに駿河まで進軍しており、持氏公の本軍と対峙する構えです」
景仲の平坦な声が、状況の推移を告げる。
「幕府軍の総大将より、我ら山内上杉家への『合流要請』の書状が届いております。これにハンコを押せば、我々は正式に京都本社の傘下となり、持氏公は『朝敵』として討伐されることになります」
ドン、と。
青銅のハンコが、冷たい板の上に置かれた。
憲実の直垂の懐で、麻の紙の「出家願」がカサリと音を立てる。
ただ辞表を出してバックレたかっただけなのに、気付けば自分が、長年仕えたトップを死地に追いやり、会社を倒産させる引導を渡す立場になっていた。
「……景仲。俺のハンコ一つで、昨日まで頭を下げていた上司が、朝敵として物理的に抹殺されるのだな」
「はい。システムを維持するためには、エラーを起こした古いトップを物理的に排除し、新しい本社に接続しなければなりません。それが『クーデター(戦)』という事業の決算です」
景仲の目は、一切の感情を反射しない。
「あなたが京都側へ寝返るという泥を被った以上、この決裁を止めることは許されません。あなたが坊主になろうが、その頭に管領の帽子を被せて、かつての主君を殺す書類にサインさせるだけです。さあ、夜が明けます。墨をお擦りください」
逃げたい超有能と、絶対に逃がさない現実の悪魔。
憲実は、左の目尻を指の腹で血が滲むほど強く揉み込むと、冷え切った硯に墨を擦り始めた。
ガリ、ガリ、ガリ。
ガツン、ガツン。
かつての仲間を売り渡し、狂った主君を切り捨てるための決裁書類。深夜の平井城に、かすれた墨の音と、非情なるハンコを叩きつける鈍い音だけが、虚しく響き続けた。
賽は投げられた。もう、後戻りはできない。
*
パパン!
「おお、なんたる数奇なる運命! 主君を救わんと尽力しながらも、関東の民を守るため、ついに反逆の刃を研ぐこととなった管領・憲実!
その胸中に渦巻くは、主君への尽きせぬ忠義と、天下万民への大いなる慈悲! 血の涙を流しながら打ったその寝返りの布石は、まさに歴史の必然、大義の決断であったのでございます!
さあ、管領の離反により、ついに関東の地は真っ二つに割れた! 孤立した鎌倉公方・足利持氏は、迫り来る幕府の大軍を前にいかに戦うのか! そして、己の主君に刃を向けることとなった憲実の運命やいかに!
これより物語は、血と炎の全面戦争【決断・激突編】へと突入いたします! 見事なる忠臣の知略がいかに歴史を動かすのか、次回を乞うご期待!」




