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不折の管領  作者: あめたす


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第2話 泥塗りの甲冑

第2話 泥塗りの甲冑


 パパン!


 お立ち会い! 企業の威信、組織のメンツ。見栄を張らねば舐められるのが、いつの世も変わらぬ大人の競争社会でございます。

 公方様が突如としてぶち上げたのは、京都の本社を震え上がらせるための大軍事パレード! しかし、我が鎌倉府の金庫は、度重なる戦と浪費ですでにスッカラカンにございました。

 さあ、この絶体絶命の窮地に立たされた我らが管領・上杉憲実。彼は主君の『誇り』を守るため、三日三晩不眠不休で知恵を絞り、見事な知略をもって軍勢を盤石に整えたのでございます! 当時の現場からは、なぜか安物の漆(うるし)と酸っぱい泥の臭いが立ち込めていたと申す者もおりますが、それもまた戦陣の熱気というものでございましょう!(ここで講談師はふと扇子を釈台に置き、己の左の目尻を指の腹で強く揉む)

 東国武士の誇りをかけた、黄金に輝く大行軍!

 さあさあ、不折の管領、波乱の第二席でございます!


     *


 カビと鉄錆、そして鼻の奥を突き刺すような安物の漆の匂いが、冷たい土間の空気にへばりついている。

 深夜の鎌倉府、武具蔵。

 関東において公方に次ぐ権力を誇るはずの男、上杉憲実は、冷え切った土間に敷かれたムシロの上に直接座り込み、泥だらけの両手で古びた兜(かぶと)を撫で回していた。


「管領殿……。金が、ありませぬ。一文も」


 憲実の横で、すり減った筆の先を舐める情けない湿った音がした。鎌倉府の出納を束ねる金庫番、青木勘解由(あおきかげゆ)である。

 青木の足元には、真っ赤な数字だけが羅列された帳簿が無造作に放り出されている。


「先月の討伐戦の未払い分すら、下野(しもつけ)の国人衆に振り込めておりません。公方様が仰る『一万の軍勢を飾り立てる新品の具足』など、どこを逆さに振っても出てきませぬ。もし無理に商人を脅せば、来季の取引を完全に止められ、鎌倉は干上がります」


「わかっている」


 憲実は、胃の腑を直接雑巾のように絞り上げられる痛みに耐えながら、手にした兜の表面に開いた刀傷の凹みに、ペチャリと粘土質の泥を塗り込んだ。

 数刻前、持氏はギラギラと不必要に磨き上げられた大刀の鞘を鳴らしながら「一万の騎馬で京都の小童どもの度肝を抜く」と宣い、一色直兼が軍扇を振り回してそれを煽り立てた。

 一万の騎馬。馬の飼葉だけで一日にどれだけの麦が消えるか。装備を新調すればどれほどの負債が膨れ上がるか。あのトップの脳内には、そんな数字(リアル)は一ミリも存在していない。

 ここで「予算がありません」と正論を吐けば、あの刃渡り二尺八寸の鋼が憲実の頸動脈を切り裂く。ただそれだけのことだった。


「青木、泥をもっと寄越せ。それと、一番安い質の悪い漆でいい。樽ごと持ってこい」


「は……?」


「装備は先の戦のお下がりでいい。兜の凹みや血糊は泥で埋めて、上から漆を厚塗りしろ。遠目には新品に見える。それで『華麗な軍勢』という視覚情報を作れ」


 憲実は感情の消え失せた声で指示を出しながら、自らの指先を真っ黒に染めて泥をこすりつけ続ける。爪の間には泥と漆がこびりつき、洗っても数日は落ちないだろう。


「しかし、一万の兵など……実質、動員できるのは五百が限界にございますぞ」


「その五百を三つの隊列に分け、城下の裏道を迂回させて三度同じ大通りを行進させる。途中で旗指物(はたさしもの)の色だけを付け替えさせろ。二十回歩かせれば、帳簿上は一万になる」


 完全な粉飾決算。実態のない自転車操業の極みである。

 青木が言葉を失って立ち尽くす中、背後の重い蔵の扉がギイと音を立てて開いた。


「憲実様」


 冷たい夜風と共に、山内上杉家家宰・長尾景仲が足音もなく入ってきた。

 景仲の懐から、次々とクシャクシャになった紙が取り出され、土間の隅にある木箱の上に並べられていく。


「見せかけの動員令、並びに、沿道の商人たちへの口止め料の証文、計三百通です」


 ドン、と。

 景仲は、土まみれになって作業をする組織のナンバー2の姿を見ても微塵も表情を変えることなく、青銅製の重い「印章(ハンコ)」を木箱に叩きつけた。


「夜明けの行軍までに、全てにハンコを。このハリボテの儀式を完璧に遂行し、システムを回し続けるのが我々の職分です。……拒否権はありません」


 冷徹な声が、憲実の背中に重くのしかかる。

 憲実は、泥だらけの右手の甲で、左の目尻を強く揉み込んだ。イグサの畳に額をこすりつけた痕が、まだ赤く残って痛む。

 死んだら終わりだ。今は、ただ頭を下げて、手を動かすしかない。


「青木、泥だ。さっさと塗れ。夜が明けるぞ」


 ペチャッ、ペチャッ。


 ガツン、ガツン。


 安い漆の悪臭が充満する暗い蔵の中で、泥を塗る音と、深夜の決裁書類にハンコを叩きつける音だけが、虚しく響き続けた。

 外では、何も知らない若き武士たちが「源氏の誇り」を胸に、明日の行軍を待ちわびて酒を酌み交わす声が聞こえていた。


     *


 パパン!


「見事! いざ夜が明け、蓋を開けてみれば、鎌倉の城下を埋め尽くす見渡す限りの大軍勢! 朝日に照らされ黄金に輝くその甲冑の波に、公方様も大満足、はるか西の京都の本社連中も度肝を抜かれたに違いありません!

 この完璧なる行軍の裏には、山内上杉家家宰・長尾景仲らの緻密なる実務の支えがあればこそ! ……まあ、血の通わぬ機械のごとき冷徹な書類の催促に、管領殿もさぞ寿命を縮めたことでしょうなァ!

 管領・憲実の神がかり的な知略、ここに極まれり! さあ、天下を揺るがす鎌倉府の大躍進、この先いかなる試練が待ち受けるか、次回を乞うご期待!」

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