第29話 決別と逃亡
第29話 決別と逃亡
パパン!
お立ち会い! 長きに渡り苦楽を共にした主君への別離。それは武士にとって、身を引き裂かれるよりも辛き道程にございます!
長尾景仲殿の黙認を得て、ついに本軍からの離脱を決行した我らが管領・上杉憲実殿! しかし、その動きは猛将・一色直兼の知るところとなり、恐るべき追手が迫り来るのでございます!
泥に塗れ、灰にまみれながらの壮絶なる逃避行。まあ、当時の山道には、何日も風呂に入らぬ兵たちのすえた汗の臭いと、湿った火山灰が放つ硫黄のねっとりとした匂いが充満し、そりゃあ呼吸のたびに喉が焼け付くような地獄の行軍であったに違いありませんなァ!(ここで講談師はふと扇子を釈台に置き、己の左の目尻を指の腹で強く揉む)
これぞ、己の信じる大局のために汚名を被る、東国武士の魂の逃避行!
さあさあ、不折の管領、波乱の第二十九席でございます!
*
ザクッ、ザクッ、ザクッ。
深夜の箱根の山中。膝の高さまで降り積もった火山灰を掻き分ける鈍い音が、等間隔で鳴り響く。
上杉憲実は、馬を降り、泥と灰にまみれながら自らの足で山道を下っていた。背後には、彼の直属部隊である山内上杉軍一万が、一切の松明を点けずに無言で従っている。
(……このルートなら、夜明けまでに相模川を越え、俺の拠点である上野国の国境線まで到達できる)
憲実の脳内では、常に最短距離と最小の消費カロリーを弾き出す物理演算が稼働し続けている。
先陣を切って駿河方面へと進軍した足利持氏の本軍を完全に置き去りにする、大規模なバックレ(離反)工作。それは、景仲が事前に行った「補給線を全て上野国方面へ切り替える」という実務処理によって、目前の成功へと近づいていた。
「申し上げます!」
突如、後方から駆け寄ってきた伝令が、灰に塗れて平伏した。その息からは、限界を超えた運動による鉄の臭いがする。
「後方より、追手が迫っております! 一色直兼の軍勢、およそ三千! すでに二里の距離まで迫っております!」
憲実は、感情の抜け落ちた目で振り返った。
一色直兼。持氏の精神論に最も深く洗脳され、理屈ではなく「気合いと忠義」で物理法則を無視する猛将。奴ならば、まともな補給がなくとも、怒りだけで兵を駆り立てて追いついてくるだろう。
「……後衛の三中隊を切り離し、殿として防衛線を構築させよ。敵は飢えている。まともに戦う必要はない。灰の斜面を利用して落石を誘発し、物理的に進軍ルートを塞ぐだけでいい」
憲実の指示は、味方を「足止め用の捨て駒」として冷徹に切り捨てるロジックだった。
「はっ!」
伝令が駆け去った後、憲実は直垂の懐に手を入れた。そこにある麻の紙の「出家願」が、カサリと音を立てる。
この紙切れを提出して辞めるだけのはずが、気付けば味方同士で血を流す全面戦争への引き金を引いていた。
「憲実様」
いつの間にか、長尾景仲が横に並んでいた。彼もまた、灰にまみれてはいるが、その顔には微塵の焦りもない。
「後衛の損耗率は、計算上四十パーセントに達します。これにより失われる労働力の補填として、上野国到着後、直ちに農民の追加徴兵を行う必要があります。この移動中に、布告書の文面を……」
「……景仲。後ろで、俺の部下たちが死んでいるのだぞ。この暗闇の中で」
遠くから、微かに兵たちの断末魔と、崩れ落ちる落石の轟音が響いてくる。
「ええ。組織のシステムを新しい本社(京都)へ移行させるためには、旧システムからの『物理的な切断処理』が必要です。彼らはそのための必要経費です」
景仲は、歩みを止めることなく、懐から和紙の束を取り出した。
「あなたが京都側へ寝返るという泥を被った以上、彼らの死を無駄にするわけにはいきません。歩きながらで結構です、この徴兵令と、京都の満済殿への『合流予定時刻』を記した密書にハンコを。……拒否権はありません」
逃げたい超有能と、絶対に逃がさない現実の悪魔。
ドン、と。
景仲が、暗闇の中で青銅製の「印章」を突きつける。
憲実は、左の目尻を指の腹で血が滲むほど強く揉み込むと、歩きながら冷え切った硯に墨を擦り始めた。
ガリ、ガリ、ガリ。
ガツン、ガツン。
背後で散っていく味方の命を数字として処理し、自らは泥舟から脱出する。灰降る地獄の山道に、かすれた墨の音と、非情なる決裁書類にハンコを叩きつける鈍い音だけが、虚しく響き続けた。
*
パパン!
「おお、なんたる凄絶なる決別! 主君の目を逃れ、暗夜の山道を駆ける管領・憲実! 迫り来る一色の追手を前に、涙を呑んで殿を切り捨てるその苦渋の決断!
これぞ、関東の命運を己の双肩に担う者の、血の涙を流すような大局観でございます! そして、その後ろ盾として一切の感情を交えず、ただ冷徹に戦後処理の書類を整え続ける長尾景仲!
……まあ、その後衛として見捨てられた兵たちが、灰に埋もれながらどれほどの絶望の中で死んでいったかなど、歴史の華やかなる絵巻には決して残らぬ些末なことにございますなァ!
さあ、血塗られた逃避行の果てに、憲実の軍勢はどこへ向かうのか! 見事なる忠臣の知略がいかに歴史を動かすのか、次回を乞うご期待!」




