第1話 狂風の鎌倉府
第1話 狂風の鎌倉府
パパン!
お立ち会い! 歴史というものは、時に非情なる試練を若き俊英に課すものでございます。上に立てば風当たりは強く、下に阿れば志が濁る。いつの時代も、上に挟まれ下に突き上げられる「間の者」の苦悩は、歴史の表舞台には残らぬもの。
……さあて、時は室町、永享の秋。ここに、日本で最も巨大な東国という「支社」のNO.2に就任してしまった、一人の男がおりました。
その名を上杉安房守憲実!
彼が背負いしは、ワンマン上司の果てなき暴走と、冷酷なる本社の無慈悲なる命令! しかし憲実は、主君への無私なる忠義を胸に、己の命を賭して冷たい畳に平伏したのでございます。まあ、当時の憲実の直垂の襟元は、極度の緊張と徹夜の激務による冷や汗で、そりゃあ酷い大豆のような酸っぱい臭いがしていたに違いありませんなァ!(ここで講談師はふと扇子を置き、己の左の目尻を指の腹で強く揉む)
これぞ日本人が忘れた、美しき武家たる者の誉れ!
さあさあ、不折の管領、その過酷なる初陣でございます!
*
乾燥してささくれたイグサの先端が、額の皮膚にチクチクと食い込んでいる。
上杉憲実は、冷たい畳の目をじっと見つめながら、ただ自身の首筋を伝って襟元へと吸い込まれていく冷や汗の軌跡だけを追っていた。
「見よ、憲実! この太刀を!」
頭上で、ミシリ、ミシリと古く軋む床板の音がする。鎌倉公方・足利持氏が、無駄に広く風通しの悪い執務室を練り歩く足音だ。
部屋には、過剰に焚かれた香の煙が白く淀んでいる。業績不振にもかかわらず社長の趣味で並べられた無駄に豪華な調度品を縫うように歩きながら、持氏がギラギラと不必要に磨き上げられた大刀を抜き放ち、鞘をカチャカチャと鳴らした。
「京都の小童どもめが、我が鎌倉府を差し置き、勝手な政を連発しておる。余は源氏の正統なる血脈ぞ! あのくじ引きで将軍になったような小賢しい本社連中に、我が源氏の意地を見せてくれるわ! 近く、大軍勢を動員し、鎌倉城下で天下を揺るがす大行軍を行う!」
バサッ、バサッ。
持氏の足元で、無意味に激しく軍扇をしならせる不快な風切り音が響く。持氏の最側近にして、無能なイエスマン取締役、一色直兼だ。
「公方様の仰る通りにございます! 一万の騎馬を並べ、箱根の関を越えて京都を睨みつけましょうぞ! 武士の魂をもって力で威を示せば、予算など後からついてくるものにございます!」
一色が吠えるたび、足元の炭取りの火の粉がバチバチと爆ぜた。
憲実は、畳に押し当てた顔の、左の目尻を指の腹で強く揉み込みたい衝動を必死に堪えていた。
(……早く終わんねえかな、この時間)
憲実の脳内で高速に弾き出されているのは、極めて冷徹な数字の羅列だった。
現在、鎌倉府(支社)の金庫にある備蓄米は三千石に満たない。ここで一万の軍事動員という大型プロジェクトを立ち上げれば、秋の収穫前に農民を駆り出すことになり、来季の年貢納入率は確実に三割落ちる。おまけに他国から兵糧を調達するルートも、京都本社側の経済封鎖によってすでに七割が塞がれている。
意地。血脈。天下の覇道。
上司と同僚が声高に叫ぶそれらの単語は、憲実にとって一粒の米の収穫量にも、一本の道幅の拡張にも変換できない、無価値な音声ノイズでしかなかった。
今ここで、「兵糧が足りません。費用対効果がマイナスです。書類の提出期限も過ぎています」と、正しいロジックを口にすればどうなるか。目の前でカチャカチャと鳴るあの刃渡り二尺八寸の鋼が、物理的に自分の頸動脈を切り裂く。それだけのことだ。
だから憲実は、膝の上で白くなるほど強く握りしめていた拳の関節をゆっくりと解き、呼吸を極限まで浅くして、ただ一言だけを喉の奥から絞り出した。
「……御意にございます。公方様の御心のままに」
声の起伏を完全に殺した、完璧なビジネス敬語だった。
「おお、流石は管領ぞ! 直ちに各国人衆へ動員の御教書を手配せよ!」
満足げな持氏の足音が遠ざかるのを待ち、憲実はゆっくりと上体を起こした。額には畳の痕が赤く残り、下着は嫌な汗でべったりと肌に張り付いていた。
自身の執務室へと戻ると、そこにはすでに冷え切った硯の匂いが立ち込めていた。
机の上には、天井まで届きそうな紙の山が積まれている。現場からのクレームと、本社からの通達が入り混じったデスワークの空間である。
その書類の山の横に、山内上杉家家宰・長尾景仲が、感情の一切消えた目で立っていた。
「憲実様」
景仲の懐から、次々とクシャクシャになった紙が取り出され、机の上に並べられていく。紙が擦れる乾いた音が、憲実の鼓膜を不快に叩く。
「公方様がまた『一万の大行軍』と騒いでおられるようですね。実質的な予算はゼロですが、体面だけは整える書類を作りました。各国人への動員令、並びに借入金の証文、計三百通です」
ドン、と。
景仲が机の上に置いたのは、青銅製の重い「印章」だった。木製の天板が軋み、鈍い悲鳴を上げる。
「明日の朝までに、ここにハンコを。……拒否権はありません」
「景仲」
憲実は、完全に諦めきった、ボソボソとした事務的なトーンで呟いた。無意識のうちに、直垂の懐に手を入れる。そこには麻の紙でできた「出家願」が忍ばせてある。紙が直垂の内側でカサリ、と擦れる音がした。
「俺のいつもの引き出しに、これを入れておけ。いつでもバックレられるようにな……」
ガシッ。
懐に入れようとした憲実の腕を、景仲の太い指が万力のように掴んで止めた。
「出家など許しません。あなたが坊主になろうが、その頭に管領の帽子を被せてデスクに座らせるだけです。さあ、墨をお擦りください」
逃げたい超有能と、逃がさない現実の悪魔。
二人の間に共感など一欠片もない。憲実は小さく息を吐き、左の目尻を指の腹で強く揉むと、冷え切った硯に墨を擦り始めた。
ガリ、ガリ、ガリ。
かすれた重い音が、深夜の鎌倉府に虚しく響き続けた。
*
パパン!
「おお、なんたる従順! なんたる忠烈! 己の身をすり減らし、主君の途方もなき大望にも『御意』と応じて裏方で血の汗を流すその姿! これぞ関東管領の鑑、家臣一同、涙を禁じ得ません!
さあ、暴走する公方様がぶち上げた、前代未聞の一万の大行軍。予算も兵糧も尽き果てたこの絶望的状況を、我らが天才・上杉憲実はいかなる神算鬼謀をもって乗り越えるのか!
東国武士の意地と誇りがぶつかり合う、歴史の激動! 見事なる忠臣の知略がいかに歴史を動かすのか、次回を乞うご期待!」
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