第3話 前例という名の魔物
第3話 前例という名の魔物
パパン!
お立ち会い! 輝かしい大行軍を成功させ、天下にその名を轟かせた若き管領・上杉憲実! しかし、偉大なる組織というものは、外の敵よりも内に潜む魔物こそが恐ろしいものでございます。
鎌倉府を支える重鎮たち。彼らは古き良き武家の礼節を重んじ、格式を守り抜く忠義の士。若き天才の実務と、伝統を重んじる老臣たちの激突! まあ、当時の政所の床には、幾度も書き直しを命じられた苛立ちからか、筆の竹軸をギリギリと噛み砕いたような、細かい木屑が落ちていたなどと申す者もおりますが、それもまた政への熱情というものでございましょう!(ここで講談師はふと扇子を釈台に置き、己の左の目尻を指の腹で強く揉む)
これぞ日本人が忘れた、和を以て貴しとなす美しき組織の姿!
さあさあ、不折の管領、波乱の第三席でございます!
*
ゆっくりと、ひどく勿体ぶった手つきで広げられる、無駄に巨大で中身のない「礼法作法の巻物」が、カサ、カサと鼓膜を逆撫でする音を立てていた。
鎌倉府・政所の広間。
上杉憲実は、冷たい板の間に正座したまま、自身が提出した決裁書が、目の前の男によって無造作に突き返されるのをじっと見つめていた。
「管領殿。この決裁書は、いけませぬな」
鎌倉府の古参官僚であり、実務能力は皆無ながら家柄だけで総務のトップに座る男、二階堂盛秀が、白粉の匂いを漂わせながら鼻を鳴らした。
「応永年間の前例によれば、国人衆へ通達を出す際は、冒頭に『四季の移ろいと源氏の御威光』を讃える三行の時候の挨拶が必須にございます。また、宛名の文字の大きさは本文より二分ほど大きく書くのが、古き良き鎌倉のしきたり。このような効率ばかりを求めた貧相な書式では、公方様の権威に傷がつきますぞ」
憲実は、膝の上で握りしめた拳の関節が白く変色するのを、直垂の袖で隠していた。
(時候の挨拶で、米が買えるのか。文字の大きさで、矢が飛ぶ距離が変わるのか)
憲実の脳内で、冷徹なロジックが反論を組み立てる。
突き返されたこの書類の目的は、先日の「ハリボテの軍事パレード」で発生した商人への未払い金を、どうにか三分割で支払うためのリスケジュールの稟議である。これを今日中に通して商人に確約状を出さなければ、明日には鎌倉府の信用は完全に底をつき、米一粒すら掛けで買えなくなる。
しかし、二階堂のような「前例とマナー」という実体のないファンタジーにすがりつく老人に正論をぶつければどうなるか。
彼は顔を真っ赤にして激怒し、社内政治のネットワークを使ってこの稟議そのものを棚上げにするだろう。決裁が一日遅れることは、即ち鎌倉府のデフォルト(倒産)を意味し、それは結果的に責任者である憲実への物理的な粛清へと直結する。
生存確率を最大化するための計算式は、一瞬で弾き出された。
「……御意にございます。当方の不調法、平にご容赦を。直ちに前例の通り、正しい書式にて書き直させます」
声の起伏を完全に殺した、完璧なビジネス敬語だった。
「うむ。若き管領殿も、鎌倉の伝統というものを少しずつ学んでいただかねばな」
満足げに頷く二階堂の顔を一切見ず、憲実は冷たい板の間に手をつき、深く頭を下げた。首筋を伝う冷や汗が、襟元へと吸い込まれていく。
自身の執務室へと戻った憲実を待っていたのは、冷え切った硯と、突き返された三百通の書類の山だった。
その書類の山の横に、山内上杉家家宰・長尾景仲が、感情の一切消えた目で立っていた。
「憲実様」
景仲の懐から、分厚い「応永年間の礼法作法」の写しが取り出され、机の上にドンと置かれる。
「二階堂殿の決裁印が下りねば、予算は一文も動きません。商人が夜逃げする前に、前例に則った正しい書式の書類を三百通、全て手書きで作成し直す必要があります」
ドン、と。
景仲が机の上に置いたのは、青銅製の重い「印章」だった。
「明日の朝までに、ここにハンコを。……拒否権はありません」
「景仲」
憲実は、完全に諦めきった、ボソボソとした事務的なトーンで呟いた。無意識のうちに、直垂の懐に手を入れる。そこには麻の紙でできた「出家願」が忍ばせてある。紙が直垂の内側でカサリ、と擦れる音がした。
「……内容が全く同じ書類を、文字の大きさのためだけに徹夜で書き直す。これが鎌倉のシステムか」
ガシッ。
懐に入れようとした憲実の腕を、景仲の太い指が万力のように掴んで止めた。
「はい。それがシステムです。文字の大きさが組織を回すのなら、我々は文字の大きさに命を賭ける。あなたが坊主になろうが、その頭に管領の帽子を被せてデスクに座らせるだけです。さあ、墨をお擦りください」
逃げたい超有能と、逃がさない現実の悪魔。
二人の間に共感など一欠片もない。憲実は小さく息を吐き、左の目尻を指の腹で強く揉むと、冷え切った硯に墨を擦り始めた。
ガリ、ガリ、ガリ。
かすれた重い音が、深夜の鎌倉府に虚しく響き続ける。
「春の陽光うららかに、源氏の御威光天下を照らし……」
無意味な時候の挨拶を書き連ねるたび、憲実が握りしめた筆の竹軸から、ミシッ、と細い繊維が割れる音がした。
*
パパン!
「おお、なんたる忍耐! なんたる器の大きさ! 己の才に驕ることなく、古き良き伝統と礼節を重んじる老臣の教えに素直に従い、徹夜で筆を走らせるその姿!
これぞ、和を以て貴しとなす、日本の美しき組織の姿でございます! そして、その裏には、冷徹に見えながらも主君の成長を促す忠臣・長尾景仲の厳しい導きがあればこそ! ……まあ、文字の大きさを直すためだけに三百の書状を一晩で書き直させるとは、筆の軸も折れんばかりの恐ろしき忠義でございますなァ!
この若き管領の謙虚なる姿勢に、鎌倉府の結束は盤石の岩のごとく固まったに違いありません! さあ、一丸となった鎌倉府の前に、次なる試練がいかに立ちはだかるのか! 見事なる忠臣の知略がいかに歴史を動かすのか、次回を乞うご期待!」




